渡辺淳一(3) 女難の相あり

占いの言葉、母の口癖
小1の時にスカート騒動

わたしがもの心ついた頃、わたしの家は北海道空知郡上砂川町にあった。

この前、わたしの母ミドリは祖母にすすめられるまま札幌に出て、寮生活を送りながら、札幌市立女学校を卒業し、実家がある歌志内神威に近い、上砂川小学校の教師をしていたようである。

ここに、わたしの父、鉄次郎が同じ教師として勤めていた。

父の両親は秋田の人。やはり北海道の炭鉱ブームをきいて空知管内の幌内炭鉱に入り、ここで父は米沢家の三男鉄次郎として生まれた。

このあと、鉄次郎は岩見沢尋常小学校を卒業後、札幌師範学校に入学した。

当時の師範学校は官費で授業料は免除され、寮生活が保証されていた。

貧しい家庭の子で、勉強のできる子が上級学校にすすむとしたら、師範学校に入る以外に道はなかった時代である。

札幌師範学校を卒業した鉄次郎は昭和2年(1927年)3月に、空知郡上砂川町の尋常小学校の訓導(先生)として赴任した。

ここで、札幌市立女学校を卒業し、同じ小学校の先生として勤めていたミドリと鉄次郎は初めて会い、2人は恋愛した。

当然、2人の間に結婚問題が生じたが、ミドリは鉄次郎の1歳年上であり、さらに、ミドリの実家は神威の豪商であり、姉2人は恋愛結婚をして家を出ていることから、鉄次郎に嫁ぐということは不可能であった。

そこで2人は話し合った結果、鉄次郎は渡辺家に養子に入るということで決着した。

かくして昭和3年に鉄次郎とミドリは結婚し、上砂川の職員だけが住む住宅地に居をかまえ、翌4年に長女、淑子を出産した。

わたしが産まれたのは、この4年後、昭和8年10月24日であった。

このとき、母は男の子が産まれるよう願をかけたらしいが、それがきいたのか、明け方の午前4時過ぎにわたしが産まれたという。

その頃、母は男の子は明け方から朝にかけて、女の子は夕方から夜にかけて産まれるのがいいのだと、信じていたようである。

幸い、わたしは健康な赤子であったようだが、その後間もなく、母はある占い師に、わたしの将来を見てもらったようである。

すると占い師は、「さし当り、なんの不安もないが、ただ一つ、女難の相がある」といったという。

母はそのことを案じて、「お前は、女難の相があるのだから、女性には気をつけなさいよ」とよくいわれた。

しかし、幼かったわたしには、それがどういうことを意味しているのか、まったくわからなかった。

ただ小学校1年生のとき、Nという担当の美しい女教師が、わたしたちの前で、広いフレアスカートのまま、くるりと体を一回転して、スカートが大きく巻きあがった。

わたしはただそれを見ていただけだが、1人だけそのスカートのなかに巻き込まれ、わけのわからぬまま、またスカートから逃れ出ることができた。

それを見ていたみなが笑って、「すごい」といったが、わたしもなにか、すごい世界にまぎれ込んできたような気がして、これが母のいう女難の1つなのかと、呆んやり考えた。

(作家)

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