森喜朗(24) 緊急登板

まさかの小渕首相重体
「密室」の批判は当たらず

自民党と自由党の連立に公明党が加わった自自公政権が平成11年(1999年)10月に発足した。自由党の小沢一郎さんは初めはおとなしく協力したが、例によって次第にわがままを言い、暴れ出した。

まず比例代表の廃止を言い出した。公明党に対する嫌がらせだった。何とか比例定数を20減らして180とする案をまとめた。公明党の冬柴鉄三幹事長が苦労をして党内を説得してくれた。

冬柴さんは「その代わり、次の選挙では定数3の中選挙区150にしてほしい」と提案してきた。私は了承し、小沢さんも「わかった」と言った。比例代表削減法案は平成12年2月に成立した。

小沢さんは自民党と自由党の対等合併を提案してきた。むちゃくちゃな話である。官房長官の青木幹雄さんも幹事長代理の野中広務さんも猛反対である。私も当然反対だった。私たちは自由党との連立解消を覚悟した。

4月1日夜に小渕恵三首相と小沢さんの会談が行われた。会談後、執務室に入ると小渕さんは疲れ切った表情で元気がなかった。「(合併提案は)断ったよ」「それはよかったですね」「これから記者団とぶら下がりがある。幹事長も立ち会ってくれ」

ぶら下がり会見で小渕さんの言葉が詰まるので「おかしいな」と感じた。小渕さんは「きょうは疲れたので公邸に帰るよ。みんなによろしく伝えてくれ」と言った。

私は「ゆっくり休んでください。党の方は私がやりますから」と応じた。小渕さんは公邸に向かう廊下をとぼとぼと歩き、私はその後ろ姿を見送った。これが学生時代から親しい私と小渕さんの今生の別れになった。

夜遅く、青木さんから「総理が倒れた」と連絡があった。翌日の2日夕に自由党分断対策を協議する党五役会議をセットしてあった。これを早めて同日昼過ぎに五役が集まった。池田行彦総務会長は体調が悪く欠席した。

青木さんから「総理は脳梗塞。医師の判断待ちだ」と報告があった。その後、自由党分断対策を話し合った。夜になって小渕さんがかなりの重体だとわかった。再び五役が集まり、青木さんを首相臨時代理にすることを決めた。国会開会中で予算関連法案はまだ成立していなかった。

青木さんは「代理は長くやれるものではない。国会もあるから早く後継者を決めた方がいい」との判断だった。その場で瞬く間に「森さん、後継者はあんたしかいない」という結論になった。

野中さんは「公明党も森さんでいいと言っている」と話した。亀井静香政調会長も村上正邦参院議員会長も私を支持した。池田総務会長にも電話で連絡し「それで結構です」と返事があった。

予想もしない急展開だった。私は両院議員総会で正式に総裁に選出され、4月5日に森内閣を発足させた。ウオーミングアップなしの緊急登板である。青木官房長官も含め全閣僚に留任してもらった。

私はメディアから「密室談合で選ばれた首相」と批判された。こうした批判は全く的外れである。現職首相が意識不明の重体になる前代未聞の事態に直面して、のんびり総裁選をやるのは国家の危機管理上からも許されない。

役員会、総務会の了承を経て地方代表も参加した両院議員総会で決定したもので、誰も対立候補は出ず、手続き的にも瑕疵(かし)は全くなかった。

(元首相)

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