根岸英一(5) 音楽の師

合唱始めるきっかけに
家族ぐるみで長期の交流

湘南高校の思い出に触れる前に、どうしても加えておきたい話がある。私の人生と切っても切れない音楽についてだ。大和中学で音楽のすばらしい恩師、鈴木次男先生に出会ったからだ。高校入学で掛け合ってくれた先生方の一人でもあった。

私は小さい頃から歌うことが大好きで、中国にいたときからよく大声で歌っていた。小学校に入ってからもクラスを代表して歌うことが時々あった。

小学校で授業参観のあったある日、「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の……」と軍歌を歌った。ところが次の「赤い夕日に照らされて」の音程が高くなりすぎて声が出ず、とても恥ずかしく感じた経験がある。それ以来、曲の一番高い音と低い音を事前に確かめて歌うようになった。

ソウルの小学校に転校した後、音楽の時間に和音を聴き当てる試験があった。最初は何をしているのか分からず闇雲に答えを書いて20点ぐらいだった。要領が分かった2度目の試験は、何と100点満点。2人掛けの机の隣に級長だった女子生徒がいてやはり満点だった。カンニングを疑われて私だけ再試験することになった。幸いその試験も満点で、先生に私の実力を認めてもらうきっかけになった。

そんな私の嗜好を、鈴木先生は大いに高めてくれた。東京音楽学校(現東京芸術大学)でピアノを学び、また作曲を山田耕筰、対位法を平尾貴四男に師事した。戦争中は西洋音楽を育む雰囲気ではなかったが、フランス人神父の元に通ってグレゴリオ聖歌を学び「スパイと間違われながら研究を続けた」こともあったようだ。

戦後、近くの米軍基地や大和市の教会でオルガン奏者などを務めていた折に大和中学から声がかかり、私たちの先生となった。これぞ本物といえる音楽教育をしてくれ、今でも同窓会の話題になる。

授業では、左手5本の指を五線紙に見立て、先生が右手の人さし指で指した音を出す練習をした。1年後にはほとんどの生徒が楽譜を読めるようになったと思う。先生は特に、音楽表現の心について力を入れていた。どんな歌でも棒読みにはせず「海の波が寄せてきて白波を立てるピークを経た後、沖に戻っていくイメージを持って歌うことが大切」と教えられた。

中学3年からは合唱と深くかかわった。文化祭のとき、ピアノが達者な女子生徒2人が「私たちが伴奏をします。滝廉太郎の『花』など2~3曲を合唱しましょう。指揮は根岸さんにお願いします」と提案した。突然の話だったが多数決で決まってしまったのだ。でも、まんざらいやではなかった。その後、頼まれるままにどこででも大声で歌う癖が抜けずじまいだ。

湘南高では合唱部に所属し、東大に進んでからは鈴木先生の自宅で少人数の混声合唱サークルに参加した。就職した帝人の岩国研究所でも混声合唱団に加わり、2年目には指揮者として1960年の米国留学まで合唱活動を続けた。

鈴木先生の自宅は私の家から1キロメートルほどのところにあった。お邪魔しているうちに家族とも親しくなる。先生の長男の健次君は高校、大学と同級生で、長いつきあいになる。長女のすみれは私の妻になった。引っ込み思案で時々お茶を出しに来るぐらいだったが「かわいい娘さんだなあ」と思っていた。

(有機化学者)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。