根岸英一(30) 家族

孫たちの成長見守る
支えてくれた人々に感謝

これまでの77年間を振り返れば2010年のノーベル賞受賞が最高級の栄誉であり喜びであることに違いはない。しかしこれが私の人生の究極の目的とは思わない。ヘックさん、鈴木章さんと3人で一緒に受賞したが、私たちと同程度に貢献度の高い研究者は、少なくとも10人はいるだろう。3人はとてもラッキーだったのだ。

繰り返すようだが、この世に生きる一人ひとりにとって最大の、そして究極の目的は幸福だ。これは誰もが求め、それぞれにつかむべきものだと信じている。

大学に入る頃までは好きなこと、やりたいことをかなり自己中心的にやってきた。それでも思い出してみると、多くの人の厚意とお世話になったことを痛感する。両親、姉と4人の妹、親戚。特に音楽の師、鈴木次男家の皆さんにはお礼の言葉もない。長男の健次氏と幸子さん夫妻、妻となった長女のすみれと私、すみれと最も親しい同年のいとこの藤森直枝さんと夫の幹夫氏。この3組は同じ1960年に結婚し、ノーベル賞発表前の10年夏、ハワイでともに金婚式を祝った。ストックホルムでも一緒だった。

大和中学校と湘南高校時代の先生方と同級生たち。なかでもどこからか私を見守り励まし続けてくれる、茅ケ崎市長を4期務めた根本康明君など多くの方々に感謝したい。

そして何と言っても、すみれとともに築いてきたわが家族はかけがえのない存在だ。

私たちには2人の娘がいる。63年生まれの長女、若葉シャーロット・イーストと67年生まれの次女、ミッチー・F・カピーだ。2人とも米国人男性と結婚。若葉にはブライアン(21歳、コロンビア大3年)、アシュリン(20歳、パデュー大2年)とマデリン(16歳、高校2年)の3人、ミッチーにはアイザック(13歳、中学1年)1人がいる。娘たちは今やほぼ100%米国人である。

孫がそれぞれ高校を卒業する時、私は大理石製のブックエンドを卒業祝いとして渡すことにしている。連載7回目に紹介した「幸福の4条件」に基づく人生訓を、青銅板にエッチングしたものを外側に貼ってある。

私とすみれの大きな関心事の一つは、全ての孫たちが独り立ちして幸福に歩み始めるのを見届けることだ。それを目的に、孫たちが中学生から大学生の期間に欧州と日本に最低1回は連れて行くことを8年前に始めた。さらに中学・高校で満足な成績を上げた者には、親の負担すべき教育費の半分を私とすみれからの奨学金として支援している。

初孫のブライアンの場合、授業料・生活費を含め年600万円近くかかる。フットボールの奨学金が約200万円で、残りの400万円を親と私たちが折半している。アシュリンは地元州立のパデュー大で、私たちの支援額はブライアンの場合の約半分で済む。

半世紀前に文字通り一文無しで米国に来て3年間、世界最高レベルのペンシルベニア大で勉学に励めた幸せをしみじみと味わい、フルブライト財団をはじめもろもろの米国の団体及び多くの個人の方々からも計り知れぬご厚意と親切をいただいたことを感謝しつつ、過ごしている毎日である。

(有機化学者)

根岸英一(29) 夢を追う

若者よ、世界を目指せ
失敗にくじけず目標高く

日米フルブライト交流プログラム60周年を記念するシンポジウムがこの5月、都内で開かれ、私は基調講演とパネル討論に招かれた。フルブライト奨学生として米国に渡った日本人は約6300人いるという。この中にノーベル賞受賞者が4人いる。利根川進さん、小柴昌俊さん、下村脩さん、そして私が加わった。

日本の若者が最近、海外へ行かない話題が取り上げられる。時代の変化として当然かもしれない。私が学生の頃、日本と欧米の格差は大きく、先生にも「若者を海外に出そう」という意識があった。日本も一流になり、必ずしも欧米に行かなくてよくなった。

英語の問題もある。日本人はいまだに苦手意識を持ち、わざわざ英語圏に行って勉強しなくともと考えてしまう。そしてもう一つ、日本の食べ物はおいしい。これは外国に行くと相当こたえる問題だ。

それでもやはり外国に出ると色々な見方が身につき、自分自身も変わる。英語は下手でも構わない。モンゴル出身の力士が日本語をうまく話すように次第に上達するものだ。研究に限らない。スポーツや音楽などエクセレンス(秀逸)を求める分野では、日本一もすばらしいが、ぜひ世界を見渡して腕を磨いてもらいたい。「自信がある」「向いている」という分野を見つけて研さんに励んでもらいたい。若い世代への要望だ。

私自身、失敗にくじけず高い目標を掲げ夢を追い続けてきた。この姿勢はよかったと思う。化学の研究ならブラウン教授、歌唱ならイタリアのテノール歌手、ルチアーノ・パバロッティ、ゴルフなら米国のプロ、ジャック・ニクラウス……といった具合に理想を目指してきた。

ブラウン先生は約400人の弟子を育て、1300本弱の論文を発表した。私のところを巣立った研究者は120人ほどで、論文数はようやく400本を超した。ブラウン先生には遠く及ばないが、ノーベル賞受賞でご恩に応えられたのではないかと思う。

2002年にパデュー大学で学会を開いた時、90歳になられたブラウン先生が出席され、鈴木章さんと私を含め100人ぐらいの参加者の前で「根岸英一と鈴木章をノーベル賞に推薦しようと思う」と宣言してしまった。ノーベル賞の推薦を公表するとは前代未聞のことだ。私も鈴木さんもびっくりしたし、私は妻のすみれに「聞かなかったことにしよう」と伝えたほどだ。

だがブラウン先生は私たちの受賞を見届けることなく、04年に亡くなられた。ストックホルムにお招きできなかったことが残念だ。

いやなことは忘れる主義の私だが、失敗を一つ明かそう。十数年前の話だ。

座長を任されたドイツの国際会議に出発する直前、孫のブライアンに「インラインスケートをちょっとだけ一緒に」とせがまれ、ガレージから道に出る急斜面でスケートを着け立ち上がろうとした途端、頭を打ち気を失ってしまった。病院に運ばれ2日後に意識が戻った。ただ耳鳴りが消えない日が続いた。

2カ月後スイスで仕事があり、医者はためらったが結局出かけた。その帰りイタリアの学生の親の持つ別荘に誘われ、紺碧(こんぺき)の地中海で泳いだ。米国に戻る機中、耳鳴りが消えたことに気付いた。その後一度も起きていない。

(有機化学者)

根岸英一(28) 日本に恩返し

長年蓄えた知識活用
古巣・帝人や3大学と連携

パデュー大学に「ハーフタイム」を宣言して2010年から業務を減らしてもらったが、同年にノーベル賞を受賞し米国の他の大学が私を引き抜きにかかろうとした。パデュー大は給料を上げて引き留め、私の名を冠した研究所の設置も決まった。

そのスポンサーとなったのが、かつて勤務した帝人だった。これからは自分の研究だけでなく、日本に恩返しをしたいと考えていた私にとって、再び帝人と関係を結べたことは何よりもうれしかった。

10年のノーベル賞発表の直後、私が1週間ほど日本に滞在している際に帝人の長島徹会長と大八木成男社長がお祝いのため面会に来てくれた。その際、グループ企業の研究開発や技術開発に対する助言と、若い研究者の指導をお願いできないかと話が進み、その場で「帝人グループ名誉フェロー」の就任が決まった。

11年1月に東京研究センター(東京都日野市)を、7月には岩国事業所(山口県岩国市)と、かつて通った職場を久しぶりに訪れた。熱烈な歓迎を受けるなか、次のようにあいさつした。

「入社当時、大屋晋三社長が『若者よ、海外にいでよ』と説いた言葉が、現在に至る道を進むきっかけになりました。帝人を辞する際『学んだことをお返しする機会があれば、よろしくお願いします』と申し上げました。50年を経てそれが実現しました。皆さんと一緒に研究をし、お役に立ちたいと思います」

今春から2人の若手研究員がパデュー大に派遣され、金属触媒を用いる有機合成化学の研究に取り組んでいる。

ソニーとも特別研究顧問の契約を結んだ。クロスカップリング反応は有機EL(エレクトロ・ルミネッセンス)材料の合成にも使われ、ソニーの事業と密接に関係する。研究報告会に出て意見を述べるほか、研究計画の策定などでも助言を求められている。

以前私はスイスの製薬大手、ホフマン・ラ・ロシュとコンサルタント契約を結び、20年にわたり協力関係にあった。有機合成の研究で蓄積してきた知識が産業界のお役に立つのであれば、これは望外の幸せである。

日本の大学とも関係が深まった。母校の東京大学では総長顧問に就いた。研究や国際化などの活動に対し助言する役割だ。岡山大学には05年から計4回、講演で訪れている。岡山大の「エネルギー環境新素材拠点」の外部評価委員を務め、11年には岡山大初となる名誉博士号を頂いた。

特別招聘(しょうへい)教授となった北海道大学との連携も長い。北大の触媒化学研究センターが05年から主催する国際会議は、クロスカップリング反応の理解を深めるうえで強い援護射撃となった。ドイツのアーヘン工科大で始めて以来、有機合成化学に強い大学や研究所を会場にしてきた。この分野の発展に貢献してきた玉尾皓平さんや鈴木章さん、そして私に加え折々に著名な研究者を講演者に招き、数々の研究成果を発信してきた。

この会議の運営で活躍する高橋保・北大教授は、84年から2年間パデュー大の私の研究室で博士研究員として在籍した。私が常々「日本人は研究業績を海外に発信するのがうまくない。もっと積極的に訴えないと」と話していたことを実践してくれている。

(有機化学者)

根岸英一(27) 情報発信

科学の楽しさ、若者に
光合成新研究、補佐の大役

ノーベル賞のブランド力はすさまじい。他の表彰と比べても別格だ。受賞後、世界各地から講演に招かれ、2011年は15カ国で105回におよんだ。ここ日本も、私をとても温かく迎えてくれた。

日本では単に研究者という立場だけでなく、科学者を代表して研究開発の重要性を唱え、日本の情報を世界に発信する「科学技術大使」の役割を担うことになった。また、若い世代に対して科学の楽しみを語る広報マンの役目も期待された。それは11年6月、文部科学省が所管する独立行政法人、科学技術振興機構(JST)の総括研究主監に就任した影響が大きい。

当時の北沢宏一JST理事長は、東京大学助教授時代に高温超電導物質のフィーバーを起こした研究者として有名だ。東大大学院で工業化学を専攻し、私の後輩に当たる。私のノーベル賞受賞が東大工学部出身で初となったことを大いに喜び、新たな役職を設けて活躍の場を準備してくださった。

早速出番が回ってきた。文科省が12年度の戦略目標に掲げた「環境、エネルギー、創薬などの課題対応に向けた触媒による先導的な物質変換技術の創出」に基づき、JSTの戦略的創造研究推進事業で新しい研究領域の発足が決まった。名称は「低エネルギー、低環境負荷で持続可能なものづくりのための先導的な物質変換技術の創出」と堅苦しいが、要は「グリーンケミストリー」と密接に関係するテーマだ。その研究総括補佐を務めることになった。

植物が行う光合成を思い出してほしい。水と二酸化炭素(CO2)を原料に太陽光を受けてグルコース(糖)を合成している。自然界にはこんなにすばらしい有機合成反応のお手本がある。何も自然と同じ反応を実現する必要はない。「触媒を使って光合成にも匹敵する新しい反応方法の開発に、科学者はもっと積極的に取り組むべきだ」。講演など色々なところでこんなことを唱えてきたので、私にうってつけのプロジェクトととらえられたのだろう。もちろん喜んで引き受けた。

この領域の研究総括は国武豊喜・九州大学名誉教授が務めている。国武さんは博士課程を米ペンシルベニア大学で修了した。彼の指導教官は、私が博士研究員としてブラウン研究室へ行く際、推薦状を書いてくださったプライス教授だ。半世紀を経て同じプロジェクトに関わるのも不思議な巡り合わせだ。

このプロジェクトでは(1)CO2の触媒的還元(2)炭素―炭素結合の触媒的不斉合成(3)フラーレンなど新規炭素材料の合成――を主な研究目標に掲げる。課題を公募したところ全国から198件の提案があり、この10月にこの中から50件を選び出した。5年間の研究が始まったばかり。これらの分野、特にCO2の触媒的還元の研究ではノーベル賞につながる成果が出る可能性も大きいと期待している。

またこの3月には、JSTが兵庫県で開催した「第1回科学の甲子園全国大会」に出かけた。全国48チーム、363人の高校生が筆記や実験など5つの競技に挑んだ。磁石とエナメル線で作ったモーターで模型の自動車を走らせ速さを競うなど面白い試みだと感じた。科学を志す高校生が世界で活躍する自分の将来像を思い描くきっかけになればと願う。

(有機化学者)

根岸英一(26) 人類救う魔法

「緑の化学」5つの条件
安全や効率、YES(ES)が鍵

私たちの生活に関わる多くの人工物が化学の力を借りて作られている。地球規模の様々な課題を抱えた人類が21世紀も幸せに暮らしていくためには、もっと化学の力を高め活用しなければならない。それには私が携わってきた金属触媒の潜在力をさらに引き上げていく必要がある。

最近よく「グリーンケミストリー」という言葉をお聞きにならないだろうか。簡単に説明すれば「化学物質による環境汚染を防止し、人体や生態系への影響を最小限に抑えることを目的にした化学」となる。私はそのカギとなる英単語の頭文字をとり、米オバマ大統領流に「YES」と定義している。それを少し解説しよう。

Yはイールド、つまり収率だ。生産性と考えてもいい。原料からできるだけ多くの生成物を得たいということだ。

次にE。これはエフィシェンシー、効率性だ。化学合成では手順が増えるほど最終的な生成物の量は減少していく。より少ない工程は大変重要だといえる。

そしてSはセレクティビティー、選択性だ。化学物質には分子式は同じでも構造が異なる異性体がある。これらは生体の中で振る舞いが全く異なり、一方は有用でも、もう一方の方が害になることがある。必要な方だけを作る選択性は大切な要件になる。

実はもう一つ「YES」を作ろうと考えていた。だが、なかなかYから始まる単語がなく、EとSをもう一つずつ加えて「YES(ES)」と唱えている。

付け加えたEは、エコノミカリー、つまり経済的にということだ。社会に貢献するためには、経済的に生産できなければいけない。

最後のSはセーフティー、安全性だ。人に害を及ぼすような元素や化合物を使ったり合成したりしてはいけない。

有機物を大きくグループに分けると、約10種類ぐらいになる。2種類の有機物をつなぐ反応は約100種となる。ノーベル賞の授賞対象となったパラジウムをはじめ金属触媒を活用するクロスカップリング反応はこの65~70%をカバーする。グリーンケミストリーの実現に大きく貢献し、これからもさらに発展していくと信じている。

さらに私どもがこれから追究したいテーマを3つ、ここで簡単に紹介しよう。

まず1つは、地球温暖化で悪者にされている二酸化炭素(CO2)を触媒を使って役立つ物質に変換する技術の開発だ。これは今、世界中の研究者が取り組んでいる。とてもホットな分野で、この研究でもぜひ貢献していきたい。

2つ目は炭素と炭素の「不斉合成」の技術だ。不斉合成とは、野依良治さんが米国のノールズ博士、シャープレス博士と一緒に2001年のノーベル化学賞を受賞した時に対象となった有機合成方法だ。「光学異性体」のうち、必要な方だけを合成する。まだ炭素―炭素結合の触媒的不斉合成法は初期的な段階にとどまっており、これをもっと発展させたい。

3つ目はカーボンナノチューブ、フラーレン、グラフェンなどに代表される電気的、光学的に優れた新物質の有機合成法の開発と応用と考えている。

化学の発展は無限だ。その取り組みは間違いなく人類を救うマジカルパワーになる。

(有機化学者)

根岸英一(25) 晩さん会

王女の隣席、会話弾む
平常心でスピーチ、充実感

ノーベル賞の授賞式と晩さん会が執り行われる12月10日。2010年のこの日の感動は、言葉では言い尽くせない。

コンサートホールでの授賞式は午前中にリハーサルを行い、昼食後に2時間余り格調高く繰り広げられる。じゅうたんが敷き詰められた舞台に王室と私たち受賞者、その後ろに審査員らが並び、物理学、化学、生理学・医学……の順にファンファーレが鳴り響く。各受賞者の業績の紹介後、カール16世グスタフ国王から1人ずつ賞を授与された。緊張するかと思ったが、さすがに年の功でそれは全くなかった。

日の暮れた夕方5時ごろ、隣の市庁舎で晩さん会が始まる。前夜にアタッシェのエクレフさんは、私とすみれに「3」と「5」と書かれたカードを渡し「一番ラッキーなカードをもらいましたね」と話した。晩さん会場の中央、一直線に並ぶ100近い席があるテーブルに向かい、緩やかで広い階段を上階から下りていく順番とお相手を示した数字だった。容易に想像できるように1は国王、2は王妃とのペアになる。3の私はビクトリア王女のエスコート役を拝命した。彼女の弟が4で彼女の夫君が5。すみれのエスコートとなられた。

晩さん会には千数百人はいただろう。私と妻はほかに最多12人までを招待できたが、娘2人の夫婦、すみれの兄の鈴木健次夫妻、パデュー大学長を含む関係者で枠を使い切ってしまった。大変な苦労の末、お世話になった4人を加えて総勢18人となった。会場では学生と思われる若者が給仕役となり、百数十人が軍隊調の指導官の笛を合図に一斉に動き出す。すばらしい味とともに忘れ得ぬ思い出として脳裏に焼き付いている。

食事が一段落していよいよスピーチの時がきた。物理学賞代表のガイムさんに続き私が演台に向かった。若い男性が「エイイチ・ネギシ」と極めて正確に私の名前を発音するのを聞き、台上で思わず「私のファーストネームを外国人がこれほど正確に発音するのは初めてだ」と話すと、会場が和んだ。約4分半、自分でも信じられないくらい平常心でスピーチを終えた。拍手のなかを自席に戻り、安堵と充実感に包まれた。

隣に座られたビクトリア王女とは1時間半ほど会話が弾んだ。世界の文化や経済、平和から私の専門の化学まで話題は尽きず、彼女の知識の広さと知性の高さに感服するばかりだった。思わず「週に何回ほど公式の会に出席されるのですか」と聞くと「5回でしょうか、6回でしょうか」とお答えになりびっくりした。続けて「その多くのイベントの中で、この晩さん会はどのあたりにランクされるのですか」と尋ねると、すかさず「1番です」と答えられた。改めて国を挙げてノーベル賞に強い関心と力を注いでいる事実を認識した。

準備と連日の行事で疲れの限界に達したのか、すみれが王女夫君の隣で居眠りを始めてしまった。事前に夫君が「授与式の時に少し居眠りをしていましたね。今夕は私がよほどつまらない男と思われるかもしれませんから寝ないでくださいね」と伝えていたが効果はなかった。晩さん会後、夫君に謝りにいくと「心配しないでください。私たちも時々うとうとすることはあります」と、ほっとするお言葉を頂いた。

(有機化学者)

根岸英一(24) 最高の10日間

受賞の記念行事、続々
講演で登壇、演奏会に感銘

2010年12月4日の夜中近く、ノーベル賞の受賞者をはじめとする主な参加者が宿泊する、ストックホルムのグランドホテルにチェックインした。この日から始まる10日間の滞在は、生涯最高の日々だったといえる。

翌5日はインタビューや写真撮影があったが、主に休養にあてがわれていた。6日にノーベル博物館を訪問し、新たな受賞者がゆかりの物を寄贈する手配から始まった。私は02年に出版した「有機合成のための有機パラジウム化学のハンドブック」を贈ることを約束した。館内のレストランで椅子に記名するのが恒例になっていて、私も座面の裏に白いマジックでサインした。

7日には宮殿を見学後、宮殿内にある図書館で物理学、化学、経済学の受賞者がそろって記者会見を開いた。私は恩師のブラウン先生に感謝する気持ちを表明するとともに、地球上の様々な問題の解決に有機合成化学が大きく貢献できると強調した。

8日は朝からストックホルム大学で記念講演が続いた。化学部門では、リチャード・ヘック・デラウェア大学名誉教授に続き私、そして鈴木章・北海道大学名誉教授の順に登壇した。

「私たちに必要な主な物は有機物でできている。ペンシルベニア大学の大学院生時代に『もっと簡単に有機物を合成できればすばらしい』と考え始めたのをきっかけに研究が始まった」。私はこう切り出して、クロスカップリング反応を開発した経緯や特色などを解説した。

講演を終えると聴講していた学生たちが私たちの周りに集まりサインを求めてきた。こんなにサインをした経験は初めてだ。鈴木さんもそうだったに違いない。

8日の夕食後、コンサートホールであった演奏会は、最も感銘を受けた行事の一つといえる。米インディアナ大音楽部出身で今、世界で指折りのバイオリニストに数えられているジョシュア・ベルさんをソリストに迎え、王立ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団が演奏した。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲では、第一楽章だけを十数分にわたり熱演した。終えた時には聴衆が立ち上がり拍手を送った。15分ぐらいは続いたと思う。全員が感動したひとときだった。

9日には日本大使館主催の昼食会、夕方からはノーベル財団主催のレセプションと続いた。翌10日はいよいよ授賞式と晩さん会を迎える。

実は5日の夜、アタッシェのエクレフさんから化学賞の受賞者を代表する、晩さん会用スピーチの原稿を手渡されていた。時間は3分。さっそく声を出して読んでみた。しかし3分たったところで数枚の原稿の半分も読み切れず、最初と最後の形式的な文言や感謝の部分を残して私なりに書き直すことにした。核心部分では、ノーベル賞を頂く栄光と感謝を述べた。そして次のように加えた。

「我々の研究活動はノーベル賞を目的としたものではなく、個人個人の知的探索、発見、展開を主目的としたものである。それが人類・社会の幸せに貢献し、さらにノーベル賞という最高級の賞につながることは望外の喜びだ。それが我々のさらなる知的活動の励みになることを感謝する」。そう述べたところでやっぱり4分は超えていた。

(有機化学者)

根岸英一(23) 受賞のとき

連日の講演や祝賀会
予期せぬ生活、驚きと感激

この連載のさなかの10月8日、山中伸弥・京都大学教授にノーベル生理学・医学賞が決まり、日本中に歓喜と大きな希望をもたらした。私も「問題はいつになるかだけ」と信じていた。受賞を心からお祝い申し上げたい。

山中教授は自身の研究成果について「まだ始まったばかり。大きな目標の達成はこれからにかかっている」と謙虚に話す。強い感銘を受けると同時にエールを送りたい。

もう一つ、山中教授が博士研究員として米グラッドストーン研究所で研さんを積んだことが重要な転機になった点に強く共感した。若いうちに日本を離れ、外から日本を見ること。さらに世界最先端、最高水準の研究者のもとで研さんする大切さを、声を大にして訴えたい。

2年前の私自身の最高の体験に話を戻そう。

10月6日の早朝、ノーベル賞授賞を知らせる電話が入ったことは初回に書いた通り。実はその10日ほど前、妙な電話が自宅にあった。

匿名の女性で「根岸先生は米国人ですか、日本人ですか、それとも中国人ですか」といきなり聞いてきた。「何を基準に決めるのですか」と聞き返すと「どこの国のパスポートをお持ちですか」という。「日本です」と答えると「ああよかった。ありがとうございました」で電話が切れた。ノーベル賞関係者の国籍確認と前向きに解釈した。

6日からは全く予期していない新しい歩みが始まった。文化勲章と文化功労者に決まり、天皇皇后両陛下と間近にお会いする機会を初めて得た。テレビからは得難い、非常にお優しく人間味のあふれるお人柄に深く感動した。

いったん米国の自宅に戻ると、英国のメディアと名乗る人物から「ノーベル財団から依頼された。晩さん会用のスピーチ原稿を作成するので取材したい」と申し込みを受けた。再び日本へ出発する前日の11月13日夜、彼はやってきて2時間近くインタビューを受けた。わずか3分のスピーチ用に念の入ったものだと感心した。

それから10分もたたぬ間に、ノーベル週間中、私たちの世話をしてくれるアタッシェになったと、スウェーデン外交官のスタファン・エクレフさんが電話をしてきた。選抜試験に合格しこの任務をつかんだという。強い北欧なまりの英語で、10日間にわたる諸行事を説明してくれた。電話を終えたのは夜中の1時頃。眠気と疲れを感じつつも、ノーベル財団の用意周到さに驚くばかりだった。

日本に着いてから約3週間は講演や祝賀会が続いた。中でもストックホルムへ出発する前夜、12月3日にスウェーデン大使館で開かれた祝賀会は圧巻だった。日本人ノーベル賞受賞者のうち江崎玲於奈さん、利根川進さん、白川英樹さん、野依良治さん、田中耕一さん、小林誠さんの6人が一堂に会し、受賞前の鈴木章さんと私を祝ってくれた。この時の歓談は忘れ難い。

この夜、大使夫人の親友のピアニスト、中村紘子さんも参加されショパンなどを演奏した。私はピアノにかじりつかんばかりに聴き入った。中学生だった中村さんがあるコンクールで、並み居る高校・大学生の中でただ一人特賞に輝き、リストのハンガリア狂詩曲を堂々と正確無比に演奏したことをまざまざと思い出したのだ。

(有機化学者)

根岸英一(22) 集大成の専門書

講演の合間、1000ページ執筆
研究のため特許は取らず

ドイツの「フンボルト賞」を受賞して欧州を講演旅行中、私は並行してもう一つ大きな仕事に取り組んでいた。かねて構想していた専門書の編さんだ。

正式な名称を「有機合成のための有機パラジウム化学のハンドブック」という。私とゲッティンゲン大学のA・デマイヤー教授が総括の編集者となり、この分野の代表的な研究者約150人の協力を得て、これまでのパラジウム触媒による有機合成反応を集大成しようと考えていた。

構成やテーマを検討しようと編集委員会の人選を進めていくと、日本の研究者が次々と決まった。京都大学から伊藤嘉彦、大島幸一郎、林民生3教授。さらに大阪大の村橋俊一、東北大の山本嘉則、群馬大の小杉正紀の3教授が加わった。結局、私を含めて編集委員10人中7人までを日本人研究者で占めた。

第2次大戦後の有機合成反応学界で世界をリードする代表的な研究者の中には向山光昭教授(東京工業大、東京大)や野崎一教授(京大)らとともに阪大の大塚斉之助、守谷一郎両教授らがおり、関西を中心に系譜がしっかりと継がれていた。村橋、山本両教授を輩出した守谷先生はブラウン教授が採用した最初の博士研究員でもあり、同じ師に学んだご縁を感じた。

皆さんがとても熱心に協力してくださった。提案をたくさんもらい、それらを全て盛り込んだ。ページ数は3300ページほどに膨らみ、2部構成になった。私は初めの2章とクロスカップリング反応を担当し、それだけで約1000ページある。講演で巡る大学には原稿がファクシミリで先に到着し、車窓から見る欧州の景色を楽しみながら列車の中で校正をして次の大学から送り返す日が続いた。

米大手出版社、ワイリーから2002年に発売された。高価な本だが、当時の書評は非常によかった。出版からもう10年がたつ。我ながらよいハンドブックを編さんできたと自賛している。

この頃になると、クロスカップリング反応の応用はどんどん広がっていった。医薬品や農薬の原料製造のほか、ディスプレーに使われる液晶や「エレクトロ・ルミネッセンス」という有機発光材料などの合成にも使われ始めた。開発した合成法が実用化され社会で役立つことは、研究者冥利に尽きる。

表彰も増え始めた。1996年に日本化学会賞を受賞したのを皮切りに98年には米国化学会の「有機金属化学賞」を、01年には英王立協会の「エドワード・フランクランド講演賞」を受賞した。

特許についても付け加えておこう。私はクロスカップリング反応で特許を1件も取得していない。ノーベル賞を一緒に受賞した鈴木章・北大名誉教授も同様で、クロスカップリング反応が産業界で広く実用化される大きな要因になったと受け止められている。

大学の担当部局が特許収入を当てにしていた節がないわけではない。しかし研究内容を特許申請すると、認められるまで論文を発表できなくなる。研究に遅れが生じれば、激しい研究競争で敗北を招く恐れがある。これは何としても避けたかった。私が取得した特許は帝人時代の5件と、パデュー大で企業の人に勧められて出した1件の計6件にとどまる。

(有機化学者)

根岸英一(21) 発見とは何か

10項目の条件考える
豊富なアイデア、特に重要

「その反応はどのように発見したのですか?」。パデュー大の教授に就き各地で講演していた時のこと。コロンビア大でのセミナーでR・ブレスロウ教授が突然質問した。

ジルコニウム触媒を用いた「アセチレンのカルボアルミ化」という新しい反応を発表したばかりだった。新反応を発見と呼んでくれたことは素直にうれしかったが、そこでハタと考えてしまった。

ある水準以上の発見が限りなく続いて有機合成化学の未来は切り開かれていく。新反応の発見は、有機化学者に課せられた最大の使命の一つのはずだ。それに関する質問に対し信念に基づいた即答ができないとは、大変ふがいないことではないか。

この質問に対する一義的な答えがあるなら、誰でも毎年あるいは毎月のように何かを発見してしまうだろう。新反応に限らず、発見はそう簡単ではない。あれこれ考え私なりの発見・発明の条件をまとめた。十数年前に日本の専門誌の巻頭言で初めて披露し、その基本は今でも変わっていない。それは10項目ある。

発見の大前提には「何が欲しいか」という(1)願望と「何を必要とするか」という(2)ニーズがある。そしてそれを目指す(3)作戦あるいは計画を立てなければいけない。

発見に向けて最も大切な項目は、ブラウン教授に学んだ(4)系統だった探索だ。ただしこれを進めるためには、知性的な側面から3つの項目が欠かせない。(5)豊富な知識と(6)豊富なアイデア、そして(7)正確な判断だ。

アイデアは計画の実現のために特に重要だと考えている。大学の研究で学生や博士研究員がアイデアを持ってきた時、私は必ず「ほかにどういうアイデアを考えているのか」と聞いている。少なくとも5~10個、望ましくは20~30個のアイデアを持ち、最良と思われるものを検討すれば、よい結果に結びつく確率は高くなるはずだ。

知性面以外にも必要な条件が2つある。探索に向けた(8)意思力あるいは意欲と、探索をあきらめない(9)不屈の行動力だ。私自身「エターナル・オプチミズム」という姿勢を貫いてきた。日本語に訳すと「永遠の楽観主義」になってしまうが、ここには絶対にへこたれないという意味合いが含まれている。

実際に実験を始めると、うまくいくことはほとんどない。では何回、失敗を続けられるのか。私は思ったような結果が1カ月出なければ、いったん棚上げする方針を決めている。別のテーマに取り組んでいるうちに、失敗した実験がだんだん客観的にとらえられるようになる。違う視点から別のアイデアが浮かび、再挑戦する。それを繰り返してきた。

発見の条件の10番目の項目は「セレンディピティ」だ。スリランカの3人の王子が思いがけない発見をする昔話に基づくこの才能は、最近とても重要視されている。しかし私は最後に置いた。多くの場合にセレンディピティがなくとも発見は可能と考えている。中心はあくまで、系統だった探索だと確信する。

テレビ番組でこの発見の条件を話したら、音楽家の松任谷由実さんが見ていて感激し、対談に招いてもらえた。私も感激した。

(有機化学者)

発見の10項目