根岸英一(14) シラキュース大

難関突破し助教授に
厚待遇の企業研究職辞退

シラキュース大学はニューヨーク州シラキュースにある私立大学だ。秋から冬にかけて行った第1ラウンドの選考面接に私は呼ばれなかったが、春の第2ラウンドになって声がかかった。

面接に行ってみると熱烈な歓迎ぶりだ。ロシア系ユダヤ人の学部長が「(私の指導教官の)ブラウン教授はノーベル賞を取ると思うか」と聞いてきた。私は「もちろんそう信じている」と答えると、立て続けに「あなた自身は取ると思うか」と質問してきた。私は「その可能性を除外したくない」と応じた。

充実した面接を終え「採用してもらえそうだ」との感触を得た。採用通知が届き、1972年から助教授として研究を始めた。後で確かめると応募者数は250人以上あったようで、相当な競争だったと分かった。

万一、大学で研究できなかったときに備え、米企業の研究職も滑り止めとして考えていた。付箋やテープなどの開発で有名な3M、大手化学会社のユニオンカーバイド、試薬メーカーのアルドリッチの3社から採用を認める返事をもらっていた。

3Mが提示した年俸2万5500ドルは魅力的だった。71年のニクソンショックで1ドル=308円になった当時の相場で換算すると785万4千円。ユニオンカーバイドの同2万4000ドル、アルドリッチの同2万ドルを上回った。当時パデュー大助手の年俸は1万1500ドル、シラキュース大助教授は同1万3500ドルで、はるかにしのいでいた。

しかし私は、大学にポストがあるのなら、給料の額に左右されずに大学に決めようと考えていた。3Mのあるミネソタ州セントポールの冬は厳しい。寒さに弱い妻のすみれの健康も考え、迷わずシラキュース大を選んだ。

大学の講義で就職前の学生を相手にこの経緯をよく話す。どのようなところに就職するのか、給料はいくらぐらいが妥当なのか。悩んでいる学生にとって私の体験談は参考になるようで、みんな熱心に聞いている。

シラキュース大で採用が決まり、それまでずっと私の帰国を待ってくれていた帝人に対し正式に退社を申し出た。もともと博士研究員としてパデュー大へ行く前に辞表を出したが、当時の人事担当の役員の方が私を夕食に誘い「これは受け取れない」と留保され、休職扱いのままだった。

医薬品事業への進出を計画していた帝人は、有機化学分野の研究人材を確保したかったのだと思う。人事から私の元に定期的に在籍を確認する書類が届いていた。シラキュース大で研究者として独り立ちする段階にまで達した状況を判断し退社は認められた。

ブラウン教授に学んだ運営法をもとにシラキュース大の根岸研究室は立ち上がった。面接で応対した学部長が親切にも博士研究員用の予算を付けてくれ、大阪大出身でマイアミ大(フロリダ州)に留学経験のある吉田隆夫博士を招くことができたのは非常に幸運だった。

最初はパデュー大でやっていたホウ素を用いる有機合成反応を継続したが、これでは政府の助成金を取れないことが分かった。ブラウン教授がやってきたことと同じテーマで弟子がキャリアを築くことに学界全体が批判的なのだ。日本とは正反対といえる。

(有機化学者)

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