日本の治安が最高なのは共同体パワーのおかげ

私の知る限り、大都市なのに安全な街は東京だけだ。東京にいるときは昼も夜も安心し切っている。04年に今の家に引っ越したが、引っ越し早々に家の鍵をなくしたので鍵は掛けず、ノックすらせずに出入りしている。スクーターを駐車してその場から離れるときもヘルメットはシートに置いたままだ。「泥棒が怖くないのか?」と聞くフランス人の友人には、私のヘルメットを盗むほど切羽詰まっている日本人がいたら、同じ人間としてヘルメットくらいくれてやるさと答えた。自転車にも鍵を掛けない。それでも無くならないのだから本当にうれしくなる。

私は今では3人の子供の父親だ。フランスより麻薬がはるかに手に入りにくく、子供たちが盗まれる側にも盗む側にもなる心配が少ない国に暮らせて幸せだと、毎朝しみじみ思う。

オレオレ詐欺のような犯罪はあるが、フランスに比べればまだましだ。フランスではみんな、いつか盗難や強盗や詐欺に遭うだろうと思っている。私は学生時代、1年に1回は通学途中で襲われた。そんな話、日本では聞いたためしがない。フランス人にとって盗難に遭うのは人生の避け難い事実であり、日本人がいつか地震で命を落としてもおかしくないと考えながら日本を離れないようなものだ。

フランスにいる私の家族がこの6カ月間でどんな目に遭ったかを紹介しよう。パリ郊外にある両親の家に強盗が入った。私が昔使っていた子供部屋の窓から侵入したらしい。同じ通りにある家は全部、強盗の被害に遭っている。ノルマンディーにある両親の別荘の前では、チンピラがおばあさんから指輪を奪った。パリにある祖母の家の近所では白昼堂々、泥棒が車で銀行に突っ込んで金を盗んだ。祖母の行きつけの薬局も襲撃された。

私はパリではスクーターに乗れない。乗れば盗まれるか壊されるか、あるいはその両方だから。パリの人間は、レストランに入るときはたいてい自転車のサドルを外して席まで持っていく。ファッションの一部なのかと思っている日本人の友人がいたが、そうじゃない。盗まれるからだ。見掛けない奴だから身分証を見せろ、とギャングから言われるほど物騒な界隈も存在するのがフランスだ。

だから、盗難なんてないも同然の日本に来ると本当にびっくりする。私のところに遊びに来た弟が京都のゲームセンターに財布を置き忘れたときは、数時間で警察が見つけてくれた。新幹線に置き忘れた絵はがきも誰かが親切に投函してくれたらしく、フランスの宛先にちゃんと届いた。12年版犯罪白書によれば日本では03年以降、9年連続で犯罪が減少している(フランスでは毎年増加している)。

■真に孤独な人間のいない社会

要するに、日本は本当に治安がいい。誰もがその恩恵に浴している。出身国に関係なく外国人はみんなそのことを実感する。日本の警察の初動捜査が遅れがちなことは国内外で知られているだけに、なおさら意外だ。日本が安全なのは警察のおかげじゃない。では、日本にあってフランスにないものは何だろうか。

治安というのは何かの「結果」としてもたらされるもの。経済が上向けば治安は総じて良くなるだろう。日本では経済は低迷しているが深刻な失業問題はなく、貧困もフランスほど過酷ではない。しかし最大の強みは、自分もコミュニティーの一員だという意識の強さだろう。

日本には真に孤独な人はいない。1億2000万人の一人一人が「安全網」をつくり上げている。フランスでは誰かが盗みを働けば当人だけの問題だが、日本では家族や、その人間が属している集団の評判まで傷つく。この共同体意識は日本の「資産」だ。値段は付けられないし、土地や債券のように資産台帳に記載されるわけでもない。それでも日本はこの意識を失わずに前進を続けるべきだ。

Newsweek 2013.1.8
レジス・アルノー(Regis Arnaud)
1971年、フランス生まれ。仏フィガロ紙記者、在日フランス商工会議所機関誌フランス・ジャポン・エコー編集長を務めるかたわら、演劇の企画なども行う。

こんなに政治家がダメでも日本が機能している理由

アメリカの作家ポール・セローはかつて、東京があまりに効率的なのに感服して「これは都会じゃない、機械だ」と評したことがある。

確かに東京は最高に効率的な都会の1つだ。しかも人間に頼らず、自力で機能しているらしい。13時24分に到着予定の電車は13時24分ぴったりに到着するし、荷物は指定した時間にきちんと届く。忘れ物をしても、たいていは戻ってくる。この街に「想定外」はない。

東日本大震災が発生した3月11日も、東京で印象的だったのは混乱ではなく秩序だった。あれがパリなら略奪が起きていただろう。アメリカ人も、大型ハリケーン「カトリーナ」がルイジアナ州を襲ったときは大混乱に陥った。

だが日本は違った。外資系の銀行に勤める友人は、3月11日の午後4時に金融庁に電話して、いつもどおりに営業終了後の報告が必要かと聞いたそうだ。すると金融庁の職員から「何を言っているんですか。当たり前でしょう!」と怒鳴られたという。「最初はどうかしていると思ったが、今になって思えば彼は正しかったのだろう。普段どおりに業務を進めたことが、金融パニックを防いだのかもしれない」と友人は言う。

日本政治の現状を考えると、東京の効率性はますます素晴らしいものに思える。「Politics(政治)」の語源は、ギリシャ語で都市国家を意味する「Polis」。政治は都市運営というアートなのだ。

日本の政治家には、いわゆる2世議員がやたら多い。その経歴は俳句並みに短くて、「誰それの跡継ぎ」の1行で終わり。質はアフリカの中流国家の政治家と大差ないだろう。なのに東京はこんなにもうまく機能している。もしも巨大地震で永田町が壊滅しても、ジャーナリスト以外は気付きもしないだろう。

かつては私も、ジャーナリストとして日本の政治家たちに取材を試みた。しかし今は、そんな気にもなれない。彼らには意見がない。彼らはこの国がどこに向かっているのかを知らないし、そんなことを気にしてもいないようだ。

■びっくりするほど完璧な集団

私が日本に来た95年当時から、政治家たちは移民の受け入れ拡大や、出生率改善のための女性の地位向上などの改革を議論し続けている。なのにほとんど何の進展も見られない。私が死ぬ頃(たぶん今世紀の半ば)になっても、きっと同じ議論が続いているだろう。

フランスは違う。政治が重視されているし国民の関心も高い。フランスの政治家は権力を好み、権力を行使したがる。政治家にとって、女性にもてることは「力」の証しであり、セックスは政治の妨げとは見なされない。ナポレオンには大勢の愛人がいたが、彼がつくった制度の多くは今も機能している。

フランスでは、政治家は愛人が多いほど有能だとさえ言える。ベッドで誰かを魅了できれば、少なくとも選挙で一票を確保できるのだから。前IMF専務理事ドミニク・ストロスカーンの性生活は過剰なまでに奔放だったようだが、それが職務に支障を来すことはなかった。

そう考えると、疑問が生じる。政治が都市運営のアートならば、なぜパリの街は汚いのに東京の街はこんなに美しいのか。パリでは日常的に略奪などの犯罪が起こっているのに、なぜ東京では暴動が起きないのか。アフリカの中流国家並みの政治家しかいない国が、なぜ世界3位の経済大国でいられるのか。

私が思うに、日本人は自分たちの特異性を強く意識している。だから全員の利害に関わるときはきょうだいのように一致団結する。この集団はびっくりするほど完璧で、自ら運営していけるからリーダーなど必要ない。だがフクシマのような異常事態では違う。ここ一番というときに政治が政治らしく機能できなければ、「機械」もいずれは壊れるだろう。

Newsweek 2011.8.1
レジス・アルノー

カーラ・ヒルズ(11)フォード大統領

「奉仕の心」で
国家運営ニクソン恩赦は最たる例

ニクソンが自らホワイトハウスを去ったとはいえ、ウォーターゲート事件が米国に残した傷はあまりにも深かった。フォードの任期中はもちろん、それ以降、4年、5年、あるいは6年と長期にわたって党派性に満ちた法廷闘争が続くことも目に見えていた。

それだけではなく、我々は当時、ベトナム戦争の泥沼にあった。経済的な苦境にも陥り、オイルショックに伴うエネルギー問題も深刻さを増していた。インフレと失業率は上昇し、多くの通りは抗議のデモ行進であふれていた。

そうした国内外の情勢を踏まえ、フォードは常に「何が国家にとって正しいことなのか」という考えに基づいて行動していた。後世の史家によって評価が分かれるニクソンへの恩赦は、そうしたフォードの国家に対する奉仕の心を示す最たる例だと私は思う。

1974年9月8日の日曜日、私がニクソン恩赦の報を聞いたのはテニスコートの上だった。試合仲間のシルバーマン司法副長官が「これでフォードに再選の目はなくなった」とつぶやいたことは先述した通りだ。その時、コートに居合わせた司法省の関係者全員が「これは正しい決定だ。そうでなければ、(ウォーターゲート事件を巡る)法廷闘争が6年は続いただろう」という見方で一致していた。

後にフォードは自らの回想録の中で、恩赦を与えることが自分にとっては政治的に不利になることはわかった上で「国家のために良かれと思い、そういう決断を下した」といった趣旨のことを書いている。そうした高邁(こうまい)な精神は、残念ながら昨今の政治家たちに見いだすことはできない。民主党は左派の活動家の面々、共和党は右派のティーパーティーの人たちの顔色をうかがうばかりだ。結果、一方は「増税反対」を掲げ、他方は「財源確保」を叫び、予算一つすらまとめられない状態が長く続いた。

それはフォードが求め続けた政治とは全く異なるものだ。フォードは高いインフレ、失業率、低い成長率という経済的苦難を抱えながら、29カ月間、大統領の職務を真摯にこなした。皮肉なことに政権最後の年に経済はやや上向き加減になったが、時すでに遅し。彼は76年の大統領選で民主党候補のジミー・カーターに敗れた。

思い起こせば、私が最初にワシントンの地を踏んだ74年、米国の政治には今日のような分極化など存在していなかった。共和党員だったフォードは上下両院の民主党ベテラン議員との交流も深かった。下院院内総務のティップ・オニールとは常時、ゴルフに興じる仲だった。隣人で後に下院外交委員長となるリー・ハミルトンとはお互いの裏庭でバーベキューパーティーを交互に開催していた。

それに比べ、21世紀の現在、大統領ですら対抗政党とは社交の場を持とうとしない。彼らはお互いを知りもせず、多くの案件について解決策を見いだすための信頼も築けていない。

もう少し長く、フォードが大統領の職務に就けていたならば、それは間違いなく米国にとって良いことだったはずだ。世界中が注目した昨年末の「財政の崖」もフォードだったら、早々とこう宣言して決着を図っていたのではないかと思う。

「わかった。双方、痛み分けで行こうじゃないか」――。

(元米通商代表部代表)

ツイッターと世論に「ずれ」 米調査機関が指摘

政治ニュースなどを伝えるメディアが、街頭インタビューの代わりにインターネットの短文投稿サイト「ツイッター」の書き込みを引用するケースが目立っている。しかしツイッター上の意見は一般世論と必ずしも一致しないことが、米調査機関ピュー・リサーチ・センターの研究で分かった。

ツイッターは世論と比べてリベラル寄りのときもあれば、保守寄りのときもある。全体として否定的な意見が多いのも特徴だ。

ピュー・リサーチ・センターでは過去1年間にわたり、米大統領選の結果や選挙前の討論会、オバマ大統領の就任演説などに関する世論調査の数字とツイートの傾向を比較した。

オバマ大統領の再選については、世論調査で52%が歓迎、45%が不満と答えた。一方、ツイッターへの書き込みは歓迎する意見が77%を占め、不満とする意見は23%にとどまった。また、オバマ大統領が劣勢とされた第1回討論会の評価でも、大統領に軍配を上げる声は世論調査でわずか20%だったのに対し、ツイッターでは59%に上った。

こうした傾向は、ツイッター利用者の構成を考えれば説明がつきそうだ。一般市民全体に比べると若い年代が多く、民主党支持者が多い。2012年の統計では、ツイッターにニュースを投稿する成人利用者の半数が30歳未満で、57%が民主党員または同党支持者だった。成人全体の中で30歳未満が占める割合は23%、民主党員または同党支持者は46%にすぎない。

ただ、ツイッターが常にオバマ大統領や民主党の味方をするとは限らない。2期目の就任演説を「良かった」と評価する声は、世論調査で48%を占めたが、同様のツイートはわずか13%だった。また、ケリー国務長官の指名に対する意見は世論調査で賛成39%、反対36%、中立が26%と割れたのに対し、ツイートは賛成6%、反対32%、中立62%という分布になった。

これらは、ツイッター上の発言の特徴から説明がつく。世論調査と違って、利用者はそもそも自分が重要だと感じる話題についてしか発言しない。全体として好意的に受け止められている出来事でも、大多数の人が言及せず、強い不満を持つ少数派ばかりが発言すれば、数字は逆転する。例えば、オバマ大統領再選についてのツイートは1400万件近くあったが、ケリー長官任命を取り上げたツイートはわずか7万件だった。

ツイッターの世界では、他人の批判や悪口が何より盛り上がるということも忘れてはいけない。大統領選前のオバマ、ロムニー両候補へのコメントは、どちらも否定的な内容が圧倒的に多かった。オバマ大統領への否定的意見は40~50%、好意的な意見は10~30%の間で推移した。ロムニー氏については否定的意見が50~60%で、好意的な意見が20%を超えたのは本選直前の数日間だけだった。

ピュー・リサーチ・センターが12年に実施した調査によると、米国内の成人でツイッターを使っている人は13%、時々または日常的にニュースや見出しを投稿する人はわずか3%。デジタルの世界で圧倒的な存在感を示すツイッターも、他のメディアほど多くの人々に届いている存在ではないようだ。

女性の社会進出(5)カーラ・ヒルズ

抗議活動は役に立たず
努力による能力主義を信奉

夫と3人の弁護士仲間とともに法律事務所を立ち上げ、必死に働いていた頃の話。私は出張先のニューヨークで重大な案件を抱え、顧客との打ち合わせを控えていた。5番街に面したホテルから飛び出すと道路が全て封鎖され、会合場所へ向かうタクシーを拾うことすらできない。ドアマンに「一体、何事?」と聞くと、女性の権利向上を主張する団体による大規模なデモ行進だよ、と教えてくれた。

(あの女性たちは何をしているの。ただ、一人の女性が会議に向かう邪魔をしているだけじゃない)

正直に告白すれば、私はこうした抗議活動が女性の機会拡大や権利向上にはあまり役に立たないと思っている。このような抗議活動はむしろ、そこに参加している人たちが変えたいと思っている考えの持ち主には好意的に受け止められていないからだ。

だからといって、私自身、女性の社会進出、権利向上に決して無関心だったわけでもない。ただ、自分としては性別とか、人種には関係なく、努力に基づく能力主義を信奉していた。最後に「女性だから……」となるのは決して好ましくない。

法曹界に入り、私が目指したのは「ベストの法律家」であり、「ベストの女性法律家」ではない。同様にエールにおいても「ベストの学生」になろうと心がけ、「ベストの女子学生」であろうとしたわけでもない。

もちろん、現実社会にはそうした理想論とは異なる部分も多々見受けられる。ロサンゼルスで連邦検事補となり、政府の代理を務めていた時、判事たちは「ヒルズさんは女性ですから、最初にどうぞ」といつも私を“特別扱い”した。後にも触れるが、フォード政権で女性閣僚となった時も多くの人から「唯一の女性閣僚としてどうですか」などと仰々しく聞かれたものだ。

エールを修了し、ロサンゼルスに戻った時、数多くの法律事務所が存在するにもかかわらず、女性のパートナーは一人もいなかった。この時、ロサンゼルス郡の法曹協会には下部組織として、36歳以下の会員で構成する「若手(ジュニア)法廷弁護士の会」というものがあった。女性は法曹協会には入れたものの、この若手の会合には参加できなかった。その結果、女性弁護士は同じ年代の男性弁護士と知り合い、情報交換することもままならなかった。

幸運なことに、私の場合、夫・ロデリックがこの若手会合のメンバーだったため、彼を通じて同世代の男性弁護士にも知己を得ることはできた。しかし、それはほんの例外にすぎない。多くの女性弁護士はおおむね、こうした旧態依然たる社会慣行によって阻害され、ハンディキャップを背負わされていた。

後に夫、そして3人の弁護士仲間と法律事務所を設立し、若い女性弁護士を雇った時、彼女が私の部屋に飛び込んできて、こう叫んだ。

「彼らがルールを変えました。ようやく、女性も『若手法廷弁護士の会』のメンバーに迎え入れられます」

私は笑いながら言った。

「そうなのっ、彼らときたら、私が36歳になり、年齢制限に引っ掛かることを待っていたのよ!」

今では信じられないようなことばかりだが、それが1960年代初頭の米国社会の現実だった。

(元米通商代表部代表)

カーラ・ヒルズ(3)法科大学院へ

勧められエールを受験
再び反対の父、進学後は自慢

スタンフォード大学に入り、専攻したのは歴史と経済だった。ただ、入学当初から3年生の終わりには法学部に籍を置き、4年時に法科大学院に進む準備期間に入りたいと思っていた。まだ10歳にも満たない頃から、私は法律家になると決め、なりたいと願っていた。在学中には英オックスフォード大学に留学し、「20世紀の文学と政治」を学んだが、法律を学ぶ決意が変わることはなかった。

当時、スタンフォードには「3・3年制」というものがあった。この制度を使えば、3年目までを終え、その後の法科大学院で3年学ぶことができた。通算6年で、その学生は学部卒業資格とともに法科大学院の学位を得ることができたのである。

1954年秋に米国に戻ると、私はすぐにスタンフォード大学の法学部長、カール・スピースに面会を求め、「今期から法学部に入りたい」と訴えた。

カール・スピースは穏やかな口調で「お嬢さん、何をそれほど急いでいるのかな」と私に尋ねた。「スタンフォードの法学部に行きたいと望んでいました」と畳み掛けると「どうして、スタンフォードなのかな」と問い返してくる。「スタンフォードの法学部がベストだと信じています」。私の答えが終わらないうちに彼はこう言った。

「ハーバードやエールは考えなかったのかな」

思いもしなかった提案だった。戸惑いながらも「どちらがいいのですか」と尋ねると「今はエールの方がいい。学生数に対して教員の数も多い」という返答。そんなやりとりを経て、私はエールに入学願書を提出し、合格の報を持って再び父と相対した。

案の定、またも父は「西海岸に残ってほしい」と断言した。西海岸であれば、どのロースクールでも授業料は払うが、3千マイルも離れたエールはダメだと言い張る。この時点で私には少なくとも初年度の授業料を払うだけの蓄えはあった。

エールに進学してから数カ月後のこと。母から1通の手紙が舞い込んだ。あれほどエール行きに反対した父の様子が変わってきているという。どうやら、私がエールで学んでいることが自慢の種になりつつあるらしい。母いわく、社交クラブで友人らに「カーラは何をしている」と聞かれる度、父は「エールのロースクールにいる」と答えていた。すると、彼らは口をそろえて「それは自慢だろう」と褒めてくれたという。

「お父さんは自慢なのよ」。母はそう伝えてきた。やがて初年度の夏に帰郷すると、父は私を隣に座らせ、「2年目と3年目の授業料はすべて払う」と言ってくれた。

当時、エールではまだ学部に女性の入学を許可していなかった。大学院だけは女性にも門戸を開いていた。それでも私のクラスで学ぶ女子学生は自分も含め、わずかに7人。その後、多くの大学は学部と大学院で女子を受け入れるようになった。

思い返せば、あの時、スタンフォードに残らず、東海岸のエールに身を投じたことによって、私の世界は一気に広がった。それまでの私といえば、まるで機関車のように「思い込んだら一直線」というふうだった。スピース法学部長は東海岸での経験が私の物事を考える幅、言い換えれば人間としての幅を広げると考えてくれたのだろう。

(元米通商代表部代表)