馬場彰(4)敗戦

六畳一間、6人が雑魚寝
電車で小学校通学、冒険気分

横浜郊外の小机にあった親せき宅の離れで家族と暮らすことになった。六畳一間に両親と姉、兄、弟と私の6人が雑魚寝するのだ。だが湯河原の疎開生活よりはよほどましだと思った。

周りには田畑が広がり、農家の小さな集落がポツポツと点在している。時折、上空を米軍機が飛来することはあったが、この一帯が攻撃対象になることはない。

井戸を挟んで母屋があり、中庭には鶏が元気な鳴き声を上げながら駆け回っている。自給自足で暮らす農村の食生活は湯河原ほど過酷ではなかった。白米はめったに食べられないが、水団や野菜の雑炊を必死で腹にかき込んだ。

戦争末期になると、敵機が来ても、いちいち空襲警報を鳴らさなくなっていた。貧弱な高射砲で迎撃したところで白い煙がポンポンと上がるだけで命中するわけではない。

だが子どもたちは国民に必勝を呼びかけるこんな勇ましい流行歌を口ずさんでいた。

出てこい、ニミッツ、マッカーサー出てくりゃ、地獄へ、逆落とし――。

1945年8月15日。正午に重大ニュースが放送されるというので近所の住民が10人程度集まってきた。中庭に面した母屋の縁側にラジオを置き、直立不動の姿勢で耳を傾けた。玉音放送だった。

初めて耳にする天皇陛下の肉声だが、ラジオの感度が悪くて聞き取れない。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」。かろうじてこんな言葉が聞こえた。それが敗戦を意味するのか、本土決戦への激励を意味するのか、大人たちの間でも議論が割れていた。

しばらくして、横浜の東神奈川車掌区の教官をしていた父が帰ってきた。「おい、正午の放送はなんだったんだ」。皆が父に詰め寄った。ガックリと肩を落とした父は青白い顔でつぶやいた。「日本はね、戦争に負けたんだよ……」

重苦しい沈黙が周囲を押し包んだ。ある者はおえつを漏らして泣き崩れ、ある者はひざを折り、うつむいて黙っていた。軍国少年だった私の胸にもむなしさがこみ上げてきた。見上げると、抜けるような青空が広がっていた。

農家の離れで1年ほど暮らした後、横浜の中心部にある扇田町に引っ越した。鉄道職員向けの官舎が新築されたからだ。すぐ脇を石崎川が緩やかに流れ、近くを大きな国道が走る便利な立地だった。

そこから小机にある城郷小学校に通学した。路面電車で浜松町から東神奈川まで行き、国電に乗り換えて小机まで片道1時間ほどの距離である。電車内は買い出し客でギュウギュウ詰め。乗り込むだけでも一苦労だった。

でも私にとってはそれが楽しくて仕方がない。連結器の上にまたがったり、車両の屋根裏によじ登ったり。毎日、冒険旅行に出かけるような気持ちで通学していた。友人からもうらやましがられた。

このころ熱中したのはベーゴマ。勢いよく回すと、激しくぶつかり朱色の火花を飛ばす。だがコマの重心が高いと負けやすい。そこで重心を下げるため、路面電車の車輪に踏みつけさせて高さを削る“悪さ”も覚えた。列車が脱線しかねない危険行為だ。「あぶねえ!」。運転手からよく怒られた。

敗戦直後。日本は生きるための格闘を始めていた。焼け野原にはバラックが立ち、パンパン目当てにやって来る米軍人の姿であふれていた。

(オンワードホールディングス名誉顧問)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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