渡辺淳一(18)整形外科医へ

医局で骨移植を研究
愛らしい看護婦と親密に

医師国家試験に合格したあと、わたしは大学院へすすむことにした。ここで4年間の研修を終えると、医学博士の学位を得ることができる。

ところで、この研修をどこでやるべきか。わたしは少し迷ったが、すぐ整形外科でやることに決めた。

理由は学生時代、わたしは文芸部に属していたが、ここの部長先生が整形外科の河邨文一郎教授で、この先生に、「整形外科にこないか」と誘われたからである。

河邨先生は東大医局時代、詩人の金子光晴氏などと詩の創作に関わられ、札幌に来られてからも、詩誌を主宰されていた。

のちに先生は札幌冬季オリンピックの折、「虹と雪のバラード」というオリンピック賛歌をつくられ、トワ・エ・モアが歌い、多くの人々に親しまれた。

この先生の下でなら、小説を書いても叱られることはないだろう。そう思ったこともあるが、それ以上に、臨床をやるのなら整形外科のように、比較的論理的で明快な科がいい、と思ったからでもあった。

かくして整形外科に入り、臨床と研究をはじめたが、わたしたちの研究室は病院の地下棟にあった。

ここにはさまざまな実験道具とともに、腫瘍などで切断された人体標本があり、さらにその奥には霊安室もあったが、深夜遅くまでいても、そこからお化けや幽霊などが出てくることもない。

初め、解剖実習のときに感じた、屍体への不安や驚きも、すでにまったく失せて、標本はあくまで標本でしかなかった。

医局には30名近くの医師がいたが、そのなかには助教授、講師といった教育スタッフから助手、さらにはわたしのような大学院の学生、そして医師にはなっているが、大学で臨床経験を積みながら学んでいる者もいた。

わたしの大学院生としての研究テーマは骨移植で、先輩たちは同種骨移植や異種骨移植などについて、病理標本をつかって調べていた。

しかしこれでは適切な結果は容易に得られない。そう考えたわたしは、同位元素をつかうことを考え、東京の病院に教わりに行きたいと、教授に申し出た。

結果として、これがプラスとなって、大学院在学中の4年間で無事、学位論文を完成することができた。

これらの研究とともに、臨床のほうも意欲的に学んでいった。

当時、北海道ではポリオ(小児麻痺)が蔓延したあとで、それらの治療も大変であった。そのため、わたしは1年間、子供たちが治療しながら学べる、整肢学院へ出張した。

このあと、再び大学へ戻って臨床に取り組んだ。

当初、わたしは3つの病室を担当させられ、14人の患者さんを受けもったが、その各人の病状を理解し、処方していくのは、意外に大変であった。

その点について、担当の看護婦(当時はまだ看護師とはいっていなかった)と話し合い、相談などするうちに、次第に親しくなっていく。

いや、単に医師と看護婦として接しているのがほとんどだったが、わたしの担当の看護婦はとくに愛らしくて、病院外でもデートを重ねるうちに、男女の関係になってしまった。

(作家)

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