根岸英一(3) ソウルに転居

仲間連れ内緒で遠出
無鉄砲な性格、子供時代も

終戦の2年前、小学校3年生のとき、父の転勤で韓国のソウル市に引っ越した。終戦をハルビンで迎えた日本人男性の多くがシベリアに抑留された歴史を振り返ると、この転居は我が家にとって大きな節目だったと思う。一家が無事に日本に戻ることができたからだ。

ソウルに移る前、ほんの2~3カ月だが、母方の親戚のお世話になって仁川に住んだ。ハルビン出身なので「ピンデ」(韓国語で南京虫の意)というあだ名を付けられ、生まれて初めていじめを経験した。母の妊娠、出産なども重なり登校拒否が始まった。

あるとき、教科書に載っていた「朱安のハゼ釣り」という話の舞台になっている朱安が、仁川から鉄道で一駅先にあることに気付いた。親戚の小さな子どもたちに「ハゼを釣りに行こう」と声をかけ、母親たちに内緒で朝からみんなと一緒に出かけた。

昼を過ぎた頃になると、自分を含め子どもたちのおなかがすいてきた。お金は帰りの切符代しかない。空腹に耐えられず、それで食事をしてしまった。ハゼは全然釣れず、あきらめて帰ろうとするが、汽車には乗れない。仕方なくとぼとぼと仁川に向かって歩き始めた。数キロメートルはあったのか、小さい子が泣き出してしまった。何とかたどり着いたが、家では捜索願まで出して大騒動になっていた。子らの無事な姿を見て親たちはとにかくほっとしていた。

親戚が集まって昔話に花が咲くと、必ずこの一件が持ち上がる。そのたびに「自分がその頃から、いかに無鉄砲な性格だったのか」と、思い起こされる。

ソウルでは空襲もなく平穏な生活を送った。日本の同年代の人たちとは違い、特にひもじい思いをしなかった。やがて終戦を迎え、米軍が進駐してきた。同じクラスにいた50人ぐらいのうち十数人が日本名から韓国名に代わり「そうだったのか」と、子供心に戦争による事情を察した。

1945年11月、日本に戻った。船で山口県仙崎港に着き、下関から貨物列車に乗り長時間揺られて東京へ向かった。空襲で焼け野原になった、晴天の姫路の丘にそびえる白鷺(しらさぎ)城の美しさが今も脳裏に焼き付いている。

東京・目黒の家は近くに元競馬場前のバス停があり、木炭バスが行き交う。時々動かなくなり、後ろから人が押している時代だった。新京でお世話になった父の兄の家族3人がこの家に住んでいた。空襲の時、家のすぐ裏まで火の手が迫り、延焼を防いでくれたという。そんな恩義もあり、ほかに移り住む家もない。追い出すわけにもいかず、一緒に住んだ。ほかにも親戚や友人が加わって16人はいたと思う。子供にもその大変さは感じられたが、やっていることといえば相変わらず、近所の友達と遊ぶことばかりだ。

目黒川ではダボハゼがよく釣れた。衛生的に大丈夫だったのかと思うが、家に持って帰ると、母親が洗って揚げ物にしてくれた。碑文谷公園にある池でも釣りをした。クチボソと呼んでいた小さな魚がいておいしかった覚えがある。日本大学のプールが近くにあり、古橋広之進さんや橋爪四郎さんが練習していた。その合間に小中学校の生徒も泳がせてもらった。

不思議な思い出は、従姉(いとこ)の友人女学生にかわいがられたことだ。有楽町の宝塚劇場に何回か一緒に連れて行ってもらった。高峰秀子さんの舞台は印象に残っていてファンになった。

(有機化学者)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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