根岸英一(8) 帝人に入社

研究所で勉強不足悟る
留学決意、難関突破し米国へ

1958年4月、帝人に入社した。研修を終えると山口県にある岩国研究所の配属になった。

帝人はちょうどその年、ポリエステル繊維の事業を始めた。英国のICI社が開発したポリエステル繊維の製造技術を、東レと共同で導入した翌年だった。合成繊維への進出に伴い研究所には「新しい繊維を作り出そう」という活気があった。

配属された研究所の第1科では、帝人の共同創業者の一人、秦逸三氏のご子息の秦英雄さんが科長をしていた。その科の上司の一人から「根岸君には高分子の化学反応を系統的に研究してもらいたい」といわれた。

私が「ところで、どなたが指導してくださるのでしょうか」と尋ねると「いや、それは君がやるんだ」との答えだ。声には出さなかったが、とっさに「これは大変なことになった」と感じた。

東京大学では音楽やスポーツには夢中になったが、化学はそれほど熱心に勉強しなかった。「大学院に入って改めて勉強し直すか」などと思案を巡らしたが、親に授業料の負担をかけたくなかった。

帝人ではその頃、海外留学を推奨する機運が急速に高まっていた。政界に進出していた大屋晋三氏が2年ほど前に社長に復帰し、世界の一流と肩を並べる志を強く説き「若者よ、海外にいでよ」と唱えていた。フルブライト奨学金の選抜試験に合格すれば、会社は全面的に支援するという。「これしかない」との思いで、研究所が開いてくれた英会話教室に参加した。

幸い英会話は東大時代、妻の兄で高校以来同級生の鈴木健次と一緒に、少人数のサークルを作ってなじんでいた。会社の教室でも私が一番できたのではないだろうか。研究所の近くには米軍基地があり、講師役の米国人を引っ張ってくる交渉役を任されたこともあった。

フルブライト奨学金の競争率は極めて高かった。私が行った広島の試験会場には200人近い受験者がいて、合格するのは文科系で1人、理科系で1人ぐらいだろうといわれ、事実その通りになった。この選抜に合格できたのは本当によかった。この年、全国で30人ぐらいが決まり、帝人からはもう1人合格者がいた。私より4~5年先輩で、帝人内の競争を避けて福岡で試験を受けていた。

留学先は、図書館で高分子化学の論文誌を読んで編集担当の研究者の中から見付け出した。候補の大学を3つ書いて米国側に渡し、ペンシルベニア大学が受け入れてくれると知らせが入った。

留学に先立ち、私にはどうしても決めておかなければいけないことがあった。すみれとの結婚だ。大学を卒業するときすでに「円満な家庭で育った彼女のような女性と一緒になれば、幸せな家庭を築ける」と信じていた。

岩国へ行く前の新宿御苑で「二人三脚でやっていこう」と婚約を申し込んだ。すみれは「私なんかではダメです」と返事をして一瞬戸惑ったが、本心ではないと思い、私の気持ちは揺るがなかった。案の定、婚約は受け入れてくれ、赤門前の喫茶店で卒業の日、近親者だけで婚約式を済ませていた。このまま米国に旅立ってはいけないと思い、米国に出発する60年の6月29日、東京・神田の学士会館で結婚式を挙げた。

(有機化学者)

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