渡文明(29)有言実行

限界状態から道開ける
行革・教育、次の難題に奮起

自分が歩んできた軌跡を改めて振り返ってみて、人生はいわば再現不能のドラマだなと思う。シナリオをいくら精緻に書いても、その通りには絶対にいかない。

私は既述の通り30代末に、うっかりすれば命を落としかねない大病をして、1年を棒に振った。その他いくつもの山谷を越えて来て、まさに七転び八起きだ。

こうしてつかんだのは、自分を限界状態に追い込むことの大切さである。言葉に出すと、引っ込みがつかない。退路を断つことで爆発的な力を出せる。

「不言実行」は、やらなくても誰にも分からない。逃げ道を用意しているように思える。私のモットーは「有言実行」である。

今の若者たちは閉塞状態にあるといわれるが、ぜひ勇気を出して一歩前に踏み出してほしい。ただし自分の力を過信するのもよくない。やはり運の助けがあると思う。それも努力しなければ巡ってこないのだが。

私が社長、会長になれたのは巡り合わせによるところが大きい。尊敬できる上司に出会えたのは幸運だった。同僚、後輩の支えに救われたことが何度あったことか。感謝の気持ちでいっぱいだ。

76歳になり、経済界での仕事もそろそろ卒業である。来年、JXホールディングスの相談役と経団連の審議員会議長は任期満了となる。

今までいろいろな方々に有形無形のお世話になってきた。これからは世の中へのお返しを少しでもしたい。

今年2月、行政改革推進会議(議長・安倍晋三首相)のメンバーになった。行政改革の進め方を検討する重要な役目である。

会議で既に「アベノミクスの3番目の矢の成長戦略を、実際に担うのは民間企業である。それを邪魔するのは縦割り行政であり余計な規制である。これらを正さなくてはならない」と発言した。

規制があると企業は楽だが、甘くなるので実力がつかない。世界に通用する力を培うには、自由化して競争させるのが一番だ。

もう一つ、今までと全く違う世界だが、教育のために微力を尽くしたい。現在、東京・世田谷区の成城学園の副理事長をしている。中高とお世話になったので、ご恩返しのつもりで引き受けた。

教育界の先覚者、澤柳政太郎先生が成城小学校を創立したのが成城学園の始まりで、2017年に100周年を迎える。幼稚園から大学まであり、第2世紀に向けて大改革を遂行しなければならない。

少子高齢化などで学校経営は難しい局面にあり、日本の教育が様々な問題を抱えていることはご存じの通りだ。新たにグローバル人材の育成などを求められており、重要な使命を担っていることは言うまでもない。

澤柳先生は「個性尊重の教育」という現代にも通用する理想を掲げている。特色ある学校作りに企業での経験も生かして、多少でも貢献できればうれしい。

これまでいろいろな反響が寄せられ、新潟製油所の寮長のお名前を誤記した点もご指摘いただいた。正しくは佐竹和夫さんである。若き日に「油々寮」の生活で培った心意気は今も脈々と生きている。

(JXホールディングス相談役)

=おわり

渡文明(28)四人会

トヨタの張氏らと交遊
取引巡る積年の思い告白

様々な経営者の方々と知り合えて、よい刺激をいっぱい受けている。目から鱗(うろこ)のような経験もしばしばだ。とりわけ印象的だったのは、トヨタ自動車の張富士夫社長(現会長)との出会いである。

トヨタは毎年、部品の仕入れ先を世界中から集めて総会を開く。その場で、特に優れた成果を上げた仕入れ先を表彰する。

私が社長になったばかりの時に、トヨタから技術賞をいただくことになった。新たに開発した、自動変速機に入れる潤滑油が高く評価されたおかげだ。

表彰式に招かれて行ってみると、会場は1000人を超す人たちで埋められていた。「どうぞ、こちらへ」と言われてついていくと、何と張社長の隣の席である。

えっ。ここでいいのだろうか。中央に、豊田章一郎名誉会長のテーブル。それをはさんで左右に奥田碩会長と張社長のテーブルが並んでいた。張社長と親しく口をきけたのは、その時が初めてである。

終戦後、トヨタが経営的に苦境に立たされた時、多くの納入業者はトヨタとの取引を絞った。当時の日本石油も例外ではなかった。その後立ち直ったトヨタとの間でしこりが残った業者もいくつかあったようだが、当社がその対象になっているのか、確認したかった。

新しい潤滑油に技術賞をいただいたのはよい機会だ。「なかなかお会いできないんです」と言ったら、張社長は気さくに「いつでも、どうぞ」と返してくれた。しかし実際には、それからも簡単ではなかった。

トヨタの自動車を運搬している日本郵船の社長の草刈隆郎さん(現相談役)に、一遍紹介してほしいとお願いしていた。ある日、草刈さんから、張さんとゴルフをやるがメンバーが1人欠けたので来ないかと、誘いの電話をもらった。

喜んで参加した。一緒にコースを回ったもう1人は、矢崎総業の矢崎裕彦社長(現会長)で、これがきっかけになって、現在「四人会」と称して気の置けない交遊を続けている。

こうして関係が深まったころ、川崎市の武蔵小杉のサービスステーションで、自動車と双方向で情報をやり取りできるシステムの実証実験を始めた。当社とトヨタが参加し、実験を張さんと一緒に視察し、終わってから初めて2人きりで食事した。

この際と「トヨタさんとは昔、残念なことがありましたが、私の代からは何があろうと、誠実に取引させていただきますので、よろしくお願いします」と話した。

「そんなことが確かにありましたが、今はそういう時代ではない。トヨタもいけなかったんです。自分たちも反省しなければいけない。あのどん底があったから、今のトヨタがあるのです」。他人を恨むのでなく、逆に自省の言葉をごく自然に語る張さんの人間の大きさに感服した。

四人会の皆さんは、私が理事長をしている千葉県富里市の久能カントリー倶楽部の理事でもある。ゴルフの腕を競うだけでなく、夫婦そろってヨーロッパでクルージングを楽しむなど、活動の場を広げている。

このほかにも多くの経営者の方々と、ビジネスを離れてお付き合いして、いろいろ学べるのは実にありがたい。

(JXホールディングス相談役)

渡文明(27)経団連

平岩氏ら大御所に感銘
異業種人脈、大きな財産に

東京電力の平岩外四さんは最も尊敬するお一人だ。経団連の副会長に内定した時、あいさつにうかがった。心構えを知りたくても、旧日本石油は経団連の正副会長には縁が薄かったため、身近に事情のわかる人がいないのだ。

経団連会長OBの平岩さんにあいさつしたらと助言してくれた人もいたので訪ねた。

東京電力とは石油火力用燃料を納めていたので付き合いがあったが、平岩さんは社長、会長を務められた雲の上の人である。経団連などのパーティーで、そばに行って「日本石油の渡です。お世話になっています」とあいさつする程度だから緊張した。

向き合うと私を包み込むようなまなざしで、ゆっくりとお話をされる。「エネルギー関係から出ている経団連の副会長は当社の勝俣(恒久)君しかいない。1人ではなかなか大変です。ちょうどいい援軍だと思うので、2人で日本のエネルギーを支えてください。大きな問題になる時が必ず来る」

大御所なのに丁寧な応対で、一言一言がずしりと重い。帰りに車椅子でエレベーターホールまで送ってくださり、「頑張りなさい」と優しく言葉をかけてくれた。重厚な人格からにじみ出す本物のリーダーの迫力に深く感銘した。

経団連会長だったトヨタ自動車の奥田碩さんが、後任にキヤノンの御手洗冨士夫さんを選び、私はその新体制の一員として指名されたのだ。

奥田さんにも「大変光栄です。よろしくお願いいたします」とあいさつしたが、何のために私を選んだかなどのくだらないことは一切言わない。「それは大変だな」なんて言って「うんうん」で終わり。実に痛快な方である。最近はよく食事をご一緒して、ご指導を仰いでいる。

新日鉄住金の今井敬相談役にも経団連会長を務めた大先輩として、公私にわたりご助言をいただいている。特に日中の経済問題に明るく、多くを学んでいる。

副会長になると、まず広報委員長をおおせつかり、経団連の会報誌「経済Trend」(現「経団連」)の編集を任された。硬くてまじめすぎると聞いたので、改革しようと意欲がわいた。

生き生きと活躍する女性たちを2カ月に1回インタビューして、1年連載したら面白いだろうと考えた。経団連幹部の人たちに説明したら、事務局も含めてみな「うーん」と首をかしげた。

構わず人選して始めた。第1回はテレビキャスターの小谷真生子さん、次いで恵泉女学園大学教授の大日向雅美さん、元文部科学大臣の遠山敦子さん、作家の幸田真音さん、関西大学教授の白石真澄さんに登場していただいた。

私は石油連盟会長もしていたので、記者会見は苦にならず、広報委員長の仕事は好きだった。当然ながら対外発信は基本的に会長が代表して一枚岩でなければならない。副会長は新しい問題について勝手な発言をするなという暗黙の圧力がかかる。

私は思ったことを率直に話す方だから、経団連事務局には危なっかしく見えたのかもしれない。広報委員長は1年でお役御免になった。副会長を4年やり、今は米倉弘昌会長の諮問に答える審議員会の議長をしている。

経団連で異業種のいろいろな経営者と知り合えたことは、大きな財産になっている。

(JXホールディングス相談役)

渡文明(26)エネルギー革命

燃料電池普及に燃える
現場行脚、研究所でヒント

私はもともと現場が好きで、2000年に社長になってすぐに、全国の支店、製油所、研究所などを回った。

横浜・根岸の中央技術研究所に行った時だ。片隅で一人の研究員が家庭用燃料電池の研究をしていた。電池といっても、水素に酸素を反応させて電気をつくるシステムだ。

研究員の話を聞いてみると、なかなか面白い。ぴんと来るものがあった。商品化に向けて本腰を入れて開発すべきだ。一緒に来た技術担当の松村幾敏取締役に「どうして、こんな有望なものを新規事業のテーマとして取り上げないんだ」と聞いてみた。「やりたいのですが、関係各部が前向きに取り組んでくれないんです」と言う。

旧日本石油は新しいものになかなか手を出さない保守的なところがあった。「よし、わかった」。本社に戻ると早速、人事担当を呼んだ。「専門の部署を作って、燃料電池を本社で取り上げて商品化しろ」。「では来年3月の定期異動に合わせて、やりましょう」と半年も先の話をする。

「そんなに悠長に待てない。今すぐやれ」と尻をたたいたら、1カ月余りで組織ができた。担当した技術者は「商品化まで5年はかかる」と言ったが、「駄目だ。3年でやれ」と発破をかけた。うちの技術陣は頼もしい。やるとなったらやる。

2005年3月、世界初の液化石油ガス(LPG)から水素を取り出して使う家庭用燃料電池の商品化にこぎつけた。帝国ホテルで発表会を開き、プロスキーヤーの三浦雄一郎さんやジャーナリストの幸田シャーミンさんなどにモニターになってもらって、PRに努めた。

家庭用に東京ガスや大阪ガスなどの多くの企業が進出した。普及を速めるには、親しみやすいブランドがあった方がいい。ガス会社2社と検討して、「エネファーム」という共通ブランドが決まった。

当社が、ブランドとキャラクターを引っかけて「エネオス、エネゴリ、エネファーム」と積極的に宣伝したので、認知度がぐっと上がった。

我々エネルギー会社の使命は、エネファームの普及に加えて、水素の供給体制もしっかり確立して、石炭、石油に次ぐ第3のエネルギー革命を推進することと考えている。

水素を使う燃料電池は、使用する過程では二酸化炭素(CO2)を出さない。水素と酸素が反応して、水ができるだけだ。効率も良い。エネルギーの40%が電気になり、45%は給湯用として利用できる。分散型電源として優れている。

15年には世界の大手自動車メーカーが、燃料電池車の販売に本格的に乗り出す見込みだ。1回3分ほどで水素を車載タンクに注入すれば、東京、大阪間を走破できるところまで技術革新が進んでいる。

石油会社は、石油の脱硫に使う水素を自前で大量に生産している。業界全体で全国に4万近いサービスステーション(SS)がある。水素も売るマルチステーションに変えれば、直ちに供給可能だ。

水素社会の実現のためには、機器の一層のコストダウンとともに、SSなどへの古い規制を緩和しなければならない。昨年春、「未来を拓くクール・エネルギー革命」と題する本を出版して、私の夢をつづった。石油を大事に使い続けるためにも、第3のエネルギー革命が必要なのだ。

(JXホールディングス相談役)

渡文明(25)石油連盟会長

「脱石油」政策見直し訴え
念願の新法、退任時に道筋

社長になって3年後に、石油連盟会長のお鉢が回ってきた。社名を新日本石油に改めた翌年の2003年のことだ。当時、石油業界は、様々な問題に直面していた。

例えば東京都の石原慎太郎知事が、トラックなどが使う軽油はすすがたくさん出てけしからんと、記者会見でペットボトルからすすを振り出して話題になっていた。

都と神奈川、埼玉、千葉の3県は、03年10月から排出基準を満たさないディーゼル車の乗り入れを禁じる措置を講じた。トラックやバスなどは粒子状物質(PM)除去装置をつけ、石油業界も硫黄分を100PPM(0.01%)以下から50PPM以下に減らした軽油を販売した。

さらに規制は07年から10PPMまで強化されることになり、石油連盟として前倒しして対応する方針を決めた。05年から世界に先んじて硫黄分10PPM以下の軽油を供給すると発表して、私は早速、石原知事を訪ねた。

「知事の言われたように改善しました。すすはもう出ません」と報告したら、石原知事は喜んで表彰状をくれた。「表彰状も結構だが、知事がすすをまいたおかげで軽油の販売が減りました。もう一度、改善前、改善後をやって見せて下さい」。知事は大笑いしたが、してくれなかった。

小泉純一郎首相が沖縄の宮古島で自動車用ガソリンをすべてバイオ燃料に切り替える実験をやろうと大号令をかけた時も大変だった。業界として、思いとどまってもらおうと役所に働き掛けたが駄目で、2人だけで話す機会を何とかつくってもらった。

一計を案じて紙芝居のような図解を3枚用意した。しかし会うなり、小泉首相は持論を話し出す。

「総理、私は慶応の先輩です。すみませんが、15分だけ黙って私の話を聞いてください」と意を決してお願いし紙芝居を始めた。時の総理大臣に勝てるのは、年齢と卒業年次くらいのものだ。

さすが話が早い。一発で理解してくれて「何でこの話を経産省や環境省に持っていかないんだ」と怒られた。「冗談じゃありませんよ。総理が役所の話を聞こうとされないのでは」。「わかった。この紙をくれ」と言われて持ち帰られた。その後、バイオ燃料の問題は沈静化した。

5年間の任期中、最も力を入れたのは「脱石油」政策の見直しだ。会長に就任した時から訴え続けた。石油ショックによって、石油依存度を下げようと石油代替エネルギー法ができた。その後、依存度がどんどん下がっても、相変わらず石油だけ減らせというのは合点がいかない。

石連会長を退任する時には、主張がようやく認められた。代エネ法を廃止して、石炭なども含めて化石燃料の有効利用などをはかる、エネルギー供給構造高度化法を制定する方向が固まったのだ。

この新法に私はもう一つの狙いを託した。過剰設備の削減だ。石油製品を生産するトッパー(常圧蒸留装置)に重質油分解装置をつけると無駄を減らせる。経済産業省は同法に基づき、この装備率を13%とする告示を出した。

分解装置を増設するには巨額の資金を要する。従って装備率の低い会社は、分解装置をつくるより遊んでいるトッパーを廃棄する方が得策だ。

この結果、過剰設備対策が一気に進んだ。

(JXホールディングス相談役)

渡文明(24)海外の事業

中東や米中を駆け巡る
戦場も経験、ハードな交渉

学生時代から海外志向が強かったが、仕事はずっと国内営業が中心だった。しかし経営トップになると、グローバルな視野を持たなければ、務まらない。私は海外の事業に積極的に取り組んだ。

会長になって早々、イラクの当時のジャファリ首相が、自衛隊の派遣にお礼を述べるために来日した。小泉純一郎首相が官邸で歓迎晩さん会をやり、私も経団連の中東・北アフリカ地域委員長だったこともあって招かれた。

終わりごろ、小泉首相が「渡さん、この際、言っておくことはないか」と振ってくれた。待ってましたとばかりに、こう申し上げた。

「わざわざおいでくださりありがとうございます。何か希望はとおっしゃったので、ひとつお願いがあります。日本は無資源国で、貴国に眠っている原油がぜひ欲しい。平和になったら、いの一番に私たちに原油の採掘権を与えていただきたい」

「承知しました。約束しましょう」と言ってくれたが、社交辞令と受け止めた。ところがシャハリスタニ石油相が、こちらの希望を聞くために来日した。日揮の重久吉弘会長などと一緒に会談し具体的に提案した。

ナシリヤ油田を日本勢は掘りたい。資金の融資はもちろん、製油所や発電所も造りましょう。出てきた原油を売った収入で返してもらえば結構というのが骨子だ。

それから話が進み、マリキ首相に会うため、イラクのバグダッドを訪れた。私と日揮の重久さんと国際石油開発帝石会長の松尾邦彦さんの3人が代表して2009年に、チャーター機で中継地のドバイを飛び立った。

飛行場を一歩出ると、そこは戦場だ。みな鉄かぶとに15キログラムもある防弾チョッキを着せられる。私は腰の手術の後だったため11キロのものにしてもらったが、弾丸が貫通するぞと脅かされた。

装甲車のような車に乗せられ、兵隊の護衛つきで官邸に行き、マリキ首相やシャハリスタニ石油相らと会談した。我々の提案の実現を強く要請して日帰りでドバイに引き返し、無事を喜び合って、みんなで乾杯した。だが残念ながら、このプロジェクトはイラクの政変などでいまだに実現しておらず、ぜひ現役の人たちに夢を託したい。

中国とは会長時代に、同国最大の石油会社の中国石油天然気集団(CNPC)の日本法人に当社の大阪製油所に資本参加してもらう話をまとめた。余剰精製能力を輸出基地に再生する事業だ。環境の変化もあって交渉は難航し、実現するまで7、8年を要した。

日本石油としての最初の中国との合弁事業は天津の潤滑油工場で、それに次ぐ規模の潤滑油工場を米国アラバマ州に建設した。世界一のシェアを狙う足がかりを得るためで、06年の開所式に出席し晴れやかな気持ちを味わった。その2年後にはシンガポールの潤滑油メーカーに資本参加して、手を着々と打ってきた。

ビジネス以外では、日本と欧州連合(EU)との文化交流を支援する非営利組織「EU・ジャパンフェスト日本委員会」の07年度の実行委員長を務めた。

この功によりルーマニア政府から国家勲章をいただいた。私にとって唯一の勲章が文化面での国際親善によるものなので、実に名誉なことだと思っている。

(JXホールディングス相談役)

渡文明(23)JXへの道

交渉大詰め、病床で作戦
統合見届け相談役に

新日本石油と新日鉱ホールディングスが経営統合して、現在のJXホールディングスになる発端は私の社長時代にまでさかのぼる。

JXホールディングスの初代社長になる高萩光紀さんが2002年に、ジャパンエナジーの社長になった。そのころから2、3カ月に1回くらいの割で、高萩さんと2人で食事をしながら、今後の石油業界のあり方について、いろんな構想を語りあった。

高萩さんは後にジャパンエナジーの持ち株会社の新日鉱ホールディングスの社長になって、新日石との統合を主導する人である。2人で議論するうちに、新日石とジャパンエナジーを合併したらどうかという話にも発展した。高萩さんからその意志を示す手紙をもらったこともある。

一緒になるとしたら、どんな方式があり得るのかについても話が進んだ。

高萩さんは当時、日鉱金属と経営統合した新日鉱ホールディングスの取締役も兼ねていた。その成功体験に基づいて、ホールディングス方式がいいのではないかという意見だった。持ち株会社の下に、いろいろな事業会社をぶら下げるというアイデアである。

それはいいなというところで話はひとまず終わったが、8年後に私と高萩さんとで議論した構想が実を結ぶことになって、運命のようなものを感じた。

しかしその前に、三菱石油との合併の仕上げに力を入れた。まず興亜石油と三石系列だった東北石油を完全子会社にして、この2社を新日本石油精製に合併させた。ちなみに新日石精製はJX発足時に本体が吸収して、製販を一体化した。2008年に九州石油を吸収合併して一段落し、新日鉱ホールディングスとの統合を本格的に考えた。

当社の西尾社長と高萩社長は同期で、具体的な交渉は社長同士でやった。私は会長として西尾君と十分に打ち合わせて、合併比率や人事などの重要事項について指示した。周囲から統合のメリットはどうなのかなど様々な意見が聞こえてきたが、最終的に統合を決断した。

交渉が煮詰まりつつあった2008年10月に私は椎間板ヘルニアの手術で入院していた。西尾君と毎日、病室で2人で作戦を練った。

とりわけ重要なテーマは、統合後のトップ人事である。「経団連副会長をしている渡さんには、会長をやってもらわなければならない」。社長には高萩さんを、自分はエネルギー会社の社長を引き続きやりたいという案を持ってきた。

私は考えて「高萩さんの社長はいいが、私が会長になるのは駄目だ。私は引くから、君が会長をやれ」と言ったら、驚いたようだ。もし私が会長にとどまれば、西尾君がエネルギー会社の社長になり、そのまま5年やったら世代交代が大幅に遅れる。押し問答の末、最後は私の考えをわかってくれた。

2010年4月、JXホールディングスが誕生し、私は相談役に退いた。西尾君は会長になり、JX日鉱日石エネルギーの社長に、62歳の新日石の常務だった木村康君が就いた。

私は会長を5年やって73歳になっていた。新しい会社は、次の世代に任せるという私の構想が実った。

(JXホールディングス相談役)

渡文明(22)人事

社長5年が持論、会長に
たすきがけせず能力主義

合併会社で頭が痛いのは人事だ。私は1つのポストに旧日本石油と旧三菱石油の人間を交互に就けてバランスをとる、たすきがけ人事は絶対によくないと考えていた。

双方うらみっこなしで一時的にはいいかもしれないが、弊害があり長続きしないからだ。私は社長として、どちらの出身かにとらわれず、能力主義を貫いてきたつもりだ。

合併したころを振り返ると、下に行けば行くほど、旧三菱石油側にいい人材がいた。管理職クラスでは結果的に、旧三石出身者がポストを多く占めることになった。

私が会長になってからは、技術の最高責任者の副社長、常務クラスの営業担当3人のうち2人、常務会の事務局役の総合企画部長、新日本石油精製の社長が、いずれも旧三石出身という体制になった時期もある。要の役職は全部、旧三石出身である。

旧日石OBなどから「三菱に偏っていて、おかしい」と言われると、「仕事ができるのだから、しょうがないじゃないですか」とずいぶん説明したものだ。

私は3年間で860億円のコストダウン目標を掲げて結果的に1221億円を達成した。2つの会社が1つになれば、人員が余る。2004年までに3回希望退職を募り、1296人が応募した。こういう中で、おかしな人事はできない。

私自身は5年で社長を副社長の西尾進路君に譲って会長になった。もっと長くやろうと思えばできたが、サラリーマン社長は、あまり長くやるものではないと思っていた。

実際、新しい改革のアイデアを出して、組織をまとめてぐいぐい引っ張っていけるのは、5年程度が限度だろう。後継者を育てるためにも、やりすぎてはいけない。

各年次にだいたい100人いるので、私の任期が5年なら、その間の500人は能力があっても社長になるチャンスはない。もし10年もやったら、1000人を飛び越すことになり、もったいない。

西尾君を選んだのは、私がいろいろな施策を打った後で、経理畑出身の彼に地固めをしてほしいと考えたためだ。IRが重視される時代に合っている。彼は支店経験もあり、顔に似合わず繊細で、がさつな私には頼りになる存在だった。

2005年6月に68歳で会長になり、最初から常務会に出なかった。ヤマト運輸の元社長小倉昌男さんのお別れ会に行って、生前のビデオを見て教えられたのだ。

小倉さんは会長になってからも常務会に出席していると、なぜか意見が活発に出ない。社長にただすと「前任者否定のようなことは言いにくいからですよ」という。小倉さんはハッと気がついて、次回から出るのをやめた。

私はどうしても心配な点がある場合には、西尾君にさしで助言した。

会長の私が直接決めたことの一つに、広告のキャラクターに使っている「エネゴリくん」の名前がある。「エネゴリラ」で社長の決裁を得て、会長にも一応見せておけと持ってきた。「ゴリラ」ではかわいくないので、「エネゴリくん」に変えさせたのだ。

ネーミングには誰もあまり関心がないので、課長時代からサービスステーションの新業態の名前などは私が付けてきた。

もちろん私の現役時代最後の大仕事は新日鉱ホールディングスとの経営統合である。

(JXホールディングス相談役)

渡文明(21)改善より改革

「異論歓迎」の環境つくる
トラブル情報開示も徹底

社内の風通しをよくして議論を活発にするには、言うだけでは駄目だ。具体的な仕掛けが要る。日本石油と三菱石油の合併会社なので、それがより重要だった。

作成した経営ビジョンや経営計画をどう実行するか、私は社長になってすぐに社長直轄のプロジェクトチームを20以上設けてとことん議論させた。ミソはメンバーをいろいろな部門から集めて混成チームにした点だ。

例えば、人事問題を検討するところには、技術や営業などほかの部門の社員を入れて、人事部には事務局役をさせる。旧日石も旧三石も関係なく、各チーム10人程度で構成した。専門も背景もばらばらなので、最初はぎこちなく見当はずれな意見も飛び出す。

これが狙いで異質な意見がぶつかり合う中から、新しいアイデアが生まれる。改善でなく改革がはかれるわけだ。部門横断プロジェクトチームは、半年ほどでそれぞれ答申をまとめ、それを常務会で承認して実行に移した。

各部門の代表が旧会社の壁を越えて決めたことなので浸透が速く、期待以上の効果を上げた。対立した意見を大いにたたかわせて出す結論ほど、確かなものはないというのは、私の前からの主義でもあった。

社長時代、思わぬトラブルにもいくつか直面した。2002年、千葉県・幕張のサービスステーションをセルフに改装した時に、工事業者がミスした。ハイオクとレギュラーの地下タンクと計量器との配管を間違えたのだ。

「お宅のハイオクガソリンは馬力が出ない」と言ってきた客は1人だけで、オクタン価計測器を車につけている人だった。ハイオクを入れたと思ったら、実はレギュラーだったわけである。

対応策は3つ考えられた。1つは、放置する。2つ目はハイオクを買った人だけに差額分を返す。3つ目は差額でなく全額を返す。すなわちただにする。私は全額返金を指示した。

間違って売った数量は800キロリットルだった。返金すると発表したら、どんどん来て1000キロリットルを超え、期限を設けて打ち切ったが、当社の費用負担は1億円を超えてしまった。当時、牛肉偽装事件もあって、週刊誌などにも書かれたが、誠意が通じたのか、間もなく沈静化した。

もう一つ、子会社の新日本石油精製で保安検査データの虚偽報告問題が発覚した。吸収合併した旧興亜石油の製油所で高圧ガス保安法により交換すべき配管をまだ使えたので、換えたことにして監督当局に報告していたのだ。

これが合併直後にわかり、当局に自発的に届けて処分を受けた。記者会見をしなくてもいいのではないかとの意見も社内にあったが、あえて新日石精製の社長に会見させた。

問題が生じたら、トップの責任で適正に処理して、きちんと情報を開示するのが長い目で見て一番の上策だ。新日石精製の件も、隠さず開示したので、投資家から前向きに評価された。

また子会社で地域労働組合との争議が起こり、組合関係者が毎週土曜日、私の自宅にビラを持って抗議にやってきた。私はゴルフでいつも不在で、家内が1年くらい対応してくれた。和解で解決したが、私が社長だったために家内にはとんだ苦労をかけた。

(JXホールディングス相談役)

渡文明(20)エネオス

説得重ねブランド統一
特約店の一体化にも全力

合併会社の日石三菱は双方のアイデンティティーの違いが一番大きな問題だった。

日本石油は業界の雄で我が国石油産業の元祖である。一方、三菱石油は世界のスリーダイヤモンドを背負ってきた。お互いにプライドがある。

まずサービスステーション(SS)のマークを統一するのが、社長になって最初にやった大仕事だった。方法は3つある。

日石の太陽をデザインした「サンライズ」は、国内では消費者の間に浸透し、大変親しまれていた。1つは、これに統一する。SSの数は、日石が約65%、三菱が約35%である。すべてサンライズにすれば費用は安く済む。合併の経緯から考えたら、普通はそう考える。

しかし旧三石側は納得しない。サンライズを下ろして、世界に冠たるスリーダイヤにすべきだという声が上がる。しかし日石のOBが聞き入れるわけがない。

3つ目として新しいマークをつくる。それに日石三菱の経営理念やビジョンを託して両陣営の求心力の核にすれば、融合も早まるのではないか。私はそう考えて、現在の「エネオス」をつくった。

エネルギーの「エネ」と新しいを意味するギリシャ語の「ネオス」を組み合わせたブランドで、若い人たちが提案した100以上の候補から議論して絞り、最後に決断した。社長になった翌年の2001年で、今では日本のSSの約4割が「エネオス」である。

次に大問題だったのが社名だ。旧日石側から、石油業界では「日本石油」が通っているのだから、これに戻せという意見が強く出た。一方旧三石側は当然猛反対。私は新しい日本を代表する石油会社をつくるという意味を込めて、「新日本石油」にしようと思った。

合併後に加わった三菱グループの社長会の金曜会は、商標登録もしている「三菱」を外す社名変更に反対だった。三菱を何だと思っているんだというわけである。

最後まで強硬だったのは三菱倉庫の宮崎毅会長だ。三菱初代の岩崎弥太郎さんを尊敬している立派な方で一歩も引かない。一筋縄ではいかないので、向島の料理屋でさしでとことん説いた。

「三菱は素晴らしい名前ですが、我々は消費者相手の商売です。お客さんには三井や住友などの方もいます」が究極の訴え。さすがの宮崎さんも小売りの難しさを理解してやっと納得してくれた。その後も引き続き、宮崎さんとは向島で親交を深めている。

2002年に「新日本石油」に社名を改めた。ブランドとマークを「エネオス」に変えた翌年である。

販売ネットワークを担う特約店も旧日石系と旧三石系があり、その一体化も重要な課題だった。三石の特約店も日石と同様、各地の名士だ。私は土日にそうした特約店を訪ねては、オーナーの方々に「とにかくついてきてほしい」と新会社の戦略を直接話した。夜はかみしもを脱いで酒を酌み交わして翌日帰る。

こうした姿勢が徐々に三石側の特約店にも理解され、特約店会の幹部の方々も「新会社をよくしよう」と前向きに動いてくれた。その中心人物が旧三石特約店会会長の堀内保彦さんであった。

駆け出しの新潟製油所時代に始まり、その後の長い営業経験で血となり肉となった「商いの心」が大いに生きた。

(JXホールディングス相談役)