渡辺淳一(16)医学への興味

人間の原点、のめりこむ
哲学と対極、臨床にも没頭

屍体と身近に接しながら、わたしがいま一つ実感したことは、解剖学は分布学というか、存在学である、ということである。

たとえば今、解剖学書に、「右大腿部内側の、股間の中央部に右大腿動脈が走り」と記されていて、解剖学書どおり動脈があったとしても、それはそこにそういう血管が存在しているというだけで、その血管の性能とはなんの関係もない。

この事実は脳などを見るとき、さらに強く感じることで、脳内の血管分布は人間すべて同じで、解剖学的にはなんの違いもない。

しかし現実には秀れた脳と劣る脳があるのはなぜなのか、という疑問に突き当たる。

はっきりいって優秀な人の血管は、頭の劣る人の血管より多いとか、太いというのなら納得できるが、その種の違いはまったくない。

しかし現実の生活では、優秀な人と、そうでない人がいるのだから、脳の構造上でも、もう少し違いがあってもいいのではないか、と思ってしまう。

だが、解剖学はそこまで解明する学問ではなく、人体のどこに、どのような形で血管や筋肉が存在するかをたしかめ、認知するだけの学問にすぎない。

解剖学の面白さと虚しさは、まさにここにある、といってもいいだろう。

こうして、解剖学はわたしに、人体の基本的な構造を教えてくれた。

人間とは、このような箇所に、このような血管や臓器が存在して、このような形でできあがっているのだ。

まさしく解剖学は人間の原点であり、人間の基本、そのものであった。

それに比べて、とわたしはふと思った。哲学はなんと抽象的で、観念的なのか。

もちろん、だから哲学はつまらない、などという気は毛頭ない。

しかし、現実に人体を見て感じる生々しさに引きつけられていたわたしは、このまま医学に没頭することに、なんの迷いもなかった。

それにしても、わたしの母は、このように、わたしが医学に興味を抱き、没頭していくことを見抜いていたのだろうか。

もし、そうだとしたら少し口惜しいが、わたしが解剖学に触れた途端、医学に強くひきつけられたことはまぎれもない事実だった。

さらに基礎医学には、解剖学の他に生理学、そして病理学、薬理学などがあった。

それぞれに面白く、興味をそそられたが、最初に解剖学に出会った衝撃は、圧倒的に強かった。

そのまま2年間の基礎医学の課程を終えてから、わたしは臨床医学を学ぶことになった。

当然のことながら、ここからは直接、生身の人間に触れることになるので、興味を一層かきたてられた。

ポリクリといって、講義中に、入院中の患者さんが現れて診ることもあるし、実際に医師の診察の脇について、臨床を学ぶこともある。

正直いって、そのいずれも、わたしには興味深く、改めて人間について考えさせられた。

そして、わたしはますます医学に惹かれていった。

(作家)

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