渡辺淳一(23)文壇の父

船山夫妻の死に唖然
作家の厳しさ、身に染みる

新潮同人雑誌賞の授賞式に出席するとともに、わたしは道内の評論家から紹介状をいただいて、北海道出身の作家である、船山馨先生と八木義徳先生をおたずねした。

あいにく、八木先生は所用がおありだということだったが、船山先生は快く会って下さり、さらに奥さまが鍋料理までご馳走してくださった。

当時、船山先生は重度のヒロポン中毒から立ち直られ、地方紙に「石狩平野」という長編を執筆されていた。

先生は、「君はこれから本格的にのびるよ」と励ましてくださり、新宿のバーに連れて行ってくださった。

幸い、わたしの同人雑誌受賞作はその翌年の1月、芥川賞候補にも挙げられたが、受賞にはいたらなかった。

だが、わたしはそのことでおおいに自信を得て、その後、「文芸」などに小説を書きはじめたが、いわゆる中間小説雑誌からも依頼があり、受けるべきか否か迷った。

そこで、再び上京した折り、伊藤整先生にご相談すると、先生は即座に、「書きなさい」といわれた。

さらに、「ああいう雑誌に書くと、君の名前が全国紙に堂々と出るんだよ、それがどれくらいのお金が必要か、わかっているのかな。とにかくこの世界はきびしいんだ。あれこれ選んでいるうちに消えてしまうから、書けるときは徹底的に書きなさい」。そういわれて、わたしは純文学、大衆文学などにこだわらず、依頼された雑誌すべてに書くことにした。

このあと、わたしは上京のたびに、船山先生と伊藤先生のお宅をおたずねするのが慣わしとなっていた。

だが昭和56年(1981年)、船山先生は急逝された。

若いときからの重度のヒロポン中毒で、体を相当、痛めつけていたようだが、そのきっかけを先生は、「若いとき、新聞連載の話を受け、書く自信もないのに飛びついて苦労してね」と仰言っていた。

そしてわたしに、「ある程度、書く自信があるときに、受けるものだよ」と注意をくださった。

まさしく、文壇の父親のようであった船山先生が倒れたとき、わたしはすでに東京にいて、ご自宅に駆けつけたが、先生の意識は戻られず、そのまま亡くなられた。

その呆気なさにわたしが唖然としていると、その夜遅く、奥さまも突然、容態が悪化され、御主人を追うように亡くなられた。

まさにご夫婦、同じ日に、心中のような亡くなり方であったが、たしかにお2人は深く愛し合われていた。

実際、ご長男の話によると、先生がヒロポン中毒になられたときは、その苦しさを奥さまも実感するべく、同じ薬を服まれて、同じ中毒になられて苦労された、ということだった。

まさに、小説を書いていく厳しさを教えられたような気がして、わたしは改めて身を引き締めた。

そしてこの間も、わたしは懸命に小説を書き続けた。もちろん、臨床も忙しかったが、幸い、わたしには、以前からの書きだめがいくらかあったし、さらに医学の現場から得た新しいテーマも心に秘めていた。

これらを書いて、書き続けていく。

わたしは新たな決意とともに、原稿用紙に向かっていった。

(作家)

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