根岸英一(2) 1年早く就学

8歳まで満州で生活
遊びに熱中、冬はスケート

私は1935(昭和10)年7月14日、旧満州国の新京(現在の中国吉林省長春市)で生まれた。父親の隆三郎が、南満州鉄道系の商事会社に勤務していたからだ。翌36年には父の転勤に伴いハルビン(黒竜江省)に引っ越し、8歳までそこで暮らした。

隆三郎は中学生のときに父を亡くし、異母兄弟の兄を頼って中国に渡った。それまで東京で進学を考えていたが、きっぱりあきらめたという。新京商業学校でロシア語を専攻し、現地で働き始めた。母のふさえは福岡県の出身で、そのころ大連に住んでいて隆三郎と知り合い結婚した。

当時、ハルビンにはたくさんの日本人が住んでいた。ロシア人が住む街並みや地元の中国の人たちも記憶に残っているが、海外にいたという意識はほとんどない。

5歳のときだったと思う。2歳年上の姉の学校の担任の先生が、私たちの自宅にやってきて勉強をみていた。私はついつい顔を出して先生の話を聞いていた。先生が姉に何か質問をして姉が答えに詰まっていると、我慢できずに先に答えを言ってしまうことがたびたび起きた。

現地の制度では、7歳になってから小学校に入るはずだった。その若い男の先生は、私の両親に「英一君を来年から小学校に入れてみてはどうですか。私が何とかしてみますから」と持ちかけた。あまり規則が厳密に運用されていなかったのだろう。私は他の子どもたちよりも1年早く小学校に入学できた。

学校では、いつも遊ぶことばかりが頭の中にあったように思う。友達と屋外でいつも体を動かしていた。教室以外で勉強したことはほとんどなかった。もっともその頃の教科書はとても薄かった。あるとき自宅で読み始めたら、全部読み終えてしまったぐらいだ。

両親は細かいことにはほとんど干渉しなかった。治安や衛生状態に対する多少の不安を持っていたのか「暗くなる前には家に帰ってきなさい」程度の注意は受けた。日没後に帰って時々しかられた。

一番記憶に残っている遊びは、スケートだ。ハルビンの冬は、雪はあまり降らないが、長く厳しい。校庭に高さ30センチほどの土手を作って水をまいておくと、即席のスケート場ができた。小学校に生徒用のスケート靴も置いてあって、毎日のように滑って遊んだ。この体験は、米国に渡った後、スキーを始めるときに大いに役立ったと感じる。

小学2年生の冬だったか、父が私だけを連れて日本に帰国した。朝鮮半島北部の日本海側にある清津港から、4日かけて新潟港に到着した。日本海が相当荒れていたことと、船長がかわいがってくれて食事のときはいつも隣に座っていたことを覚えている。

どんな目的で帰国したのか詳しいことは分からないが、東京を中心に各地を回った。新京で世話になった兄の家族が東京に戻っていたし、日本橋3丁目は父方の祖母が住んでいて、今でも私の本籍地だ。ほかに鎌倉や京都、奈良などにも足を延ばした。

父はこの時、帰国後の生活を考えて東京・目黒の新築の家と現在の神奈川県大和市南林間の土地を購入したと聞いている。南林間の土地は小田急電鉄の沿線で1000坪(約3300平方メートル)ぐらいあった。結局この土地は、切り売りを続けて現在は全く残っていない。

(有機化学者)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。