渡辺淳一(30)永遠の人間賛歌

身勝手で残酷な稼業
愛の求道者貫き男の本懐

ここまで、「私の履歴書」を書いてきたが、ここから先は、改めて書くまでもない。

なぜなら、これ以降のことは、このあと書いたわたしの作品を読んでもらえば、ほぼわかるからである。その意味では、わたしは私小説作家であるのかもしれない。

もちろん、すべて小説のとおり、というわけではないが、わたしが体験し、実感したことを、小説の中にかなりぶち込んできたことはたしかである。「失楽園」や「愛の流刑地」などの大作も、それなりにモデルがあり、その主人公と同じ思いに深くとらわれたことは、まぎれもない事実である。

ただ一点、「失楽園」の主人公は最後に毒薬を服んで心中し、「愛の流刑地」の主人公は恋人を殺して刑務所に入るが、わたしがそのとおりの人生を歩んでいないことはたしかである。

しかし、小説を書いているときは、まったく、主人公と同じ思いであり、ともに死にたいと思い、さらに愛する女性を殺したい、と思ったことも事実である。これらはまさに身に沁みた実感である。

今、その相手の女性が誰で、その人との関係がどのような経緯をたどったかなど、書きとめる気はない。

それにしても、作家稼業とは、身勝手で、残酷なものである。1つの小説を書いているときは、その小説に没頭し、その主人公に心身ともに入りこんでいるのに、それが終わると、まったく別の人間関係に没入しきっている。

この身勝手さと軽薄さは、なににたとえたらいいのであろうか。

しかしそうであるからこそ、わたしはこれまでモデルか、あるいはモデルらしく扱われた人々に、心から御礼と感謝の気持ちを述べたいと思っている。

「本当に本当に、ありがとうございました」

あなたがいてくれたから、あの小説は成り立ったのです。そして、あなたが黙って見過ごしてくれたから、あの小説は無事、終わることができたのです。

最近、わたしは数えで80歳に達し、傘寿の会を祝っていただいた。しかし小説を書くことを止めはしない。

むろん、その内容はその都度、変わっていくかもしれないが、今のわたしにとって、もっとも重要で、かつ重いテーマを書いていく。

実際、今、わたしはインポテンツをテーマに小説を書いている。

これは、わたしが70代に入ってから実感したことで、当時のわたしに、もっとも重く突き刺さった問題であった。

幸いというべきか、残念というべきか、このテーマを直接書きこんだ作家は、日本や西欧にもあまりいないのではないか。

今、わたしはこのテーマを書きながら、人間、そして男と女について根底から考えこんでいる。

とにかく、人間ほど多彩で面白く、変化に富んだ生きものはいない。

要するに、女を書いても男を書いても、すべて人間賛歌であることに変わりはないことを改めて宣言して、この連載を終りたいと思っている。

長いあいだ読んでいただき、本当にありがとうございました。(作家)

渡辺淳一(29)銀座通い

散財、売れっ子の証し
女性遍歴・愛憎、作品に彩り

直木賞をもらって、気持ちが落ち着いたわたしは、家族を東京に呼び、まず高田馬場に仕事場をもった。

これで、思いっきり書いていける。

この直後、わたしが書いた作品は、「花埋み」「無影燈」「阿寒に果つ」「冬の花火」「遠き落日」などである。

いずれも長編だが、直木賞を受賞して、いろいろな雑誌で、長編を書く場を提供してくれたからである。このあたりは、まさしく受賞の恩恵といっていいだろう。

以前、わたしは主に新宿の厚生年金会館に近い、飲み屋街で飲んでいた。

だが受賞して間もなく、そこで飲んでいると、同じ年代の男にからまれた。

「おまえ、直木賞をもらったのだから、もうこのあたりに顔を出すな」

変な因縁だと思ったが、このあたりには、作家やディレクターになろうとしながら、志を得ていない男たちが屯していた。そういう連中にとって、直木賞を受賞した奴は不快な、面白くない存在だったに違いない。

そのことに気がついたわたしは、きっぱりと新宿を去り、銀座に行くことにした。

だが、この銀座が驚くほど高かった。

クラブに行くと、1人で3万円近くとられる。なかで多少、安いところでも、1人、2万円は軽くした。

妙な話だが、おそらく銀座のクラブの値段が、当時に比べて現在一番、値上がりしていない、といってもいいだろう。

とにかく、此処に通うには、かなりのお金を稼がなければ難しい。もちろん、クラブに行かなければいいのだが、当時のクラブには売れっ子作家が綺羅星の如く並んでいた。

たとえば井上靖さん、吉行淳之介さん、松本清張さん、源氏鶏太さん、池波正太郎さんなどが座っていて、それぞれ、お好みの女性を隣りにおき、楽しそうに語り合っていた。

此処にくると、もはや誰に遠慮することもない。自分の好きな女性を横に呼び、人目を気にすることもない。みな女が好きで、それが作家の作家たる由縁である、といわんばかりの態度であった。

はっきりいって、わたしは、こんな銀座に魅せられた。あの大作家たちのように銀座の女性と親しくなり、堂々と愛を語り合いたい。

そのためには、まず、お金を得なければならない。そしてそうするためには、まず本が売れなければならない。ベストセラーをどんどん出せば、それも可能になる。

わたしは懸命に小説を書きはじめた。

それが文学のためとか、よりよき小説のため、などというもったいぶった理由なぞいらない。それより、いい小説を書いて、銀座のいい女をゲットしたい。そんな俗な理由が、まずわたしをふるい立たせ、わたしの能力をかきたてた。

幸いなことに、わたしには、これまで貯えてきたものが、かなりあった。それはさまざまな女性との愛であり、トラブルであり、生々しい愛憎である。それがわたしのなかで生きて、うごめいているかぎり、わたしは書いていける。そしてそれがあるかぎり、小説のリアリティーを高め、ふくらませていける。

わたしは今、自分が常識人でなく、作家になっていることを自ら実感し、納得してもいた。

(作家)

10倍の哲学

「1グラムの試薬で足りなくてデータが出ないなら、なぜ10グラム用意しないんだ」。30歳で大学病院の勤務医を辞して徳島大学の研究施設に飛び込んだ。意気込んで実験を始めたが、不慣れで結果が出ない。藤井節郎教授の厳しい言葉は応えた。

藤井先生はコレステロールなど脂質の研究の国内の第一人者だった。大学の近くに住んで研究に没頭。休みは年に1日、研究室全員で繰り出す阿波踊りの日だけだった。

実験結果が気になると夜中の2時、3時でも呼び出しの電話がかかる。跳び起きて玄関を出ると、先生が手配した大学行きのタクシーが待っていたこともあった。そこで病院の宿直医のアルバイトでは研究室の3人でチームを作り、バイト中に呼ばれれば研究室の仲間で交代してこなした。

先生の口癖は「10倍」。一流の研究者になりたいなら、他人の10倍実験して、結果も10倍厳しく吟味する。「10倍の哲学」は先生の研究姿勢そのものだった。

指導は厳しかったが研究は楽しかった。3カ月の滞在がいつの間にか2年半に延びていた。論文や学会発表という結果も出せて、研究者としての道も開けた。
教壇に立つと今でも必ず先生の話をする。「自分に厳しくあれ」という先生の指導は研究者としての私の礎だ。

(斎藤康=千葉大学学長)

渡辺淳一(28)直木賞の受賞

栄誉、まず母に捧げる
書きたいもの、まだ無数に

昭和45年(1970年)7月、わたしは直木賞を受賞した。

この報せを受けるや否や、わたしは札幌にいる母に連絡した。

「直木賞、とったよ」

瞬間、母は「本当……」とうなずき、「これで大丈夫なんだね」ときいてきた。

以前から、わたしは母に、「このあと、直木賞をとれたら、完全に生活は安定する」といっていたので、それをたしかめたかったようである。

「もう、大丈夫だよ」

わたしはきっぱりと答えたが、本当に自信があるわけではなかった。しかし、母を安心させるためにも、これから一層頑張らなければならないと、自分にいいきかせた。

わたしの直木賞受賞の報せは全国に報道され、いろいろな方から祝電をいただいた。

そんななかで、わたしはふと思った。

あのJ子のマンションでチェーンを糸鋸で切っていたとき、わたしを逮捕した警官は気がついてくれたろうか。

できることなら、あの警察署にいって、「俺は直木賞をとったぞ」と、叫びたかった。

ともかく、わたしは直木賞を受賞したのである。「これから、おまえは直木賞作家だよ」

そう、自分につぶやいているだけで、喜びがこみあげてくる。

このときの受賞作はわたしの「光と影」と、結城昌治さんの「軍旗はためく下に」との2作であった。

わたしの受賞作は西南戦争に題材をとったもので、寺内と小武、同じ怪我をした2人の将校を担当した医師が、ふとした思いから治療法を変えてみる。その影響で、2人のその後の人生が大きく変わったことを描いたものだった。

この背景には、外科医を長年やってきた体験もあったが、同時に医師と患者との関係、そして戦陣外科の過酷さを知ったこともプラスになっていた。

わたしの作品に対する選評は、ほとんどの選考委員が好意的に、支持してくれたようである。

「よし、これでゆける」

書きたいものは、わたしのなかにまだまだ無数に潜んでいた。

同人雑誌をやっていた頃、「一人前の作家を目指すなら、行季にいっぱいくらいの原稿をストックしておかなければ駄目だぞ」と、いわれたことを思い出した。

今、はっきりいって、それほどの書きだめはないが、アイデアだけなら、それに匹敵する程度のものはもっている。もちろん、そのなかには短編のネタもあるが、さらに長編のネタも数本はある。

そしてそのなかには、かつて自分と関わりあったJ子のことや、内田看護婦とのこと、そしてさまざまな女性たちとの体験もある。それらも、今となっては財産といってもいいかもしれない。正直いって、わたしは女性が好きである。それをこれからの小説に生かさないという手はない。

授賞式は東京千代田区の東京会館でおこなわれて、母や家族も出席してくれた。

会場にはさまざまな著名な作家がいて、そのなかで脚光を浴びるわたしを、母はどのように感じてくれていたのか。

わたしはきかなかったが、母はただ黙って見詰めていてくれたようである。

(作家)

渡辺淳一(27)警官につかまる

彼女の部屋に男、激高
ドア越し騒動、通報される

変ないい方かもしれないが、浮気はしたが、わたしはJ子が好きだった。

しかも彼女は、わたしに新しい部屋の鍵を渡してくれていたので、日曜日の夜など、そこまで行って一緒に食事などをしていた。

そんなことをくり返していたある日、わたしは無性に彼女に会いたくなって、午前2時過ぎに、彼女のアパートに行ってみた。

そして、渡されていた鍵でドアを開けようとしたが開かない。ドアの鍵を換えたのか。わたしは不審に思ったが、こんな時間だから、彼女が中にいることは間違いない。

もしかして、他の男とでもいるのではないか。頭にきたわたしは、ドアの横の小さな窓をこじ開けて侵入することにした。

だが開けた途端に、わたしは広い空間に落ち込み、驚いてあたりを見廻すと、隣りの部屋の風呂場であった。

「やばい……」わたしは慌てて立ち上がり、再び、その窓から外に出て、一目散に逃げ出した。

途中、一度転んだが、なんとか無事に逃げることができたが、あとでJ子にきくと、鍵が簡単すぎて不安だから換えたとのこと。さらに先日、隣りの家の浴槽に誰かが忍び込んで、大騒ぎになったことなどを話してくれた。

そんな騒ぎがあったせいか、彼女は1カ月後、さらに九段のマンションに移った。

今度は鉄筋の2LDKで、ここなら間違って、隣りの風呂場に入るようなことはない。彼女はこちらの鍵も渡してくれて、わたしたちの愛は再び甦ったような気がしていた。

そんなある日曜日の午後、わたしは小説を書けぬまま、彼女に会いたくなった。

そこで九段のマンションに行き、渡された鍵でドアを開けると、少し開くが、ドアチェーンがかかっている。

そこで、「おうい……」と呼んで、ドアをバタバタさせると、なかから彼女が顔を出し、「今、お客さんが来ているから、帰って」というではないか。

どんな客なのか、わずかに開いているあいだから見ると、きちんとスーツを着た男の姿がかいま見える。

「この野郎……」

わたしは思わず叫び、直ちにタクシーを拾って近くの金物屋に行った。そこで糸鋸を買うと、再び九段のマンションに戻り、伸びたドアチェーンを糸鋸で切り始めた。

「なにをするの」「やめて!」と彼女は叫び、男も不安そうに、こちらを見ている。

そのうち、「警察を呼ぶわよ」というが、かまわず切っていると、「ピーポ・ピーポ」という警笛とともに、警官が2人駆けつけてきて、わたしを取り押さえるではないか。

「なにをするんだ、此処は俺の部屋だぞ」と叫んだが、1階に引き戻され、パトカーに乗せられた。

すると、彼女が駆けつけてきて、「この人、悪い人ではありませんから、許してやって下さい」という。しかし警官は、「一応、取り調べなければならないから」といって、近くの署まで連行された。

そこで、名前と職業をきかれたので、「渡辺淳一という、作家だ」というと、1人の警官がつぶやいた。

「そんな作家、きいたことがないな」

「ようし、今に見ていろ」

わたしはつぶやいたが、とにかく若いときはエネルギーがあり、滅茶苦茶であった。

(作家)

渡辺淳一(26)東京へ

医と筆、二足のわらじ
愛人に浮気バレて修羅場

小説を書くことが水商売とは思わなかったが、かなり不安定な職業であることは、わかっていた。

だが、このまま大学病院に残ることは、かなり身勝手で、講師という教職の立場にある者として、許されることではない。

わたしはそう自分にいいきかせて、退職することを教授に申し出た。

教授は驚かれて、そこまで責任をとることはない、といわれたが、わたしの気持ちはすでに決まっていた。

「でも、文筆の世界で生きていくのは大変だよ」と教授がいわれ、「難しくなったら、いつでも帰っておいで」といってくださった。

わたしは涙が出るほど嬉しかったが、でも筆一本で生きてみせる、と自分に強くいいきかせて医局を辞した。このとき、昭和44年(1969年)春、わたしは35歳になっていた。

それにしても、これから小説一本で生きていけるのか。たしかな自信はなかったが、新潮同人雑誌賞をもらい、芥川賞候補になってから2度、直木賞候補にもなり、この間も30本近く短編を書き、長編の構想も胸に秘めていた。

なんとかいけるはずだ、と思っていたが不安も大きく、この年、正月に産まれた次女に、直子と名付けて、なんとか賞をとると自らにいいきかせた。それでもたしかな自信はなかったので、家族は札幌においたまま、単身で上京した。

このときも、東京は桜が咲いていたが、見とれる余裕もなく、まず神田にあった医師会に行き、住み込みでアルバイトのできる病院を探し、そこで1日おきに病院に勤めることになった。この病院は、墨田区の石原にあった山田病院で、此処の院長先生には本当にお世話になった。

ともかく、こうして東京で生活していく基盤ができ、一日は病院で外科系の患者さんを診ながら、一日は小説を書くことに熱中した。

それにしても、東京という大都会で1人で生きていくのは心細い。そんなとき、札幌からJ子という女性が上京してきた。彼女とは札幌にいるときから際き合っていたが、わたしが東京に出たのをきっかけに上京してきて、銀座のクラブに勤めることになった。

しかし初めのうちは、1人では淋しいということで、わたしの部屋に一緒に棲むことになった。

これでは、院内の看護婦たちに知れてしまうと思ったが、彼女は夜、出かけて深夜、帰ってくるのでさほど目立たない。

それにしても、札幌からいきなり出て来て、夜の銀座で働いていくことができるのか。わたしは案じていたが、彼女は1人で働くクラブを探してきて、たちまち売れっ子になり、わたしよりはるかに収入が多くなった。

こうして半年少し経ったとき、彼女にわたしの浮気がばれてしまった。相手は、同じ病院の看護婦さんで、J子がいない夜など、部屋で密会していたが、たまたまある夜、看護婦さんがわたしの部屋に口紅などを置いていったため、バレてしまった。

わたしは驚き慌てたが、J子は怒り、こんなところに住んでいられない、といって、神宮前の方に新しい部屋を借りて出て行った。

今、考えると、あの口紅は際き合っていた彼女が意図的に置いていったような気がするが、詳細はわからない。

(作家)

渡辺淳一(25)病院辞める決意

「2つの死」に自ら決着
作家専念を宣言、母は反対

術後1カ月経つとともに、和田心臓移植に対する疑惑と批判はさらに強まってきた。

その第一点は、ドナー(心臓提供者)となった21歳の青年が札幌医科大学へ搬送された直後、胸部外科医が筋弛緩剤を注射したこと。さらに移植後の拒絶反応をやわらげる目的で、ステロイドホルモン製剤を大量に投与したことが明るみに出た。

いずれも救命を目的とする医療としては不自然、あるいは逆効果で、これに抗議した麻酔科の医師とトラブルになったようだ。

次いで、ドナーに欠かせない脳波をとった形跡がなかったこと、さらに術後、ドナーであった事実を監察医に伝えなかったために、十分な検視がなされないまま、死後処理がおこなわれたことも後からわかった。

また、心臓移植を受けた青年の元の心臓は、ずっと行方がわからなくなっていたが、病理学者の元に現れたときには、心臓は中央でまっぷたつに切断されていた。

内科の診断では、この青年は心臓の弁置換で治療しうるという見解であったようだが、問題の4つの心臓弁はばらばらに切除されていた。

このように、提供者と移植者双方に不自然な操作がくわえられたことは明白で、胸部外科医が、はじめに心臓移植ありきで事を進めたと疑われても仕方がない。

心臓移植自体は3時間半ほどかけて朝方、終了し、青年はその20日ほど後には、屋上で車いすに乗って約10分間の散歩をするほどの恢復をみせた。

しかし9月に入ると食欲不振にくわえて血清肝炎が悪化し、さらに意識障害が生じ、10月29日、手術後83日目に呼吸不全で死亡した。

正直いってわたしは、これらの事実をあとになって知り、驚き、狼狽した。

まさか、和田教授が自分の大学で確信をもっておこなったと信じていた大手術が、これほど杜撰で、いい加減な手術であったとは、思ってもいなかった。

この後、和田教授は大阪の漢方医らによって刑事告発され、さらにさまざまな医師からの批判にさらされた。

こうした経緯のなかで、わたしの立場も微妙に揺らいできた。

はっきりいって、和田心臓移植がおこなわれた直後から、わたしは教授を信じ、移植手術自体になんの疑問も抱いていなかった。

だがこれでは、和田教授がいわれていた、「2つの死から1つの生を」どころではなく、「2つの生から2つの死へ」に変わっていて、それをわたしが援護、加担したことになる。

むろん、わたしは胸部外科とはなんの関係もなく、今回の心臓移植に加わったわけでもなかった。

しかし同じ大学病院にいる講師として、当初から心臓移植自体を支持し、これに対する批判に反論してもいた。

こんな状態で大学病院に残っていても、いいのだろうか。わたしは真剣に考え悩み、そして最後に、大学病院を辞めることにした。

そう決心して、真先に母に告げると、母がきき返した。

「辞めて、どうするの?」

もちろん、小説一本でやってみる。そういった瞬間、母がわたしの顔を真直ぐ見たままいった。

「うちの家系に、そんな水商売に入った人はいないから、それだけはやめて」

(作家)

渡辺淳一(24)和田心臓移植

日本初の「快挙」と信じる
疑問の声に新聞上で反論

昭和43年(1968年)8月、札幌医大で心臓移植がおこなわれた。

この第一報を、わたしは出張先の大夕張炭鉱の病院からの帰途、ラジオのニュースで知った。

「すごい……」

世界で画期的な手術が、そして日本で最初の心臓移植が自分の大学でおこなわれたことに、わたしは単純に驚き、感動した。

大学に戻って地下研究室に行き、同僚に、「やったんだな」というと、みな「すごいよ」「やっぱり」と、うなずき合った。

この頃、わたしは整形外科の講師になっていたが、胸部外科のスタッフが、いつか心臓移植のような大手術をやるのではないか、ということは、われわれのあいだでもなんとなく予感されてはいた。

それというのも、胸部外科の研究室は、われわれの地下研究室の隣りにあり、そこで犬などに人工心肺を取りつける実験をやっていることを、知っていたからである。

「明日から、大変だぞ」

予想どおり、翌日からは学内に取材記者やカメラマンが殺到し、院内は騒然とした雰囲気につつまれた。

それらの取材記者に対して、和田寿郎教授は一日数回にわたって記者会見をされ、心臓移植にいたった経緯や移植された患者の容態などを、報告された。

今や、全国の耳目が、札幌医大に向けられていることは明白であった。

わたしはこのことに、医師としてのプライドと、「どうだ、うちの大学もすごいだろう」という満足感を抱いていた。

幸い、心臓移植をされた18歳の少年の容態は順調で、心臓移植が無事、成功したことは間違いなかった。

だが、術後半月ぐらい経った頃から、和田心臓移植に対して批判的な声が出はじめた。

そのひとつは、このような画期的な手術は、札幌医大のような地方の大学だからできたことで、東京や大阪のような大学では、周囲の目が厳しくて、できなかったろう、という意見であった。

さらに、心臓提供した21歳の青年は本当に脳死状態であったのか。また、移植を受けた患者がはたして心臓移植が適応であったのか疑問が残る、というような意見も出はじめた。

これらの批判に、わたしは納得できなかった。

和田教授がアメリカでかなりの心臓移植を手がけてきた名外科医であることはいうまでもない。

さらにこちらでも、脊椎カリエスなどの手術をおこなうときは、肺や心臓などをあらかじめよける、前方経路からすすめていく。このとき胸部外科医のスタッフの助けをかりるため、彼等と一緒に手術することがあり、教授のテクニックが抜群であることは承知していた。

その教授が、長年チャンスを待ち、このケースならと、確信をもって試みた心臓移植に、あやまりなどあるはずがない。わたしはそうした内容の一文を、道内の新聞に自ら執筆して公表した。

このことを、和田教授は大変喜んでくださって、早速、病室で移植された18歳の少年にも会わせてくれたし、その後の経緯も細かく教えてくれた。

かくして、わたしは和田心臓移植は確実に成功する、と信じていた。

(作家)

渡辺淳一(23)文壇の父

船山夫妻の死に唖然
作家の厳しさ、身に染みる

新潮同人雑誌賞の授賞式に出席するとともに、わたしは道内の評論家から紹介状をいただいて、北海道出身の作家である、船山馨先生と八木義徳先生をおたずねした。

あいにく、八木先生は所用がおありだということだったが、船山先生は快く会って下さり、さらに奥さまが鍋料理までご馳走してくださった。

当時、船山先生は重度のヒロポン中毒から立ち直られ、地方紙に「石狩平野」という長編を執筆されていた。

先生は、「君はこれから本格的にのびるよ」と励ましてくださり、新宿のバーに連れて行ってくださった。

幸い、わたしの同人雑誌受賞作はその翌年の1月、芥川賞候補にも挙げられたが、受賞にはいたらなかった。

だが、わたしはそのことでおおいに自信を得て、その後、「文芸」などに小説を書きはじめたが、いわゆる中間小説雑誌からも依頼があり、受けるべきか否か迷った。

そこで、再び上京した折り、伊藤整先生にご相談すると、先生は即座に、「書きなさい」といわれた。

さらに、「ああいう雑誌に書くと、君の名前が全国紙に堂々と出るんだよ、それがどれくらいのお金が必要か、わかっているのかな。とにかくこの世界はきびしいんだ。あれこれ選んでいるうちに消えてしまうから、書けるときは徹底的に書きなさい」。そういわれて、わたしは純文学、大衆文学などにこだわらず、依頼された雑誌すべてに書くことにした。

このあと、わたしは上京のたびに、船山先生と伊藤先生のお宅をおたずねするのが慣わしとなっていた。

だが昭和56年(1981年)、船山先生は急逝された。

若いときからの重度のヒロポン中毒で、体を相当、痛めつけていたようだが、そのきっかけを先生は、「若いとき、新聞連載の話を受け、書く自信もないのに飛びついて苦労してね」と仰言っていた。

そしてわたしに、「ある程度、書く自信があるときに、受けるものだよ」と注意をくださった。

まさしく、文壇の父親のようであった船山先生が倒れたとき、わたしはすでに東京にいて、ご自宅に駆けつけたが、先生の意識は戻られず、そのまま亡くなられた。

その呆気なさにわたしが唖然としていると、その夜遅く、奥さまも突然、容態が悪化され、御主人を追うように亡くなられた。

まさにご夫婦、同じ日に、心中のような亡くなり方であったが、たしかにお2人は深く愛し合われていた。

実際、ご長男の話によると、先生がヒロポン中毒になられたときは、その苦しさを奥さまも実感するべく、同じ薬を服まれて、同じ中毒になられて苦労された、ということだった。

まさに、小説を書いていく厳しさを教えられたような気がして、わたしは改めて身を引き締めた。

そしてこの間も、わたしは懸命に小説を書き続けた。もちろん、臨床も忙しかったが、幸い、わたしには、以前からの書きだめがいくらかあったし、さらに医学の現場から得た新しいテーマも心に秘めていた。

これらを書いて、書き続けていく。

わたしは新たな決意とともに、原稿用紙に向かっていった。

(作家)

渡辺淳一(22)同人雑誌賞

「死化粧」で応募、文壇へ
伊藤整先生と銀座に遊ぶ

わたしは学位を得て、改めて臨床医学に熱中したが、同時に小説にも取り組んだ。

「くりま」の仲間と月1回、わたしの家で同人会をやるとともに、3カ月に1度は同人雑誌を出すように取り決めた。

しかし、実際に小説を書いてくる者は少なく、それを合評会で取り上げたうえ、同人誌に載せるよう、みなの意見が合うまでには容易ではない。またたとえ載せることに決まっても、頁数に応じて自己負担の額も増すので、経済的にも大変である。

それでも、年に2、3回刊行し、道内ではそれなりの評価を得て、互いに自信をもちはじめていた。

当時は、全国的にも同人雑誌がもっとも多く出ていたときで、中央の小説雑誌にも同人雑誌評や各地の同人雑誌の消息などが載っていた。

ここに、わたしたちの同人雑誌が取り上げられることもあったが、そのうち、新潮社で全国の同人雑誌のなかから、最優秀作を求めていることを知り、これに応募することになった。

代表として、誰のどの作品にするか。仲間で相談した結果、たまたまわたしの、「死化粧」が選ばれた。

正直、わたしは嬉しかったが、はたしてこの作品が全国的に、どの程度の評価を得るものか、まったくわからなかった。

むろん、それまでの受賞作などを読んでみたが、それらに優る、という自信もなかった。

ともかく、すすめられるまま応募すると、やがて、この作品が昭和40年(1965年)の同人雑誌賞を得た旨の連絡が入ってきた。

「やった!」

わたしは思わず小躍りした。

まさかわたしの作品が、そのような大きな賞を得られるとは、思ってもいなかった。それは同人たちも同じだったらしく、「えっ、あれでとれたんだ」と、不思議そうにうなずく者もいた。

作品は、ある身近な人の死に接して、親戚や親しい者たちが、死後も美しくあって欲しいと死化粧をする。これに対して、死後、人体は腐敗するだけだと思っている主人公のわたし一人だけが覚える、孤独な違和感を描いたものだった。

この感覚は、もちろん医学を学ぶうちに得た実感で、いつか小説にして表現したいと思っていたが、それが認められたようである。

このときの選考委員は、伊藤整、大岡昇平、尾崎一雄、三島由紀夫、安岡章太郎などの先生たちだった。

かくして、この年の12月、東京で授賞式がおこなわれ、わたしは上京したが、同人雑誌賞の他に、新潮社文学賞は吉行淳之介さんが、小説新潮賞は芝木好子さんが受賞されていた。

それにしても、これら、中央の文壇の先生方にお会いするのは初めてである。

わたしは緊張して出席したが、伊藤整先生が同郷のよしみ(北海道出身)で、わたしに親しく接してくださり、パーティーのあと、銀座のクラブにまで連れて行って下さった。

むろん、わたしには初めての銀座のクラブであったが、すぐ横に伊藤整先生が、そして吉行淳之介さんや丹羽文雄先生などがいることに驚き、緊張し、まわりにいる美人と話す余裕もなかった。

(作家)