美輪明宏さんに聞く 「ヨイトマケ-」時代を超えて愛される名曲の理由

「かあちゃんの唄こそ世界一」。

昨年おおみそかのNHK紅白歌合戦に初出場した美輪明宏さん(77)の「ヨイトマケの唄」は、お茶の間に衝撃を与え大きな話題となりました。半世紀近く前に発表されましたが、歌詞に含まれる言葉が問題視され、表舞台から姿を消していた名曲がよみがえった瞬間でした。(櫛田寿宏)

◆まとも回帰

インターネットの掲示板に書き込まれた「ヨイトマケ-」に対する賛辞の数々。「ほめてくれるのはありがたいけど、恐縮してしまう」という美輪さんが、その一つを紹介してくれた。

「ひとつの歌が日本国民の意識を正常化に向かわせたのは初めてのできごと」

「ヨイトマケ-」は昭和40年にレコードが発売された。貧しい家庭の少年と、工事現場で泥まみれになって働く母親を描いた、約6分のドラマチックな歌だ。紅白以降、美輪さんのCD全集は前年の数倍の売れ行きとなっている。その理由を美輪さんは「真実、親子の情愛、無償の愛…。今、みなさんが欲しがっているものが入っているので支持されたのだと思います」と分析した。

美輪さんは、今の日本に「まとも回帰」現象が起きているという。テレビ番組は人に暴力を振るったり恥をかかせたり。小説や映画も恐怖やスリルなどを感じさせるものが多い。「文化の作り手の側はクールやニヒルでいることがかっこいいと考えているけど、そんな考えは過去のものになった。人々は心が温まる『まとも』なものを求めているんですよ」と話す。

◆“放送禁止歌”に

美輪さんがこの歌を作ったのは五十数年前。作った理由は「こういう歌がなかったから」。当時、シャンソンは上流階級の婦女子の優雅な趣味ととらえられていた。問題意識を持って、怒りを込めて何かを告発するために歌うシャンソン歌手もいたが、そうした歌は下品だといって受け入れられなかった。そんな状況に我慢できなかった美輪さんが渾身(こんしん)の思いを込めて発表した作品なのだ。

テレビで「ヨイトマケ-」を歌ったところ、大きな反響を引き起こした。レコードは大ヒットしたが『土方』などの差別表現を含むと判断されて民放の「要注意歌謡曲」に指定されてしまったのだ。後に指定制度が廃止されるが、以来、“放送禁止歌”という実体のないレッテルが張られてしまった。

平成10年に泉谷しげるさんが「ヨイトマケ-」をカバーした。それ以降、桑田佳祐さんや槇原敬之さんら数多くのアーティストが歌い、名曲として認識されるようになった。それでも、紅白歌合戦というひのき舞台で歌われるまでには、さらに多くの時間を要した。

常に美を追求する美輪さんが、この歌の中で非常に醜い人間を演じている場面がある。主人公の「ヨイトマケの子供」を別の子供たちがいじめるところだ。「いじめる側の人間は劣等感のかたまりで、頭が悪くて、それをごまかすために暴力を振るっていじめるんです。そんな卑しい心根に気づかないでいる。そのことを教えるために、なるべく嫌な顔をして表現しています」と説明した。

美輪さんは、「学校教育に修身の授業を復活させるべきだ」と力説する。「いじめることは、自分はバカです、劣等感のかたまりです、醜い心を持った人間です、と言いふらしているようなもの。だからやめましょうねと全国一律で教えれば、きっといじめはなくなります」。紅白での熱唱はそんな思いを込めた問題提起なのだという。

◆時代を超えて

美輪さんは幼少時、勉強ができて級長や副級長を務めることが多かった。自身がいじめられることはなかったが、いじめられる子供がいると、いつもかばった。「いじめられる子は優しくて、心がきれいで、傷つきやすくて。それで抵抗できないんです。だから守らなければいけない」と力を込める。

美輪さんは自分が子供のころ耳にした、いじめられっ子とその母親のやりとりが、今も忘れられないという。

「勉強ができたり、お金があったり、けんかが強いから偉いんじゃないよ。人間で一番偉いのは、お天道様の前で胸を張って一生懸命生きる人なんだ。正直に生きることなんだ。だからお前は偉いんだよ」

どんな時でも自分を肯定しようとする態度。「自分が自分の味方にならなかったら浮かばれないでしょ。あの歌には、そんな気持ちが込められているんです」。時代を超えて愛される名曲には、それが名曲たる理由があった。

■美輪さん「今の音楽はすぐ消えてしまう」

--今、「ヨイトマケの唄」が評価されて何か変わりましたか

「60年間ずっと同じスタンスでやってきました。それはこれからも変わりません。本物を作り続ければ、いつかは世間が評価してくれるものです」

--今の音楽をどうみますか

「ヒットチャートを意識して売れることだけを考えて音楽を作っています。だから似通ったメロディーになってしまう。歌詞もツイッターみたいになる。だからすぐ消えてなくなってしまう」

--人々はどんなものを求めていますか

「野球の斎藤佑樹選手やプロゴルフの石川遼選手、体操の内村航平選手のような存在です。世界に通用する技術があるのにさわやかで礼儀正しい。謙虚。決して相手の悪口を言わない。こういう人たちが支持される。でも、文化を発信する側の人たちはよく理解できないでいます」

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■美輪明宏(みわ・あきひろ)

昭和10年、長崎県生まれ。国立音大付属高校を中退し、16歳でプロの歌手として活動を始めた。類いまれな美貌で人気を集める。シンガー・ソングライターのさきがけとして活躍。32年、「メケメケ」を大ヒットさせた。俳優としての活動も注目を集めている。江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本の「黒蜥蜴(とかげ)」は空前の大絶賛を浴び、深作欣二監督で映画化もされた。「黒蜥蜴」は4月5日から5月6日まで、東京・銀座のルテアトル銀座で上演される。

馬場彰(22)秀和問題

ヨーカ堂の買収阻止
伊勢丹株、“秘策”で資金集め

「実は折り入ってご相談があります。これからお邪魔してもよろしいでしょうか?」

1992年秋。本社に1本の電話が入った。声の主は三菱銀行の伊夫伎一雄会長。もちろん面識はあるが、相談を持ち掛けられるほど親しい間柄ではない。当社のメーンバンクは住友銀行である。

(何だろう?)ただならぬ気配を察し、私は胸騒ぎを覚えた。ひとまず本社で面談する約束をして電話を切った。

人けのない応接室。伊夫伎氏は単刀直入に切り出した。

「秀和が買い集めた伊勢丹株をイトーヨーカ堂が引き取りたいと打診してきました。伊勢丹の最大取引先として、ご意見を聞かせてください」

忠実屋、長崎屋、いなげや、松坂屋などに加え、伊勢丹の株式を3割弱ほど取得していた秀和は、バブル経済の崩壊による不動産不況と株価の暴落で資金繰りが悪化。持ち株を手放そうとしていた。

その伊勢丹株をスーパーのイトーヨーカ堂が買い取り、傘下に収めようというのだ。寝耳に水だった。仰天した私は、直ちに異議を唱えた。

「伊夫伎さん。それはムチャな話です。百貨店をチェーンストアが経営するなんて。受け入れたら、銀行家として鼎の軽重が問われますよ!」

私は無意識に声を荒らげていた。高級品を売る百貨店と日用品を売るスーパーでは文化や経営手法が違いすぎる。伊勢丹は我が社の最大取引先である。経営が揺らげば大損害を被る。死活問題だった。

伊夫伎氏はじっと考え込んでいた。そして「ご意見はうかがいました。対応を協議します。時間をください」と告げ、その日の会談を終えた。

これはあくまで私の推測だが、伊夫伎氏は伊勢丹株をイトーヨーカ堂に売却することも選択肢の一つとして考えていたのではないかと思う。

私も猛反対したし、伊勢丹内でも異論が強かった。こうした状況を踏まえ、伊勢丹株を三菱グループと伊勢丹の取引先が買い取る構想が動き出したのだ。私は水面下で伊夫伎氏と会談を重ねながら、こんな“秘策”を持ち掛けた。

「我々も反対する以上は応分の負担をする覚悟です。百貨店、アパレルで奉加帳を回し、資金を集めます」

伊夫伎氏もこの提案で腹を固めたようだ。私はすぐに松屋の古屋勝彦社長に連絡し、伊勢丹と提携する百貨店9社間の根回しを依頼。アパレルでは三陽商会、東京スタイル、レナウンなど13社で協議し、極秘に作戦を練った。

三菱グループを含めた41社が秀和から伊勢丹株を買うことで決着したのが93年12月2日。買収額は764億4千万円。我が社の出資は東京生命保険と並んで最も多い100億円だった。こうして、イトーヨーカ堂の伊勢丹株買収は立ち消えになったのだ。これが私が知る舞台裏である。

「私も馬場さんの立場だったら同じことをしますよ」

後日、ヨーカ堂創業者、伊藤雅俊氏が笑顔で声をかけてきた。実に懐の広い人である。私は返す言葉がなかった。伊藤氏は大学の先輩である。別に恨みがあるわけではない。

「百貨店は公家、スーパーは野武士」。かつて五島昇氏はこう指摘したことがある。やはり野武士は強い。百貨店は再編の渦に巻き込まれる。伊藤氏が念願の百貨店(そごう・西武百貨店)を手に入れたのは、その12年後の2005年12月のことだった。

(オンワードホールディングス名誉顧問)

馬場彰(21)創業者の死

仕事の父、最後の笑顔
社内運動会で「虫の知らせ」

我が社の運動会はかなり本格的である。かき入れ時の大型連休が終わった5月下旬。東京・駒沢にあるオリンピック公園の球技場を借り上げ、社員や家族が総出で参加するのだ。

綱引き、ムカデ競走、リレー、マラソン……。紳士服、婦人服など部門ごとに青、赤、黄、白の4チームに分かれて熱戦を繰り広げる。「運動会でも強いチームは商売にも強い」。私はこう考えている。

紳士服部門一筋の私はいつも青組のリーダーだった。社長として本部のテント席に座るようになってからも、やはり青組の勝敗が気になる。

「(婦人服部門の)赤組には絶対に負けるなよ」。青組が負けそうになると、つい大声を上げてしまうのだ。

1986年5月28日。その年の運動会もいつもと変わらない熱気に包まれていた。天気は快晴。初夏の日差しは柔らかく、さわやかな風が吹き抜けてゆく。絶好の運動日和だ。創業者の樫山純三会長は競技前のラジオ体操を終え、本部席に腰を下ろした。

ハッスルする社員、父親を応援する子ども……。そんな風景を樫山会長は飽きもせず、何度もうなずきながら眺めていた。私と目が合うと笑顔を浮かべながら、「社員が元気に育ったなあ。本当にうれしいよ。ありがとう」と感慨深げにつぶやいていた。

昼食が終わり、競技も終盤に差し掛かったころ「そろそろおいとまするかな」と樫山会長は席を立たれた。これもいつものことである。私は会長の脇に立ち、体を支えるようにして歩いた。どうしてそうしたのか?今思い返しても不思議なことだった。

普段、矍鑠と歩いていた樫山会長の足取りが、その日に限って、なぜか頼りなげに感じたのだ。そんなことは初めての経験だった。樫山会長は私に手を委ねながら、駐車場までの通路をゆっくりと歩いた。心なしか背中が小さく見えた。それが「虫の知らせ」だったのかもしれない。

4日後の日曜日の昼ごろ。私は休暇を利用して高校時代の親友と北海道・利尻島を旅行していた。その宿泊先に突然、連絡が入ったのだ。

「馬場社長!樫山会長が今朝、急逝されました。大至急、戻ってください」

耳を疑った。84歳の高齢とはいえ、樫山会長はごく最近まで実に元気だったのだ。出社しても自分の足で階段を上がっていたし、昼食にざるそばとカレーうどんを平らげるほどの健たん家だった。「健康には自信がある。100歳まで生きる」が口癖だったのに。信じられなかった。

病院に着いたのが翌日昼。樫山会長は穏やかな顔でベッドに横たわっていた。本当に亡くなってしまったのだ。あの日の運動会が、ついに最後の別れになってしまった。

入社面接での会話、社長就任を巡る押し問答、そして運動会での最後の笑顔……。数々の場面が鮮やかに脳裏によみがえってきた。私の人生を変え、チャンスを与えてくれたのは樫山会長にほかならない。仕事では父親のような存在だった。

社葬は6月17日に東京・芝の増上寺でしめやかに執り行われた。

「高々と掲げられた火はオンワードグループの全員に受け継がれ、永遠に消えることはありません。断腸の思いでお別れを申し上げます」

葬儀委員長を務めた私は、静かに弔辞を読み上げた。

(オンワードホールディングス名誉顧問)

馬場彰(20)多角化

海洋レジャー、新たな柱
1級免許受験、8日間猛勉強

欧米を旅行しているとどうしても気になることがあった。伊サルデーニャ島に行っても、米ロサンゼルスに行っても、立派なマリーナが整備され、たくさんのクルーザーが停泊している。つまり、海洋レジャーが根付いている。

ところが日本は四方を海で囲まれているのに、海洋レジャーでは欧米に比べて大きく後れを取っていた。「日本にも海洋レジャーが花開く時代が必ずくるはずだ」。私はこう考えるようになっていた。

ヨット、クルーザー、モーターボートなどを輸入販売する子会社を設立したのはバブル経済が真っ盛りの1988年。85年には「生活文化企業」を目指すと宣言しており、海洋レジャーをその中核事業に位置付けようとしたのだ。

2つの狙いがあった。1つは時代のニーズを先取りし、アパレルメーカーとして多角化を進めること。もう一つは海洋レジャーを軸にした衣料の新ブランドを展開すること。「一丸となって時代の波を乗りこなそう」。そんな意気込みで目標に取り組んだ。

クルーザーなどの販売と連動させ、国際ヨットレース「アメリカズ・カップ」で優勝したデニス・コナー氏と提携し、同氏の名前を冠したマリンウエアを発売。さらにグアムにリゾートホテルを開業した。岡山県日生町ではコンドミニアム付きマリーナの建設計画も進めることにした。

隗より始めよ――。

まず自らが手本を示して仕事に挑戦するのが私の信条である。シンボルとなる米国製の豪華クルーザーを会社で購入。自ら操縦するために小型船舶操縦士の1級免許に挑戦することにした。4人の会社幹部とともに広島県尾道市にある専門学校で8日間、缶詰めになって猛勉強した。

あれだけ真剣に勉強したのは大学受験以来のことだろう。プロの船員らに交じって、船舶の法規から安全確認の手順、天体観測、レーダー、国際信号、天気図の見方、ロープの結び方にいたるまで様々な知識を頭にたたき込み、海上での実技を繰り返した。

「もし自分だけ落第したらみっともない」。そんなプレッシャーとの戦いでもあった。朝8時から夜2時まで。まるで受験生のような勉強漬けの合宿生活を送った。

いよいよ実技試験の当日。寒冷前線が通過した影響で海が大荒れになるという試練も味わったが、なんとか努力が実り、5人とも見事に合格。それを機に船舶免許を取りたいという社員が相次いだ。

趣味でもビジネスでも、組織全体で目標に挑戦する。そんな気合が大切なのだ。

91年には社員の浅沼良男君が、ニュージーランドから横須賀まで太平洋をヨットで単独縦断するという快挙をなし遂げた。約2カ月間。7メートルもある崖のような大波や目も開けられないほどの嵐も体験したようだ。私は社を挙げて休暇や通信体制の整備などで支援を惜しまなかった。

私が初めて映画に出演したのもこの時期のこと。タイトルは「彼女が水着にきがえたら」。原田知世さんが主演で海洋スポーツをテーマにした映画(89年公開)である。ロケ地やクルーザー、衣装などで協力したが、海洋レジャー機運を盛り上げようというメディア戦略の一環だった。

バブル経済を追い風に、我が社はアパレルメーカーから「生活文化企業」へと新たな脱皮を図ろうとしていた。

(オンワードホールディングス名誉顧問)

馬場彰(19)訪中団

トウ氏、団員100人と握手
山猫・わい談…実業家と交流

若くして社長になったせいか、財界活動でも多くの先輩にお世話になった。特に東急グループ総帥の五島昇氏にはかわいがってもらった。

五島氏が日本商工会議所の会頭だった1985年3月。経済人約100人が北京、上海、広州、深センなどを訪問する初の使節団のメンバーに誘っていただいたことがある。

太平洋経済共同体――。団長を務める五島氏は、盟友の中曽根康弘首相に「民間主導、経済優先」を軸にこんな構想を提言していた。訪中団には、その提言を後押しする狙いが込められていたようだ。

印象深かったのは人民大会堂でのトウ小平氏との会談。「孫文が私の義父で実業家の久原房之助(後に政友会総裁)にあてた手紙です……」。交流の証しを示すためだろう。書簡とともに、久原氏が孫文に資金援助をしていた経緯を記した資料も五島氏が見せると、トウ氏は「日本とは色々な歴史がありましたからね」と豪快に笑い飛ばしていた。

改革開放政策を主導するトウ氏は別れ際に訪中団メンバー一人ひとりと握手をした。驚いたのはその手の大きさ。体格は小柄なのだが、手は肉厚でがっちりしている。グローブのような感触だった。

「私が皆さんに会うのは異例のことなんです。100人と握手しましたから、これで100の合弁事業が生まれるのは間違いありませんね」。ユーモアを交えたあいさつにトウ氏の日中経済交流に対する熱い期待がにじんでいた。

参加した実業家との交流も愉快な思い出となった。

「メシでも食いましょう」。上海ではサントリーの佐治敬三社長からこう声をかけていただいた。向かったのは高級レストラン。着席すると、なぜか料理名は告げられずに、甘辛いあんかけがトロリと乗った肉料理が出てきた。

口に入れると実にうまい。肉はとけるように柔らかくてクセがない。ペロリと食べてしまった。「いやぁ、さすがに洗練された料理ですね。ところでこれは何の肉ですか?」。佐治氏に尋ねると「ああ、これね。山猫ですよ……。美味でしょう」という返事。

「えっ!」と驚いたがもう後の祭り。柔らかい山猫の肉の塊はしっかりと私の胃袋に収まっていた。そんな私の慌てふためく様子を見ながら、佐治氏はいたずらっ子のようにニコニコと笑っていた。

昼間はホンダ創業者の本田宗一郎氏の隣に常に陣取って行動した。「この実業家から何かをつかみ取ってやろう」と思ったからだ。本田氏は実に豪快な快男児だった。

要人との会談中に堂々と居眠りしていたかと思うと、バスでの移動中はべらんめえ調でわい談ばかり。枠にとらわれない器の大きさを感じた。

「東商か日商のなかに、ファッション協会を作ろうと思っているんだ」。五島氏からこう明かされたのは北京のホテル。重厚長大から軽薄短小へ――。五島氏は財界活動にも転換が必要だと考えていたようだ。私も大賛成だった。

「ファッションを広義にとらえるべきです。衣料だけでなく、衣食住全般に広げるため『生活文化産業』という発想でくくったらどうですか」。こう進言したのを覚えている。

ファッション協会は「太平洋問題」と並び、その後の五島氏の財界活動の軸足になった。やがて、その理事長を私が務めることになる。

(オンワードホールディングス名誉顧問)

馬場彰(18)アメフト

「打倒レナウン」闘争心
選手に「雷」、パールボウルV

アパレル業界の最大手にはレナウンが君臨していた。「打倒レナウン!」。2番手に甘んじていた樫山はこれを合言葉に必死で追い上げていた。

私が社長に就任する直前の売上高はレナウン約900億円、樫山約600億円。これが1980年代半ばにはレナウン約2200億円、樫山約1800億円となり、徐々に追い詰めていた。

とはいえ、背中がぼんやりと見えるだけでまだ水をあけられている。そこで目を付けたのがアメフトだった。当時「レナウンローバーズ」は常勝軍団。一方、樫山には弱小チームが幾つかあるだけ。

「アメフトでレナウンを打ち負かそう」――。私は新たなスローガンを掲げた。84年に東京と大阪で別に活動していたチームを合併して「オンワードオークス」を結成し、リーグに加盟させたのだ。

これにはいくつかの狙いがあった。まず強いレナウンを「仮想敵国」に仕立てれば社員の士気が高まる。東阪で分かれていたチームを統合するから社内の一体感も強まる。さらにアメフトを通じて企業イメージ向上にもなる。

目標が決まれば、私はじっとしていられない性分である。自らの体を張って有力選手の獲得に動くことにした。照準を定めたのは、すでに黄金時代を迎えていた日本大学アメフト部の篠竹幹夫監督。パイプができれば優秀な学生を送り込んでもらえる。

営業マン時代の闘争心がよみがえってきた。自分をさらけ出して人間関係を築くのだ。アメフトも一から勉強し直し、篠竹監督にこちらの熱意を何度も伝えた。翌朝まで飲み明かしたこともある。

選手たちが練習できる専用グラウンドも神奈川県相模原市に整備した。こうした努力が少しずつ実り、「オンワードオークス」は着実に力を付けていった。私が選手を怒鳴りつける“事件”が起きたのはそんな矢先のことだった。

88年9月13日。この日、宿敵「レナウンローバーズ」と試合だった。成績は上がり調子とはいえ、それまでレナウンには1度も勝ったことがない。一方、レナウンは85年に学生代表を倒して日本一に輝いた強豪チームである。

健闘したものの、試合は14対33で敗北。レナウンに縦横無尽に走られる完敗だった。私は強敵に負けるのは仕方ないことだと思っている。明日の闘争心につながるのならば、敗北だって良い薬になるだろう。だが私が見逃せなかったのは選手の態度だった。

試合後の激励会。宿敵に敗れたのだから、選手はさぞかし悔しがっているだろうと思っていた。だが選手を見ると談笑するばかり。反省する様子が見られない。色々と事情はあったと思うが、その瞬間、私の中で何かが弾けた。

「おい!悔しくないのか。こんな情けないチームなら、すぐに解散した方がいいぞ」。頭から雷を落としていた。単に試合に負けたというだけの話ではない。会社全体の士気にかかわる問題だった。

この「雷」が功を奏したのだろうか。翌年にはレナウンを撃破してパールボウルで初優勝。結局、パールボウルでは優勝計5回。91年度には学生代表を破り、初の日本一にも輝く。アメフトでレナウンに負けることはなくなった。

我が社が売上高でついに宿敵のレナウンを抜き去ったのは98年2月期のことだった。

(オンワードホールディングス名誉顧問)

馬場彰(17)ゴルチエ

才能見つけ一から育成
辛抱強く投資、売れっ子に

パリで活躍する大物デザイナー、ジャンポール・ゴルチエ。実は無名時代に才能を見いだし、一から育て上げたのが樫山だと知ったら、驚く人がいるかもしれない。日本のアパレルメーカーでは前例のない快挙といえる。

すでに有名になった海外デザイナーと契約し、日本での生産販売権を得るケースは多い。だがゴルチエの場合、財政的な支援を最初から樫山が請け負った。樫山が生みの親であり、育ての親なのだ。

出会いは1977年3月。樫山がパリで経営するブティック「バス・ストップ」にジーンズ姿の若者が現れた。それが無名時代のデザイナー、ゴルチエだった。当時、「バス・ストップ」では製造卸を手がけるために、専属デザイナーを募集していた。その面接試験を受けに来たのだ。

20人近いデザイナーとの面接を終え、あるデザイナーに決めかけていた。だがゴルチエが提出したスケッチを見た途端、女性店長の顔色が変わった。「面白いわ。彼にすべきよ」。翌日、直ちにゴルチエに採用すると伝えた。

弱冠24歳。青い瞳にまだ少年らしさは残るが、作風には独自性があり、感性がきらめいている。それまでは自前でショーを開いていたが、負債を抱えて活動を断念していたという。「この原石は磨けば光る」。樫山は未知の才能を全面支援することにした。

まずパリに彼のアトリエを開き、立体裁断や型紙作りを担当するスタッフを3人採用した。素材の仕入れや展示会やショーの経費もすべて負担した。78年秋にはパリのホテルで華々しく最初のショーを開いた。ところが肝心の注文がなかなか入らない。

反響は悪くないのだが、「売れる商品」としてバイヤーに認知されなかった。時代の方がまだゴルチエに追い付いていなかったのだ。その後もショーを開き続けるが、状況はそれほど好転しなかった。ゴルチエにとっても、樫山にとっても正念場が続いた。

「まだまだ赤字続き。支援を続けていいでしょうか?」。ついにパリから判断を仰ぐ連絡が来た。私の返事は「もちろん続けろ!」だった。将来性を見込んで投資に踏み切ったのだ。途中でやめたら意味がない。世界に受け入れられるまでは忍耐が必要なのだ。

幸い、人気に火が付くのに時間はかからなかった。下着ルックなどの斬新な作品が評判になり、80年には仏業界紙の人気投票でトップ10入り。すぐに首位を独占する超売れっ子に成長した。81年からは樫山とライセンス契約し、日本での販売を開始した。

日本通のゴルチエが来日すると、新橋や横浜の座敷に芸者衆を呼んでは楽しく酒を飲んだ。ちゃめっ気があってよく笑う。朱や紺に染め抜かれた火消しの印半天や腹掛けなどにも興味を示し、勉強熱心な一面をのぞかせた。「粋」が理解できるフランス人だった。

なぜ日本企業と組んだのかと問われて、ゴルチエは「樫山ほど思いきり仕事をやらせてくれるところはないから」と答えたという。「偉大な才能を見つけ、育てましたね」。世界的デザイナーの森英恵さんからはこう言われた。

ゴルチエとの出会いはモード界の歴史を塗り替え、樫山が世界に羽ばたく大きな足がかりになった。

(オンワードホールディングス名誉顧問)

朴 智星 パク・チソン 「日本人のイメージは良くなかった」

若くて右も左もわからなくて、とんがっている時に日本に来ました。
最初は学校で習ったように、日本人に対してのイメージは良くありませんでした。でも日々暮らしているうちに全然違うと気がつきました。

特に日本のクラブに来た日から毎日必ず声を掛けてくれて、悩んでいる時に相談を聞いてくれたカズさんは人生の師です。

「カズさんのようになりたいです。」
と言った時にカズさんが、急に真顔になり、話してくれた言葉は自分の人生を変えるものでした。

「いいかい、智星。
自国以外でサッカー選手として、生き残るのは本当に困難だ。
最後までサバイバルする選手に、一番必要なものは何かわかるかい?

技術じゃない。
そのクラスの選手の技術は、みんな同じくらい高いからね。

一番大切な事は、サッカーへの情熱。
一途の献身。
毎試合、今日死んでも悔いはないという思いで、試合に望むこと。

サッカーに人生を賭ける選手だ。

ブラジルでは、貧しくて一生スタジアムに来れない人が沢山いるんだ。
ブラジル人にとっては悲劇だよ。

智星、わかるかい。
ブラジルで、俺は試合前に、必ずスタジアム全体を見る。
この中でいったい何人の人達が、一生に一回だけの試合を見にきたんだろうと思うんだ。

すると全身にアドレナリンが溢れてきて、喧嘩した直後みたいに身体が震えてきて、鼻の奥がツーンとしてくる。
俺はそのまま試合開始のホイッスルが鳴るのを待つんだ。

うまく言えないけど、これが俺のサッカー人生だ。

智星が本当にサッカーを愛しているなら、とことんまで愛してやれ。
智星のプレーで、全然違う国の人々を熱狂させてあげるんだよ。
それは本当に素晴らしい経験なんだよ。」

—-

朴 智星(パク・チソン、1981年2月25日生)
韓国出身のサッカー選手。元同国代表、プレミアリーグ・クイーンズ・パーク・レンジャーズ所属。

馬場彰(16)急成長

「マフィア・悪代官」論争
百貨店重鎮に「不条理」訴え

社長に就任して以来、私は人事制度の整備にも力を入れた。人心を掌握するには社員から信頼してもらえる組織になる必要がある。それを可能にするのが、科学的で公平な人事考査だと思ったからだ。

たとえば上司のさじ加減で考課がコロコロと変わるようでは部下が安心して働けない。情実人事が横行し、上司の機嫌ばかりうかがうようになる。これでは会社にも大きなマイナスだ。そこで業績をポイント化し、考査結果を誰の目にも見えるようにした。

第一歩は1976年に導入した業績考課制度。業績による考課を明確に給与にリンクさせ、抜てきも大いに奨励した。年功序列の気風を排除するのが狙いである。創意工夫で結果を出せば必ず見返りがある。仮に失敗しても復活できる道を残すようにした。

この制度は組織を一枚岩にし、活気をもたらした。ちなみに87年にはもっと激しい役職任期制を取り入れた。2年に1度、課長も部長も係長に戻り、課長と部長を決め直す仕組みだ。実力本位の下克上である。社内を見渡せば、年下の上司など珍しくもない。

売上高を見ると、私が社長に就任してから飛躍的に伸びたことが分かる。74年2月期の約586億円から8年間でざっと3倍。記録的な高度成長である。それを可能にしたのが東阪一本化や人事制度、支店網の整備など社長就任後に取り組んだ「足場固め」だったのは言うまでもない。

売れ残りを返品として引き取る「委託取引」と社員を販売員として派遣する「派遣店員」をテコに百貨店でのシェアを拡大できたことも大きい。これらは樫山が業界に先駆けて導入した制度だった。

実はこの「委託取引」を巡って、私が尊敬する百貨店の重鎮と激論を戦わせたことがある。84年に神奈川県大磯で開いた流通セミナーでのことだ。相手は伊勢丹専務や松屋、東武百貨店の社長などを歴任し、「ミスター百貨店」と呼ばれた山中氏である。

山中氏は仕入れの心構えを説く演説でこう指摘した。

「アパレルなんてマフィアみたいなものだ。委託取引を通じて百貨店の売り場をジワジワと占有してしまう」

私は黙っていられず、山中氏に即座にこう反論した。

「アパレルをマフィアと呼ぶなら、百貨店は悪代官でしょう。あくせく働くアパレルから利益を搾り取っている」

山中氏は委託取引の弊害を懸念していたようだ。百貨店がリスクを負わずに商品がそろってしまう。だから、百貨店の商品仕入れ力や売り場の企画力、さらには人材まで育たなくなるというわけだ。おそらく百貨店業界を鼓舞するための発言だったと思う。

だが、私には聞き捨てにできない言葉だった。これが後に流通業界で語り草になる「アパレル・マフィア=百貨店・悪代官」論争である。

私は新人時代から感じていた「不条理」をぶつけたにすぎない。私と山中氏との認識に大きな違いはなかった。同じ論点を逆の立場から言い合っただけだ。大先輩の山中氏は率直に物を言う親分肌。私と似たタイプなので不思議と馬が合い、この一件以来、すっかり打ち解けて親友になってしまった。

百貨店とアパレル――。ともに競い合い、協力しながら日本のファッション市場を発展させてきた好敵手だった。

(オンワードホールディングス名誉顧問)

馬場彰(15)足場固め

大阪通いつめ、労組統一
東京と壁、まるで別会社

1974年4月。私は38歳の若さで社長に就任し、樫山純三氏は会長に退いた。樫山会長は「二頭政治は良くない」と宣言、かじ取りをすべて任せてくれた。

「人間には年齢相応の知恵しかない」――。これが私の持論である。特に心がけたのは人の声に耳を傾けること。社内の実態をつかむため、ベテランから若手にいたるまで様々な意見を直接聞いて回った。

すると、いくつかの問題が浮かび上がってきた。「東阪体制の融合」と「労働組合の形態」である。当時、発祥の地である大阪と、後から本社に昇格した東京は個別に機能し、別会社のような状態だった。人事交流がほとんどなく、互いに顔見知りも少ない。給与体系さえ違っていた。

笑えない記憶が脳裏によみがえってきた。69年に樫山が初めて三越と取引を始めた際、大阪がどうしても三越と取引をしようとしないのだ。

「東京も三越と取引を始めて成功しました。ぜひ、大阪でも始めてください」

大阪に出張した私は樫山の幹部にこう申し入れた。「ああ、分かりました」。この幹部はニコニコしながら答えるのだが、いつまでたっても動こうとしない。実は「東京の方針には従いたくない」というのが本音だったようだ。

同じ社内なのにまったく妙な話である。「これでは一丸となって戦えない」。私は頭を抱えるしかなかった。

労組の形態も複雑だった。東京では労使協議会の色彩が強い「DPS会議」が主流。だが大阪では総評系、ゼンセン同盟系、社内労組などが混在していた。会社との賃金交渉もバラバラにやるしかない。こうした状況が、社内の団結を阻む要因になっていた。

東西一体の会社経営に着手する――。私はこんな目標を打ち出した。喫緊の課題だった。大阪の幹部や労組幹部らとひざ詰めの交渉を始め、地道に信頼関係を積み上げるしかなかった。「足場固め」に社運を賭けて取り組んだ。

1週間のうち半分近くは大阪出張に費やしていた。「私を信じてほしい。力を合わせなければ厳しい状況を樫山は生き残れない」。様々な社員と夜を徹して酒を飲み、胸襟を開いて本音でぶつかった。

こうした努力が功を奏し、75年1月に「樫山労働組合」が結成された。17日夕、神田の共立講堂で開いた総決起大会には全国から約2300人の組合員が集まった。総評やゼンセン同盟などには加盟せず、専従役員も置かない自主独立型の社内労組である。

労組幹部との粘り強い交渉の結果、「組合員の3分の2以上の賛同がなければ上部団体に加盟できない」という趣旨の項目も定款に入れた。「労使対立は共倒れを招く」との共通の危機感からだ。

東京の方が大阪よりも高いという賃金格差は、3年ほど東京の昇給を足踏みさせて水準を合わせた。協議を繰り返し、組合員に会社の主張を理解してもらった成果だ。若いからできたのだと思う。

73年に仙台、74年に名古屋、76年に広島に支店を開設。業界に先駆け、地域ごとに営業マンがきめ細かく対応する全国支店網も整った。これで取引先の売り場から売れ残りを素早く引き取り、鮮度の良い商品を届けることができる。樫山の営業力は飛躍的に高まった。

(オンワードホールディングス名誉顧問)