馬場彰(3)集団疎開

まるで軍隊、地獄の生活
横浜大空襲、家族が心配

湯河原に疎開した約300人は複数の温泉宿に分かれて寝泊まりした。私の宿舎は坂口屋旅館。藤木川と温泉街が一望できる風雅な宿だった。

授業といっても、校舎はない。学年別に旅館を行き来しながら、畳の広間で御膳を机代わりに勉強するのである。情緒あふれる温泉宿。周りは顔なじみばかり。ウキウキしながら寝床に入った。

ところが翌朝から、地獄のような疎開生活が始まる。

総員起床――。

カンカンとバケツをたたく音が鳴り響くと、教師から一斉にたたき起こされた。直ちに寝間着と布団を片付けるように命じられた。少しでももたついている子どもがいると、容赦なく鉄拳が飛んだ。

整列、番号、イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、ナナ――。

部屋の前で点呼させられる。学校というより軍隊である。旅館の部屋ごとに特別攻撃隊の名前で呼ばれることになり、私と寝泊まりする7人は「万朶隊」と名付けられた。

疎開先ではまともな食事にありつけなかった。主食は豆かすや大根メシ。大根メシといっても飯粒など見当たらない。あとはやせ細ったサツマイモくらい。いくら煮込んでも固くて味がない。週に1、2回は険しい十国峠に登り、大木を切り倒しては薪を集める重労働に従事した。

数週間もすると私はみるみるやせ衰え、生気を失っていった。脱走者も絶えなかった。夜中に寝床をそっと抜け出し、藤木川沿いに山を下り、東海道線を東へ向かうのだ。だが、小田原駅辺りで警官に捕まるのが関の山だった。

見せしめの意味もあるのだろう。連れ戻されたら子どもには、顔が青黒く腫れ上がるほどなぐられる鉄拳制裁と厳しい絶食罰が待っていた。

湯河原は首都圏を空襲する米軍機の飛行ルートにあたっていたようだ。はるか上空をB29が編隊を組み、悠々と飛来しているのを何度も目にした。秋が過ぎ、やがて年を越すと米軍の攻撃にもいよいよ拍車がかかってきた。

5月には横浜大空襲があった。「○○君、ちょっと来なさい……」。教師が改まった表情で生徒を呼び出すと、肉親が亡くなったことが告げられる。でも人前で泣くことは絶対に許されなかった。

深夜になると、あちこちの寝床からすすり泣きが聞こえてくる。「父さんは無事だろうか」。街の中心部で働く父のことが気がかりだった。後で聞くと、父は焼夷弾攻撃や機銃掃射をかいくぐりながら、生き永らえていたらしい。郊外の農村に移住していた家族もなんとか無事だった。

6月。そんな父がふらりと湯河原に姿を現した。私を連れ戻しに来てくれたのだ。「これからは一緒に住むぞ」。懐かしい父の顔を見ると、喜びがこみ上げてきた。

4月で中学生になった兄は私よりも一足先に家族の元に戻っていた。その兄を通じて疎開生活の過酷さを聞き知っていたようだ。

湯河原から列車で戻る途中、車窓から見た横浜の風景に私は思わず息をのんだ。見渡す限り灰色の焼け野原が広がっている。自分の生家も跡形もなくなっていた。米軍は木造住宅が多い横浜の街を焼夷弾攻撃で完全に焼きつくしたのだ。

1945年初夏。敗戦の色濃い日本は絶望のふちに立たされていた。

(オンワードホールディングス名誉顧問)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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