渡辺淳一(26)東京へ

医と筆、二足のわらじ
愛人に浮気バレて修羅場

小説を書くことが水商売とは思わなかったが、かなり不安定な職業であることは、わかっていた。

だが、このまま大学病院に残ることは、かなり身勝手で、講師という教職の立場にある者として、許されることではない。

わたしはそう自分にいいきかせて、退職することを教授に申し出た。

教授は驚かれて、そこまで責任をとることはない、といわれたが、わたしの気持ちはすでに決まっていた。

「でも、文筆の世界で生きていくのは大変だよ」と教授がいわれ、「難しくなったら、いつでも帰っておいで」といってくださった。

わたしは涙が出るほど嬉しかったが、でも筆一本で生きてみせる、と自分に強くいいきかせて医局を辞した。このとき、昭和44年(1969年)春、わたしは35歳になっていた。

それにしても、これから小説一本で生きていけるのか。たしかな自信はなかったが、新潮同人雑誌賞をもらい、芥川賞候補になってから2度、直木賞候補にもなり、この間も30本近く短編を書き、長編の構想も胸に秘めていた。

なんとかいけるはずだ、と思っていたが不安も大きく、この年、正月に産まれた次女に、直子と名付けて、なんとか賞をとると自らにいいきかせた。それでもたしかな自信はなかったので、家族は札幌においたまま、単身で上京した。

このときも、東京は桜が咲いていたが、見とれる余裕もなく、まず神田にあった医師会に行き、住み込みでアルバイトのできる病院を探し、そこで1日おきに病院に勤めることになった。この病院は、墨田区の石原にあった山田病院で、此処の院長先生には本当にお世話になった。

ともかく、こうして東京で生活していく基盤ができ、一日は病院で外科系の患者さんを診ながら、一日は小説を書くことに熱中した。

それにしても、東京という大都会で1人で生きていくのは心細い。そんなとき、札幌からJ子という女性が上京してきた。彼女とは札幌にいるときから際き合っていたが、わたしが東京に出たのをきっかけに上京してきて、銀座のクラブに勤めることになった。

しかし初めのうちは、1人では淋しいということで、わたしの部屋に一緒に棲むことになった。

これでは、院内の看護婦たちに知れてしまうと思ったが、彼女は夜、出かけて深夜、帰ってくるのでさほど目立たない。

それにしても、札幌からいきなり出て来て、夜の銀座で働いていくことができるのか。わたしは案じていたが、彼女は1人で働くクラブを探してきて、たちまち売れっ子になり、わたしよりはるかに収入が多くなった。

こうして半年少し経ったとき、彼女にわたしの浮気がばれてしまった。相手は、同じ病院の看護婦さんで、J子がいない夜など、部屋で密会していたが、たまたまある夜、看護婦さんがわたしの部屋に口紅などを置いていったため、バレてしまった。

わたしは驚き慌てたが、J子は怒り、こんなところに住んでいられない、といって、神宮前の方に新しい部屋を借りて出て行った。

今、考えると、あの口紅は際き合っていた彼女が意図的に置いていったような気がするが、詳細はわからない。

(作家)

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