10倍の哲学

「1グラムの試薬で足りなくてデータが出ないなら、なぜ10グラム用意しないんだ」。30歳で大学病院の勤務医を辞して徳島大学の研究施設に飛び込んだ。意気込んで実験を始めたが、不慣れで結果が出ない。藤井節郎教授の厳しい言葉は応えた。

藤井先生はコレステロールなど脂質の研究の国内の第一人者だった。大学の近くに住んで研究に没頭。休みは年に1日、研究室全員で繰り出す阿波踊りの日だけだった。

実験結果が気になると夜中の2時、3時でも呼び出しの電話がかかる。跳び起きて玄関を出ると、先生が手配した大学行きのタクシーが待っていたこともあった。そこで病院の宿直医のアルバイトでは研究室の3人でチームを作り、バイト中に呼ばれれば研究室の仲間で交代してこなした。

先生の口癖は「10倍」。一流の研究者になりたいなら、他人の10倍実験して、結果も10倍厳しく吟味する。「10倍の哲学」は先生の研究姿勢そのものだった。

指導は厳しかったが研究は楽しかった。3カ月の滞在がいつの間にか2年半に延びていた。論文や学会発表という結果も出せて、研究者としての道も開けた。
教壇に立つと今でも必ず先生の話をする。「自分に厳しくあれ」という先生の指導は研究者としての私の礎だ。

(斎藤康=千葉大学学長)

「会社辞めます」 楽天、英語公用語の衝撃

「俺、会社を辞めようと思うんですけど…」

2009年のある日、楽天の創業メンバーで常務執行役員の杉原章郎(43)は、社長の三木谷浩史(47)に打ち明けた。原因は英語だった。

楽天市場の立ち上げから、かれこれ12年、ずっと三木谷のそばにいる杉原は、いつしか三木谷が次に何をするか、読めるようになっていた。

「流通総額はそろそろ1兆円を超える。『次はグローバル化』と考え『社内公用語は英語』などというむちゃを言い始めるに違いない。自分の居場所がなくなる」

杉原の英語嫌いは筋金入りだ。大学受験も数学と小論文で受けられる慶応大学の総合政策学部を選んだ。大学の第二外国語は韓国語だ。これまでの人生で英語に正面から取り組んだ記憶はなかった。

「ばか言ってんじゃないよ」

三木谷は取り合わなかったが、杉原は必死だ。

「辞めるのがだめなら、せめて休職させてください。しばらくアメリカに行って、英語を覚える。めどが立ったら戻ってきますから」

三木谷は聞く耳を持たなかった。

しかし1年後の2010年、杉原の読みは当たる。三木谷は「社内公用語の英語化」を宣言したのだ。

「やっぱりな。これから俺はどうするんだよ」。暗澹たる思いの杉原に三木谷はさらりと言った。

「英語化推進の担当役員はお前だからな」

杉原は開いた口がふさがらなかった。

「社員のみんなにつらい思いをさせるプロジェクトだから、担当の役員は痛みの分かるヤツの方がいい。そういう考え方をする人なんですよ」

退路を断たれた杉原は、やけくそで英語の勉強を始めた。食わず嫌いとはこのことだろう。400点台だった杉原の英語能力テスト「TOEIC」のスコアは800点台に上がった。

「俺でも、やったんだからさあ。もうちょっと頑張ってみようよ」。楽天は部署ごとに英語の上達度を競わせる仕組みを作った。「本業が忙しいから」と真剣に英語化に取り組まない部署も、杉原に言われると、むげには断れない。三木谷の思惑通りの展開になっていた。

しかし、すべてが順調に進んだわけではない。社内公用語を英語化するという、日本企業としては珍しい試みに興味を持った米ハーバード・ビジネス・スクールの准教授、ツェダル・ニーリーが楽天社内を調査したところ、三木谷にとって衝撃的な結果が上がってきた。

「本業で会社に貢献しているのに、英語ができないだけで処遇が悪くなるのは不公平だ」

「英語が必要な部門だけでやればよい。業務に支障が出る」

楽天を愛し、懸命に働く社員の多くが「英語化」に強いストレスを感じていたのだ。

「まずい」と思った三木谷は、プロジェクトを立ち上げた。

「Beat TOEIC」(TOEICをやっつけろ)。英語が苦手な社員にマンツーマンのカウンセリングを付け、各自に適した学習法を指導した。

ある日、三木谷は社内で「レッドゾーン」と区分している上達の遅い社員約720人を集め、こう言った。

「このプロジェクトはみんなと一緒にやりきるところに意義がある。ぼくは全員をクリアさせたい」

「みんなでやりきる」は三木谷の経営の根幹に流れる考え方だ。「できるやつ」を登用した方がはるかに手っ取り早いが、三木谷は遠回りでも、全体の底上げを選ぶ。非効率に見えても、最終的にはその方が、組織は強くなると信じているからだ。

2012年9月、三木谷を筆頭に楽天グループの幹部総勢100人が谷川岳を登った。体力に自信のある三木谷ら数人は「スーパーチーム」と称して2000メートル級の山を麓から登った。

海外グループ企業の最高経営責任者(CEO)たちもいるから、登山中の会話は英語。ともに汗をかくことで一体感を高める狙いだ。

「同じ釜の飯を食う、というのかな。達成感を共有することに意味がある」。毎年恒例になっている登山の狙いを、三木谷はこう説明する。

かつて日本の生産現場でも、今の楽天と同じような光景が見られた。トヨタ自動車から産業界全体に広まった「カイゼン活動」だ。現場の社員が全員参加で知恵を出し合い、車やテレビの生産工程を効率化していった。この活動は日本メーカーの品質やコスト競争力を高めるだけでなく、社内の一体感を醸成することにも役立った。

その一体感で世界市場を席巻した日本の製造業だが、やがて生産現場は請負や派遣の非正規社員で埋め尽くされ、多くの企業ではカイゼン活動も形骸化していった。コスト競争を勝ち抜くために、やむを得ない選択だったとはいえ、失ったものは大きい。

楽天が全社一丸で「英語化」という1つの目標に向かえるのは、会社が「成長期」という幸福なステージにいるからだ。しかし楽天の社員数はすでに1万人を超え、外国人社員も増えてきた。三木谷が愛する「みんなでやりきる」を続けるには、計り知れない労力と新たな知恵がいる。=敬称略

(編集委員 大西康之)