馬場彰(17)ゴルチエ

才能見つけ一から育成
辛抱強く投資、売れっ子に

パリで活躍する大物デザイナー、ジャンポール・ゴルチエ。実は無名時代に才能を見いだし、一から育て上げたのが樫山だと知ったら、驚く人がいるかもしれない。日本のアパレルメーカーでは前例のない快挙といえる。

すでに有名になった海外デザイナーと契約し、日本での生産販売権を得るケースは多い。だがゴルチエの場合、財政的な支援を最初から樫山が請け負った。樫山が生みの親であり、育ての親なのだ。

出会いは1977年3月。樫山がパリで経営するブティック「バス・ストップ」にジーンズ姿の若者が現れた。それが無名時代のデザイナー、ゴルチエだった。当時、「バス・ストップ」では製造卸を手がけるために、専属デザイナーを募集していた。その面接試験を受けに来たのだ。

20人近いデザイナーとの面接を終え、あるデザイナーに決めかけていた。だがゴルチエが提出したスケッチを見た途端、女性店長の顔色が変わった。「面白いわ。彼にすべきよ」。翌日、直ちにゴルチエに採用すると伝えた。

弱冠24歳。青い瞳にまだ少年らしさは残るが、作風には独自性があり、感性がきらめいている。それまでは自前でショーを開いていたが、負債を抱えて活動を断念していたという。「この原石は磨けば光る」。樫山は未知の才能を全面支援することにした。

まずパリに彼のアトリエを開き、立体裁断や型紙作りを担当するスタッフを3人採用した。素材の仕入れや展示会やショーの経費もすべて負担した。78年秋にはパリのホテルで華々しく最初のショーを開いた。ところが肝心の注文がなかなか入らない。

反響は悪くないのだが、「売れる商品」としてバイヤーに認知されなかった。時代の方がまだゴルチエに追い付いていなかったのだ。その後もショーを開き続けるが、状況はそれほど好転しなかった。ゴルチエにとっても、樫山にとっても正念場が続いた。

「まだまだ赤字続き。支援を続けていいでしょうか?」。ついにパリから判断を仰ぐ連絡が来た。私の返事は「もちろん続けろ!」だった。将来性を見込んで投資に踏み切ったのだ。途中でやめたら意味がない。世界に受け入れられるまでは忍耐が必要なのだ。

幸い、人気に火が付くのに時間はかからなかった。下着ルックなどの斬新な作品が評判になり、80年には仏業界紙の人気投票でトップ10入り。すぐに首位を独占する超売れっ子に成長した。81年からは樫山とライセンス契約し、日本での販売を開始した。

日本通のゴルチエが来日すると、新橋や横浜の座敷に芸者衆を呼んでは楽しく酒を飲んだ。ちゃめっ気があってよく笑う。朱や紺に染め抜かれた火消しの印半天や腹掛けなどにも興味を示し、勉強熱心な一面をのぞかせた。「粋」が理解できるフランス人だった。

なぜ日本企業と組んだのかと問われて、ゴルチエは「樫山ほど思いきり仕事をやらせてくれるところはないから」と答えたという。「偉大な才能を見つけ、育てましたね」。世界的デザイナーの森英恵さんからはこう言われた。

ゴルチエとの出会いはモード界の歴史を塗り替え、樫山が世界に羽ばたく大きな足がかりになった。

(オンワードホールディングス名誉顧問)

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