森喜朗(29) 日ロ関係

プーチン氏と深い友情
イルクーツクに父の墓

私は首相在任時代から10年以上にわたってロシアのプーチン大統領と個人的な友情関係を築いてきた。また、私の父の時代からイルクーツクと金沢、その隣のシェレホフ市と根上町は姉妹都市の関係を結んで草の根交流を続けている。いまでも私はそのお手伝いをしている。

プーチン大統領と親しくなったのは首相就任直後にロシアを訪問したときである。準備を手助けしてくれたのは小渕首相の特使でモスクワに渡っていた鈴木宗男さんだった。鈴木さんは「今度の首相は親子2代でロシアびいきだ」と私を売り込んでくれた。

そのおかげでプーチンさんは私に最初から非常に興味を示した。サンクトペテルブルクでは夜遅くまで一日中、時間をとってくれて沖縄サミットはもちろん、この年の9月公式訪問も約束した。

9月の首脳会談では領土問題も率直に話し合った。プーチンさんは「領土問題さえ解決すれば日ロ両国はもっと組める関係になる。ただ、自分は大統領になったばかりだから時間が必要だ」と話した。

小泉純一郎首相の時代に鈴木宗男さんが不幸な事件に巻き込まれてしまった。私はロシアとのパイプを維持しようと首相退陣後もしばしばロシアを訪れてプーチンさんとの友情を温めてきた。

父・森茂喜は日ソ友好協会の石川県会長を長年務め、ソ連政府も高く評価してくれていた。イルクーツクと金沢、シェレホフと根上との間で中学生の相互訪問を実施するなど草の根交流に熱心だった。

父は平成元年(1989年)に亡くなる際に私に遺言を残した。一つは日ソの草の根交流を私が引き継げということだった。父は「悪いのは共産主義で、ロシア人は善良だ」と言った。

もう一つは遺族会や軍恩連を大事にしろ、靖国神社の国家護持も頼むと言い残した。このままでは戦死した戦友に合わせる顔がないと言った。

父の葬儀にイルクーツクやシェレホフの関係者が参列した。その際「お父さんの墓を作ったので分骨してほしい」との申し出があった。

イルクーツク郊外に作られた父の墓は大理石でできた実に立派なものだった。ロシア正教の教会でミサを行い、納骨には儀仗(ぎじょう)兵も参列して盛大な儀式をしてくれた。

母・秋子が亡くなった際も、父一人では寂しいだろうと思い、母の遺骨もかの地に分骨した。次は私の番である。すでに親族には「私が死んだらイルクーツク郊外に分骨せよ」と遺言してある。

私は能美市の生家の母屋を改装して、ここに「森茂喜日ロ友好の館」の看板を掲げた。ここで毎年、イルクーツクやシェレホフのお客様をお迎えしている。

日ロ関係はいよいよ戦略的な重要性を増してきた。プーチンさんは領土問題で「国の持つ価値観に変化がある」と述べている。私も両国がいつまでも冷戦時代の発想から抜け出せないのは非常に不幸なことだと考えている。

プーチンさんは大統領再選後の会見で「引き分けという考え方もある」とも述べている。歯舞、色丹は日本、国後、択捉はロシアというのでは全く引き分けにはならない。

1956年の日ソ共同宣言を踏まえ、さらにそこから一歩踏み出して両国がどんな知恵を出せるのか。共同開発方式ということも考えられるのか。日ロ関係は大事な局面を迎えつつある。

(元首相)

森喜朗(28) 大連立構想

小沢氏とひざ詰め談判
消費税・憲法改正でも合意

小泉純一郎さんの後継首相には福田康夫さんが適任と党内外でささやかれた。小泉さんの5年間で外交も国会も、役所との関係もかなり荒れていた。政治をいっぺん落ち着かせる必要があった。

それには安定感のある福田さんが一番ふさわしいと私も考えた。小泉さんは後継に安倍晋三さんを推した。

私は安倍さんに「あなたはまだ若い。一回見送ることも考えていいのではないか」と忠告した。安倍さんは報道各社の世論調査を示し「見てください。どの調査でも私が福田さんより圧倒的に高いんです」と非常に強気だった。

首相になった安倍さんは参院選で思わぬ大敗を喫し、体調を崩して1年で退陣した。代わって首相になった福田さんは参院がねじれて非常に苦労した。そこへ大連立問題が急浮上したのである。読売新聞の渡辺恒雄さんから私に電話があった。

「(小沢)一郎が何度もおれに『大連立をやりたい』と言ってくる。その都度、福田に取り次いだが、福田は煮え切らない。おれも電話交換手みたいなことをいつまでもやってられない。あんたが一郎と話をしてくれないか」

私は福田さんの了解をとって渡辺さんが指定したパレスホテルに出向いた。そこへ小沢さんもやってきた。小沢さんは張り切っていた。

「おれは参院選で大勝して党内から選挙の神様みたいに尊敬されている。今なら党内は全部おれの言うことを聞く。みんな、おれのマジックにかかっているんだよ」

「民主党にはろくな人材がいない。みんなバカばっかりだ。このまま政権をとっても危うい。一度、大連立を経験した方がいいと思うんだ」

小沢さんは大変な鼻息だった。私は「大連立で何をやるの」と聞いた。「まず消費税を片付けよう」と小沢さんは言った。私も賛成した。

増税だけではまずいと思い、私は「憲法改正もやろう」と提案した。小沢さんも「いいよ、やろう」と応じた。これで政策の大筋が固まった。

私は福田さんに報告し、伊吹文明幹事長にも「大連立で執行部をまとめてほしい」と話した。中川秀直さんを呼んで「各派閥に根回ししてくれ」と頼んだ。

2回目の会談では閣僚ポストを詰めた。「あなたは入閣するの」と聞くと小沢さんは「国会答弁が面倒だが、入閣せざるを得ないだろうな。副総理かなあ」と答えた。外務と大蔵、経産と厚労は両党で分け合い、その他は議席に応じて配分することにした。

私はこれでできたかなと思ったが、小沢さんが民主党に持ち帰ると見事に党内の猛反対に遭って、この話はご破算になった。小沢さんから詫(わ)びの言葉もなかった。その後の民主党は手のひらを返したように強硬路線を突っ走った。

小沢さんと私は昭和44年(1969年)初当選の同期である。同期で小沢さんが一番若く、次に若いのが私だった。小沢さんとは一緒に仕事もしたが、振り回されて煮え湯を飲まされることも多かった。

民主党政権は小沢さんの予言通り政権担当能力の無さを露呈して混迷続きだった。小沢さんもいつもの悪いクセを出して民主党をかき回し、結局は離党してしまった。

小沢さんの神通力もすっかり色あせた。そうした小沢さんを見て私も「もう引退していいな」と確信するに至ったのである。

(元首相)

森喜朗(27) 後見役

郵政解散に強く反対
小泉首相は意見を聞かず

私の後継総裁問題は微妙だった。小泉純一郎さんには「君は2度総裁選に負けている。こんど負けたら政治生命は終わりだ。だから勝機があればやってもいいが、勝つことが前提だよ」とアドバイスした。

カギを握っていた平成研(橋本派)の候補者選びは難航した。野中広務さんを推す声もあったが、派内は「うん」と言わなかった。

橋本龍太郎さんが手を上げた。積極的に支持する声は少なく、最後は見切り発車のような形で出馬した。

小泉さんは「勝算あり」と見て出馬に踏み切った。私は古賀誠幹事長に「総裁として最後の頼みだ。地方票をもっと増やす工夫をしてほしい」と依頼した。古賀さんは地方票を各県3票まで増やし、1位候補者が総取りする仕組みにしてくれた。これが小泉さんに決定的に有利になった。

小泉さんの首相就任に伴い、私は清和会会長に復帰した。それまで小泉さんが留守番役で会長をしていた。今度は私が小泉さんの後見役のような役回りになった。

私は小泉さんに「参院は難しいから青木幹雄さんの意見だけは常に耳を傾けたほうがいい」と忠告した。小泉さんは人事でも派閥の意見は聞かなかったが、参院の入閣者は青木さんの推薦を受け入れた。この辺が小泉さんの政治的な勘の鋭いところだった。

田中真紀子さんの外相起用に私は断固反対した。小泉さんは「外相で約束しちゃったからどうしようもないんだ」と弁解した。これで外務省はめちゃくちゃになった。

小泉さんは政調会長に平沼赳夫さんを起用するつもりだった。平沼さんは小泉さんに「亀井(静香)さんの了解を取ってほしい」と答えた。小泉さんが亀井さんに電話すると「江藤(隆美)さんの了解を取ってくれ」との返事だった。これに小泉さんがぶち切れて人事は白紙になった。

「政調会長はだれがいい」と相談があった。私は「麻生太郎でどうか」と進言した。小泉さんは「あっ、そうだ。そうしよう」と同意した。

私は麻生さんに電話し「小泉さんから電話があると思うが、『河野(洋平)さんの了解を取ってくれ』とは絶対に言わないように」と忠告した。「わかりました。そのかわり、森先生から河野さんに話してください」

この一件で小泉さんと亀井さん、平沼さんの関係は決定的に悪くなり、その後の政局の波乱の目になった。

私は郵政解散にも強く反対した。首相公邸に乗り込んで「解散する理由はないぞ」と説得した。小泉さんは「郵政法案が否決なら国民の意見を聞くと最初から決めていた。これだけは譲れない」と言い張った。

会談が決裂して私が「外にどう説明しようか」と聞くと小泉さんは「小泉は殺されてもやると言っていた、と説明してください。その方が私もやりやすい」と答えた。

亀井さんたちは「解散なんてできるわけがない。これで小泉は終わりだ」と祝杯をあげていた。私は小泉さんとの会談後、記者団に「(会談では)缶ビールとひからびたチーズしか出なかった。けしからん奴(やつ)だ」と話した。

党内外に「小泉は本気で解散をやるぞ」というシグナルを送ったつもりだった。世間では「ひからびたチーズは実は高級チーズのミモレット」ということばかりが話題になり、チーズの宣伝をしただけに終わった。

(元首相)

森喜朗(26) 首相退陣

常に考慮していた進退
前立腺がん、1年が潮時と

平成12年(2000年)10月、中川秀直官房長官の女性問題が週刊誌で報じられた。中川さんは「内閣に迷惑をかけられない」と言って辞任した。なぜこのような問題がこの時期に蒸し返されたのか、不思議に感じた。

後任は福田康夫さんにお願いし、官邸は福田官房長官―安倍晋三副長官の体制とした。

11月に「加藤の乱」が起きた。政治評論家の会合で加藤紘一さんが「野党の不信任案に同調してでも森内閣を倒す」と気炎を上げたのだ。

私は信じられない気持ちだった。野党の不信任案に同調して離党もせずに政権をとるのはあり得ない話であり、政党人としてもスジの通らないことであった。

幹事長の野中広務さんが党を守るため、古賀誠さんの協力を得て反乱の鎮圧に動いた。加藤さんと仲がいい小泉純一郎さんもこのときは加藤さんの批判に回った。「加藤の乱」は腰砕けに終わった。

私はそれまで自分の後継者にひそかに加藤さんを考えていた。すでに橋本龍太郎さん、小渕恵三さんがやり、私も首相を経験して、残るは加藤さんが適任だと思っていた。

実は私は首相就任直後の所信表明演説を終えた日に医師から前立腺がんと診断された。手術を強く勧められ、1カ月の入院が必要といわれた。小渕首相が倒れた直後でもあり、私は手術を先延ばししてがんと闘いながら首相職を続けていた。

だから私は常に自分の進退に思いをめぐらし、大体1年で辞めるつもりだった。

平成13年2月、宇和島水産高校の実習船が米原潜に衝突されて沈没したえひめ丸事故が起きて、9人の犠牲者が出た。私は休日だったのでゴルフをしていた。

第一報は「日本の船が事故にあった」程度だった。「詳細が入るまで、そこで待ってください」とアドバイスされた。ゴルフはハーフで中止し東京に戻って事故対応にあたった。宇和島は今松治郎代議士の秘書だった私には縁が深いところだ。船体引き揚げなどに私は全力を尽くした。

メディアは私の対応を徹底的にたたいた。テレビはえひめ丸の事故映像と私がゴルフをしている映像を対比して繰り返し流し続けた。私の映像は事故と全く関係のない、夏の麦わら帽子をかぶった季節はずれのものだった。

総選挙の際には「寝てればいい」発言が問題視された。選挙中盤のメディアの情勢調査で「自民圧勝」と出たので「このまま有権者が寝ていてくれればいいが、そうはならない」と述べたのに、である。

「神の国」発言もそうだった。言葉尻をとらえ発言の真意をことさら曲解して、番記者が口裏を合わせ騒ぎ立てるメディアには強い憤りを禁じ得なかった。

えひめ丸事故で私の支持率は10%を切る調査も出てきた。党の地方組織から「都議選や参院選が戦えない」という声が上がり始めた。総裁として党員の声は無視できない。

私は「そろそろ潮時だな」と判断し、首相退陣のハラを固めた。辞意を最初に伝えた相手はロシアのプーチン大統領だった。

3月にイルクーツクで会談し、何も言わずに帰国後すぐ辞めるのは相手に失礼だと思い、「実は近々辞めるつもりだ」と話した。大統領は非常に驚き「残念だ。ヨシと領土問題を解決したかった」と言った。

(元首相)

森喜朗(25) 全力投球

成功した沖縄サミット
インド、アフリカ外交展開

首相として緊急登板した私の使命は小渕恵三前首相が心を砕いてきた沖縄サミットを成功させることであり、目前に迫った衆院解散・総選挙を無事に乗り切ることであった。

サミット参加国の首脳にあいさつするため、5月の連休を利用して各国を歴訪した。最初の訪問国はロシアである。就任直前のプーチン大統領は私の最初の外遊先がロシアであることを非常に喜び、丸1日、私につき合ってくれ、個人的にも親密な関係になった。

その後、欧州、米国に向かった。パリで朝食、ベルリンで昼食、ロンドンで夕食をとり、深夜にカナダに到着という超強行日程もあった。

6月の総選挙で自民党は議席を減らしたが、第1党の座を守った。公明党、保守党(旧自由党で連立にとどまった人たち)を合わせた与党の議席は安定多数に達して森内閣は国民に信任された。

選挙後の改造で内閣官房長官に私の参謀役である中川秀直さんを起用した。建設相には保守党の扇千景さんを起用した。扇さんに連立にとどまり、保守党の参院対策のため党首になるよう説得したのは私だった。

民間から川口順子さんに環境庁長官になってもらった。大蔵と外務は引き続き、宮沢喜一さんと河野洋平さんに留任をお願いし、この体制で沖縄サミットに臨んだ。

サミットのテーマの一つに感染症対策があった。私はアフリカの代表もサミットに招きたいと考え、東京に南アフリカのムベキ大統領、ナイジェリアのオバサンジョ大統領、アルジェリアのブーテフリカ大統領を招待した。

東京でアフリカ首脳とサミット参加国首脳の会談が実現し、アフリカ問題や感染症対策を協議した。アフリカの首脳は大喜びだった。参加国首脳は直後に沖縄に飛んだ。

各国首脳の協力を得て沖縄サミットはIT(情報技術)、経済再生、感染症対策で実り多い討議を重ね、成果をあげて閉幕した。サミットの成功で議長役の私は小渕さんの遺志に報いることができた思いだった。

森内閣の施策は沖縄サミットの成果を踏まえて展開した。IT振興を経済再生策の軸に据えてIT基本法を制定し、e―JAPAN戦略を策定した。これにより日本はITのインフラ整備で世界のトップレベルに追いついた。

私はIT問題をめぐる有識者との意見交換を通じてインドが隠れたIT大国であることを知り、インドを訪問して日印関係の抜本的な改善を図りたいと考えた。それまで日本は核実験への抗議で10年余り経済制裁を実施していた。

私は8月に、日本の首相としては10年ぶりにインドを訪問し、バジパイ首相との間で「日印グローバルパートナーシップ」に調印した。インドはめざましい発展を遂げた。後に私は日本を訪れたシン首相から「あなたはインドを日本に近づけてくれた恩人だ」と感謝の言葉をもらった。

国連難民高等弁務官だった緒方貞子さんはしきりに私にアフリカ訪問を勧めた。難民対策や感染症対策で日本はアフリカに対してもっと存在感を示した方がいいとのアドバイスだった。

沖縄サミットの経緯もあるので、私は緒方さんと一緒に平成13年1月、南アフリカ、ケニア、ナイジェリアを訪問し、難民キャンプも訪れた。日本の首相がサハラ以南を訪れるのは初めてで、各地で大歓迎を受けた。

(元首相)

DeNA中村の“懲罰二軍”に思う

DeNAの中村紀洋が8月半ばから2軍落ちしていたのは、自分の打席で盗塁をした内村賢介をベンチで叱責したことが原因だったと報じられた。中村の行為に弁護の余地はない。けれども中村がなぜそのようなことをしたかについて、中軸を打った経験のあるものとして解説しておきたい。

■怒りの矛先、盗塁した走者に

報道によると経緯はこうだ。8月15日のDeNA―阪神戦。DeNA4点リードの七回裏二死一塁で、打者は中村。このとき走者の内村が二盗を決めた。その後、三振して帰ってきた中村が「なぜ盗塁するのか」と内村にベンチで怒鳴りつけた。

しかし俊足の内村はベンチから「フリーで走ってよい」というお墨付きを与えられていたために、中村の行為は采配批判と受け止められた。その後、中村は右肘痛で2軍落ちしたが、実はこの時の言動も問題視されての2軍降格だった――。

8月31日付の各スポーツ紙の記事を総合すると、そういうことになる。

■いくつもの行き過ぎた行動も

報道の通りなら、全く中村に弁護の余地はない。「走ってよい」という指示が出されていたというのだから、不満があるなら内村でなく、監督かヘッドコーチに言うべきである。それも試合中でなく、試合後に監督やヘッドコーチと面と向かって話せばよかった。その点、中村にはいくつもの行き過ぎや落ち度があった。

ただ、そもそもこの問題は「なぜ中村が内村を叱責したか」という、主力打者ならではの話に関係してくる。特に最近、プロ野球がつまらなくなったとすればそれはなぜか、という問いかけにつながる問題をはらんでいるのだ。

七回裏二死一塁。4点差でほぼ勝敗が決した場面で3、4番となれば、当然狙うはホームラン。ファンもそれをみたいと望んでいるはず……。中村あたりの世代までの長距離ヒッターの多くはそういう考え方をしていたはずだ。

■行動の裏に昔風の「4番の本能」

問題の打席で中村がどこまで意識していたかはわからないが、内村を叱った彼の行動には昔風の「4番の本能」があったように思う。

「つなぎの野球」が今はもてはやされて、走者を進める打撃ができる中軸がほめそやされる。マスコミもファンもそれがいい野球だと思っているフシがある。

「つなぐ4番」は聞こえはよいが、現実として、歴代の大打者につなぐ4番は存在しない。そして問題はつなぐ4番が本当に面白いかどうかだ。少なくとも昔のプロ野球の4番打者の仕事は走者をホームに返すことだった。

意識の上でも、つなぐのでなく、打点をあげることが4番の仕事というはっきりしたものを持っていた。誰もマネのできない飛距離とか打球の速さを持ち、勝負強く、一発で形勢を逆転できる力を秘め、周りのナインから信頼されている。だから俺は4番打者を任され、期待に応えるんだというプライドと責任感を持っていた。

■中軸のプライドと責任感

だから状況にもよるが、中軸が打席に立つと、走者は打撃の邪魔をしてはいけないという不文律があったのだ。

私のヤクルト時代の話だが、今回の中村と同じような状況で打席に入ったとする。たとえば一塁走者が飯田哲也で、七回で4点差。盗塁王にもなった(1992年)飯田だが、こんなときは「ヒロさんが集中できるように、走るのはやめておこうか」という気配りをしてくれた。また監督が「走るな」というサインを出して配慮してくれることもあった。打撃の邪魔にならないように、集中できるようにと周りのみんなが気を使ってくれた。それがうれしかった。

ここで盗塁がなぜ打撃の邪魔になるのかについても説明が必要だろう。特に右打者は一塁走者がよく見える。ゴルフをする方ならよく理解できると思うが、アドレスに入って初動動作を始めたとき、同伴プレーヤーが見えるところで動いたら気になる人は多いはず。野球の打撃でも、一塁走者の動きが目に入ると、どうしても集中力が阻害され、ボールをとらえることに支障がでる。絶好球を打ち損じるということが起こるのだ。

■「ちょろちょろするんじゃない」

走者の動きが気にならないという打者は少なく、左打者にも二盗の動きが目に入って気になるという打者がいた。

だから中軸打者は走者に動かれることを嫌うのだ。私も駆け出しのころに、塁上でリードを広げていた走者が主力選手に「ちょろちょろするんじゃない」とどやされるのを目の当たりにし、自重しなくてはと思ったものだった。

なまじリードをとっていると投手がけん制する。それも打者としては気が散ることだ。だから「黙ってベースについていろ」というわけだ。

もっといえば「俺の長打で返してやるから、余計なことはせんでいい」というくらいの気持ち。これが4番のプライドだった。

■あしき伝統か、魅力か

こうした意識は今の聞こえのよい「つなぎの野球」一色に染まった日本球界では「お山の大将」みたいなもので、あしき伝統といわれるかもしれない。

しかし、中村や西武や巨人などで4番を打った清原和博あたりの世代まではそういう意識で打席に立っていたはずだ。そこがプロ野球の魅力になっていたと思うのだ。

考えてみてほしい。たとえば問題のDeNAのケースで、内村二盗のあと、中村がちょこんと右打ちなどをして1点追加したとしよう。

それで面白いだろうか。ほぼ勝負が決した七回4点差の二死一塁。そこで打順は3、4番となったときに、ファンを魅了するには一発ということにならないか。

■一発を狙っていいケース

主力打者といっても、常に一発を狙えるわけではない。堂々と一発を狙える状況はそんなにないのだ。だが、あのケースはまさに一発を狙っていいケースだった。

問題のDeNA―阪神戦は途中まで9―5という乱打戦だったし、それでなくても七回時点の4点差はDeNAにとってセーフティーリードではありません、という人もいると思うが、相手が巨人ならともかく打撃低迷の阪神だ。

総合的にみると中村の2軍落ちはやむを得ない。しかしこういうことが重なって、ますます「4番打者」という種族が絶滅に向かうとしたら、寂しい話ではないか。ひと昔前なら「中村が怒るもの無理はない。内村、考えろよ」と逆に指導された可能性が高い。

今はつなぎの野球がもてはやされて、ファンの方も中軸の進塁打を「野球を知っているね」とほめる。

■ファンを引きつけるフルスイング

ただし、それも状況次第。今回のようなケースで打者中村となったら、走者の内村に「走るなよ」とスタンドから声が飛ぶようであってほしい。

そしてもし二死一塁から中村が当てに行ってつなぎの打撃をしたら、ファンも拍手を送るのでなく、ブーイングを浴びせてほしいのだ。「おまえのそんなスイングを見にきたんじゃない」と。

中村のフルスイングなら、たとえ空振りでもファンは満足というものではないか。

それが野球に目が肥えているということではないだろうか。そんな目で野球を見るファンが増えたら、プロ野球はもっと盛りあがるのではないだろうか。プロ野球とファンがともに成長していくことが、私の考える理想である。

(広澤克実・野球評論家)

森喜朗(24) 緊急登板

まさかの小渕首相重体
「密室」の批判は当たらず

自民党と自由党の連立に公明党が加わった自自公政権が平成11年(1999年)10月に発足した。自由党の小沢一郎さんは初めはおとなしく協力したが、例によって次第にわがままを言い、暴れ出した。

まず比例代表の廃止を言い出した。公明党に対する嫌がらせだった。何とか比例定数を20減らして180とする案をまとめた。公明党の冬柴鉄三幹事長が苦労をして党内を説得してくれた。

冬柴さんは「その代わり、次の選挙では定数3の中選挙区150にしてほしい」と提案してきた。私は了承し、小沢さんも「わかった」と言った。比例代表削減法案は平成12年2月に成立した。

小沢さんは自民党と自由党の対等合併を提案してきた。むちゃくちゃな話である。官房長官の青木幹雄さんも幹事長代理の野中広務さんも猛反対である。私も当然反対だった。私たちは自由党との連立解消を覚悟した。

4月1日夜に小渕恵三首相と小沢さんの会談が行われた。会談後、執務室に入ると小渕さんは疲れ切った表情で元気がなかった。「(合併提案は)断ったよ」「それはよかったですね」「これから記者団とぶら下がりがある。幹事長も立ち会ってくれ」

ぶら下がり会見で小渕さんの言葉が詰まるので「おかしいな」と感じた。小渕さんは「きょうは疲れたので公邸に帰るよ。みんなによろしく伝えてくれ」と言った。

私は「ゆっくり休んでください。党の方は私がやりますから」と応じた。小渕さんは公邸に向かう廊下をとぼとぼと歩き、私はその後ろ姿を見送った。これが学生時代から親しい私と小渕さんの今生の別れになった。

夜遅く、青木さんから「総理が倒れた」と連絡があった。翌日の2日夕に自由党分断対策を協議する党五役会議をセットしてあった。これを早めて同日昼過ぎに五役が集まった。池田行彦総務会長は体調が悪く欠席した。

青木さんから「総理は脳梗塞。医師の判断待ちだ」と報告があった。その後、自由党分断対策を話し合った。夜になって小渕さんがかなりの重体だとわかった。再び五役が集まり、青木さんを首相臨時代理にすることを決めた。国会開会中で予算関連法案はまだ成立していなかった。

青木さんは「代理は長くやれるものではない。国会もあるから早く後継者を決めた方がいい」との判断だった。その場で瞬く間に「森さん、後継者はあんたしかいない」という結論になった。

野中さんは「公明党も森さんでいいと言っている」と話した。亀井静香政調会長も村上正邦参院議員会長も私を支持した。池田総務会長にも電話で連絡し「それで結構です」と返事があった。

予想もしない急展開だった。私は両院議員総会で正式に総裁に選出され、4月5日に森内閣を発足させた。ウオーミングアップなしの緊急登板である。青木官房長官も含め全閣僚に留任してもらった。

私はメディアから「密室談合で選ばれた首相」と批判された。こうした批判は全く的外れである。現職首相が意識不明の重体になる前代未聞の事態に直面して、のんびり総裁選をやるのは国家の危機管理上からも許されない。

役員会、総務会の了承を経て地方代表も参加した両院議員総会で決定したもので、誰も対立候補は出ず、手続き的にも瑕疵(かし)は全くなかった。

(元首相)