発展と巨大な代償 ~中国共産党の歴史~

現代世界の歩き方(13)
東工大講義録から

中国共産党の党大会は5年に一度開かれます。今年の秋に、その党大会が開かれ、現在の胡錦濤総書記が引退。後任に習近平氏が就任する予定です。

■9人が13億人を動かす

中国の人口は13億人。この中国を統治する中国共産党の党員数は8260万人です。

党の方針を決める大会が5年に一度しか開かれないということは、大会は単なるセレモニーであることがわかります。実際の党の運営は、党員から選ばれた中央委員会が行うのです。ところが、この中央委員会も年に一度しか総会が開催されません。そこで、さらに上の中央政治局が実権を握ります。中央政治局の委員は25人。しかし、25人では数が多すぎて、迅速な意思決定ができません。そこで、この25人のうち9人が常務委員となって日常の方針を決定しているのです。

13億人の国民をたった9人が統治する構造です。中国の国内政治に詳しい遠藤誉さんは、自著の中で、これを「チャイナ・ナイン」と名づけました。

この9人にも序列があります。トップはもちろん胡錦濤総書記。総書記は国家のトップである国家主席にも就任します。2番手は呉邦国氏、3番手が温家宝首相です。胡錦濤国家主席と並んで温家宝首相がよく表に出てきますから、温家宝氏がナンバー2かと思いきや、実はナンバー3なのです。

呉邦国氏は全国人民代表大会常務委員長。日本でいえば衆議院議長のような立場です。全国民の代表が集まるのが全国人民代表大会であるという建前ですから、そこのトップが国家主席の次に高いポストに位置するというわけです。実際は名誉職に近い存在です。

今年秋の党大会で、9人のうち7人が引退します。中国共産党の常務委員には定年制があって、68歳を超えている人は引退する慣習になっているからです。

残る2人は、序列6位の習近平氏と7位の李克強氏。そこで、習氏が総書記となって来年春の全国人民代表大会で国家主席に就任し、李氏が首相になるだろうと見られています。

さらに、残り7人の枠に誰が入るのかに注目が集まります。ただ、常務委員9人の枠は、かつては7人だったので、この数に戻すべきだという主張も党内にはあるようです。もしそうなると、「チャイナ・セブン」になりますが。

中国共産党の内部にも派閥があります。大別して「太子党」と「団派」です。

太子党の「太子」とはプリンスのこと。つまりは二世です。親が共産党や軍の幹部だったことで出世した人たちが太子党と呼ばれます。習近平氏は、父親が元副首相であり、そのつながりで父親の友人たちの幹部によって引き上げられてきましたので、太子党に色分けされます。

これに対して団派の「団」とは共産主義青年団のこと。共産党の青年組織です。若くして共産主義青年団での活動ぶりが評価されて共産党に入党。そこで着実に実績を積み重ねて出世した人たち。つまりは実力派です。胡錦濤氏も温家宝氏も、このタイプです。李克強氏も団派で、胡氏は李氏を自分の後継者にしようとしましたが、太子党に抵抗され、李氏は序列で習氏の下になったといわれています。

■「事実上の」一党独裁

中国は中国共産党による「事実上の」一党独裁と表現されます。なぜ「事実上」という言葉がつくのでしょうか。それは、建前として共産党以外に8つの「民主党派」があるからです。

「一党独裁ではない。共産党以外に8つも党がある」というわけです。共産党はこの8つの党と共に政治を進めています。8つの政党は政治に参加する「参政党」だというのが中国の言い分です。

ところが、これら8つの政党はいずれも綱領に「共産党の指導を受ける」と明記しています。他の政党の指導を受けるような党は独立した党とはみなされませんから、「事実上の」一党独裁と表現するのです。

他の政党は設立すら認められていません。たとえば、1998年3月に結成された「中国民主党」の場合、米国のクリントン大統領の訪中に合わせる形で創設されましたが、クリントン大統領が帰国後、全員逮捕されてしまいました。

中国共産党はあらゆる場所に存在しています。役所はもちろん、新聞・放送などマスコミの中にも共産党の組織があります。中国の各大学にも共産党の支部があり、ここの支部長は大学の学長より序列は上なのです。

あなた方は、学会のセミナーなどで中国の大学を訪問することもあるでしょうが、表に出て来る学長より表に出て来ない共産党支部長の方が力を持っているのです。

■上海で生まれた中国共産党

これだけ巨大な組織に発展した共産党でも、発足時は小さな秘密結社のような存在でした。

中国共産党が設立されたのは1921年7月のことでした。上海の高級住宅地の一角を借りて、中国共産党の第1回大会が開かれました。このとき党員は全国にわずか53人(57人の説も)でした。このうち代表12人が出席しました。毛沢東氏もそのひとりでした。

当初は、世界革命をめざすソ連共産党の指導を受けたコミンテルン(世界共産党)の中国支部として発足しました。ちなみに日本共産党の発足は翌年のことです。

中国共産党は五四運動の盛り上がりの中から生まれました。1919年、山東半島を支配していたドイツが第1次大戦で敗北します。中国の人たちは、「これで領土が中国に戻る」と期待していましたが、日本のものになってしまいます。これに抗議する学生たちが立ち上がったのが5月4日。なので「五四運動」と呼ばれます。帝国主義列強による植民地支配に反対する五四運動の盛り上がりの中から共産党が生まれました。当時の運動の中心は学生を中心とした都市部のインテリでした。インテリの党として発足したのです。

■8万6000人の逃避行

モスクワのコミンテルンは、中国の事情に疎いまま、ロシア革命の方式を中国共産党に押しつけます。1927年、コミンテルンの指示を受け、中国共産党は武装蜂起を試みますが、国民党軍により壊滅させられます。これを見た毛沢東氏は、さっさと山岳地帯に退避します。都市部で武装蜂起しても勝ち目がないと悟った毛沢東氏は、農村に革命の根拠地を建設するのです。「農村が都市を包囲する」というゲリラ戦略を確立しました。

その後、1929年、新たな根拠地を建設しますが、国民党軍に敗れ、逃避行を始めます。これは後に「長征」と呼ばれます。8万6000人が1年にわたって実に1万2000キロメートルも逃げ回ったのです。最終的に山岳地帯の延安に到着したときには、8000人にまで減っていました。ここに革命根拠地を築きます。

長征の途上で毛沢東氏が共産党のトップに立ち、周恩来氏が毛沢東氏に忠誠を誓いました。

革命根拠地の中で、毛沢東氏は自己の権力を確立させるため、1942年には「整風運動」を発動します。数千人の党員を処刑したのです。こうして1943年5月、毛沢東氏は中国共産党中央委員会主席に就任しました。現在は総書記ですが、当時は主席という呼び名でした。

1945年8月、日本が第2次世界大戦で敗北し、日本軍が中国大陸から引き揚げると、中国では蒋介石率いる国民党と毛沢東の共産党が内戦に突入します。国共内戦です。

この内戦で共産党が勝利し、中華人民共和国が建国されました。

1949年10月1日、天安門に立った毛沢東氏は中華人民共和国の成立を宣言します。中国の国旗は五星紅旗です。大きな星は共産党、4つの小さな星は労働者、農民、知識階級、愛国的資本家を象徴しています。共産党が主導することが国旗に表現されているのです。

■70万人の「反革命分子」

中国が建国されると、直ちに70万人が「反革命分子」として公開処刑されました。処刑されないまでも、「思想傾向が悪い」と判断された人間は、強制労働収容所(労改)に入れられました。この制度はいまも存在しています。共産党に逆らうとひどい目にあうということを国民に徹底したのです。

建国後の中国では戸籍制度が導入されました。全国民の戸籍を都市戸籍と農村戸籍に分けたのです。農村に生まれた人は農村戸籍となり、都市に住むことができなくなりました。膨大な農村人口が都市に集まって来ることを毛沢東は恐れたからです。

また、人々は所属する「単位」で管理されます。全国民ひとりひとりについて「档案(とうあん)」という身上調書が作成されます。先祖が貧農であったか資本家であったか、「出身」が記録されています。「出身が悪い」つまり資本家であったりすると、出世できなくなるという状態が続くことになったのです。

建国後の中国では、指導者・毛沢東によって国民が翻弄される事態が続きます。その最初は、1957年2月の「百花斉放・百家争鳴」運動でした。これは、国民に対して、共産党の間違いに対して自由に批判しなさいと呼びかけたものでした。

これを真に受けて、共産党を批判した人たちには大変な仕打ちが待っていました。

4か月後の6月、毛沢東氏は突然、「反右派闘争」を開始します。共産党を批判した人たちを「右派」と断じ、徹底した批判を浴びせたのです。右派とされた人たちは職場を追われ、投獄される人たちも相次ぎました。全国で55万人が右派とされて職場を追われ、うち11万人が投獄されました。

毛沢東氏が、「右派は人口の5%程度だろう」と発言したことから、職場によっては、無理やり機械的に5%の人間を選び出して解雇する事態にまで発展しました。

これ以降、人々は共産党や指導者のことを批判できなくなってしまいました。間違いが正せなくなることで、中国にはさらに巨大な悲劇が襲います。「大躍進政策」の失敗です。

1958年、毛沢東氏は「大躍進政策」を開始します。東西冷戦が激化する中、中国の兄弟国家であったソ連は、「米国に追いつき、追い越せ」をスローガンにしていました。ソ連より経済力で劣る中国は、米国より経済力の小さい英国に「追いつき、追い越せ」を目指しました。

■「大躍進政策」の悲劇

英国は鉄鋼生産で世界有数の能力を誇っていました。英国に追いつくには、鉄鋼生産を拡大することだと毛沢東氏は考えたのです。全国の農村地帯で、鉄鋼生産を義務付けました。

技術力のない農村部で、農民手製の炉を使っての鉄鋼生産が繰り広げられました。品質のいい鉄などできるわけもなく、生産物は使い物になりませんでした。炉のための燃料として森林伐採が進み、中国の農村部から森林が消えていきます。

農業の生産性を向上させるためといって、中国では人民公社の設立が進みました。農地はみんなのものであり、みんなで生産し、みんなで食事するという集団農場でした。

しかし、「みんなのもの」は、誰のものでもなくなります。農業は自然相手。雨や風、霜などに備えての24時間労働の側面がありますが、農民たちはサラリーマン化して、時間外労働はしません。生産性が低下しました。

さらに農民たちは鉄鋼生産に夢中になったものですから、農業生産は一段と低下したのです。

また、素朴な階級闘争論を農業に当てはめました。「労働者は団結して資本家と階級闘争を戦うのだから、同じ階級の植物も協力して成長するだろう」と考え、稲の密植が奨励されました。

稲を密植すれば、風通しが悪くなり、水も栄養も足りなくなります。稲の生産量が激減するのです。

また、稲の大敵である雀(すずめ)を退治しようと、全国で人海戦術が展開されました。これは成果を上げ、雀が姿を消しました。結果は、害虫の大発生でした。害虫を食べていた雀がいなくなったからです。

こうして農村部の極度の食糧不足に陥りますが、地方の幹部は、毛沢東氏の指導に従わなかったとして処罰されるのを恐れ、中央には「大豊作」というウソの報告を上げました。

この結果、1959年から飢餓が始まります。全国で4300万~4600万人が死亡したと推定されています。とてつもない悲劇でした。

「百花斉放・百家争鳴」で、共産党や政府を批判した人たちが投獄されただけに、人々は「大躍進政策」の失敗を報告できず、被害が広がったのです。

しかし、さすがに餓死者の激増が問題になり、毛沢東氏は責任をとって、国家主席の座を劉少奇氏に譲りました。しかし、国家主席の座は譲ったものの、権力の源泉である共産党主席は保持し続けました。

劉少奇氏は、トウ小平氏と共に、疲弊した中国経済の立て直しに成功します。こうなると、毛沢東氏が保持していた共産党主席の座も危うくなります。劉氏、トウ氏に対する憎しみが芽生えます。

■文化大革命という名の権力闘争

当時、毛沢東氏に次いでナンバー2だった林彪氏は、後継者の座を狙い、毛沢東氏へのごますりを始めます。毛沢東氏の発言などをまとめた『毛沢東語録』を発行し、毛沢東氏の神格化を進めたのです。

毛沢東氏を取り上げる時、国営メディアは、「偉大な指導者」「偉大な教師」「偉大な統帥者」「偉大な舵(かじ)取り」の4つの形容をつけるようになったのです。

毛沢東氏は、この個人崇拝の動きを利用します。共産党主席の座を守り、失われた国家権力を奪回するため、共産党の外の勢力を利用したのです。こうして引き起こされたのが、「文化大革命」でした。

1966年6月、清華大学付属中学校(日本の高校に当たる)の生徒たちが、体制を批判する壁新聞を貼りだし、自らを「紅衛兵」と名乗りました。「紅」つまり共産主義を守る衛兵と名乗ったのです。

8月、毛沢東氏は生徒たちに「造反有理」の言葉を贈ります。「造反することはいいことだ、意味がある」という意味でした。これが報じられると、全国各地で、若者たちが紅衛兵を名乗り、体制批判や共産党幹部に対する批判を始めます。「いまの体制は、革命の精神を忘れて堕落した。新たな革命が必要だ」というものでした。

『毛沢東語録』を振りかざした若者たちは、街に繰り出し、街を「革命化」します。北京の銀座と呼ばれる「王府井大街」(ワンフーチン)は「人民路」へと改名させました。

成都の「陳麻婆豆腐店」は「文勝飯店」(文化大革命の勝利)という名前にされてしまいました。

女性のパーマは「ブルジョア的だ」とされて、パーマ姿の女性たちは街中で髪を切られてしまいます。また、スカートはズボンにさせられました。

紅衛兵たちは宗教を一切認めず、寺院は破壊されました。

信じられない行動にまで出ました。交通信号の赤が止まれの印であることに文句をつけたのです。「赤は共産主義の色であり、前に向かって進めという意味だ。赤で止まれはおかしい」と主張し、交差点の赤信号で止まらないように指示を出します。このため交通事故が相次ぐようになりました。

これにはさすがに困った周恩来首相が、「赤は止まれは国際的なルールなのだから守るように」と指示を出して、ようやくおさまりました。

共産党の古参幹部たちは、「堕落した」と紅衛兵たちから糾弾されます。毛沢東氏に批判的だった幹部たちは、次々に投獄され、あるいは自殺を強要されました。こうして毛沢東の権威が再び高まり、奪権闘争に勝利します。毛沢東氏の完全な独裁が完成します。

毛沢東氏は奪権闘争に勝利すると、紅衛兵たちが邪魔になります。各地で勝手な行動をとり、国家の統治に支障を来すようになったからです。そこで毛沢東氏は、「知識青年は農民に学べ」と号令をかけます。「大学生や高校生のようなインテリは頭でっかちだから、農民たちから真の革命精神を学べ」という趣旨でした。実際は、体のいい地方への追放でした。この結果、都市部から2000万人の若者が地方の農村部に追いやられました。これを「下放」といいます。

文化大革命時代、学校はほとんどすべてが閉校となり、当時の若者たちは勉学の機会がありませんでした。読み書きを覚えることなく成長した人も多く、現在の50代以上の年齢の人たちは、「失われた世代」と呼ばれることもあります。

1976年9月、毛沢東氏の死去で文化大革命は終息しました。しかし、この間に300万人が投獄され、50万人が処刑されたというデータもあります。毛沢東氏の奪権闘争は、とてつもない被害をもたらしたのです。

とりわけ文化大革命後期には、「批孔」つまり孔子=儒教思想を徹底的に批判しました。礼儀作法を守ることは「ブルジョア的だ」と批判されました。これによって、中国の人たちの社会的モラルが大きく損なわれたとの指摘もあります。

■毛沢東「7分の功績と3分の過失」

1977年になると、毛沢東氏によって迫害され、地方に追いやられていたトウ小平氏が復活します。共産党の副主席つまりナンバー2で、中央軍事委員会主席の座を確保します。国家の要職には就かず、共産党の軍隊である人民解放軍を指導・監督する中央軍事委員会主席として、中国の最高指導者になるのです。

毛沢東氏亡き後、共産党は毛沢東氏の功績について、「7分の功績と3分の過失」があったと評価しました。中華人民共和国を建国したのが「7分の功績」で、大躍進政策と文化大革命で多数の死者を出し混乱させたことが「3分の過失」に当たるというのです。「毛沢東の党」であった以上、過失を厳しく追及することはできなかったのです。

その結果、いまになって、毛沢東時代を懐かしむ人たちが出て来ています。どのような「過失」を引き起こしたのか、中国の歴史教科書ではほとんど扱っておらず、革命運動ばかりが教えられるため、貧しくても平等だった当時に憧れるというわけです。

最近になって失脚した重慶市の共産党書記だった薄熙来氏は、毛沢東時代の革命歌を歌うキャンペーンで人気を高めましたが、文化大革命の暗黒時代を体験している胡錦濤国家主席や温家宝首相が激しく嫌悪。これが薄失脚の一因にもなりました。

実権を掌握したトウ小平氏は、1978年には日本を訪問し、発展した日本経済を見て、中国経済の立て直しを進めます。徹底した実利主義者の彼は、社会主義のイデオロギーにとらわれることなく、資本主義経済を大胆に導入します。「改革開放政策」です。先に豊かになれる地方から豊かになればいいとも主張しました。これが「先富論」です。こうした経済政策は「社会主義市場経済」と名づけられました。要するに、政治は共産党、経済は資本主義、というものでした。

また、農村地帯の人民公社を解体します。農家は生産した農産物を自由に処分できるようになり、農業生産性は飛躍的に向上。食糧不足が解消しました。

■天安門事件が起きた

経済が発展してくると、人々は自由に発言を始めます。政府や共産党による言論統制に不満を持った学生たちは、民主化運動を始めます。この運動が弾圧されたのが、1989年6月の天安門事件です。

この年の5月、当時のソ連のゴルバチョフ書記長が訪中するのに合わせて世界のメディアが中国に集まります。世界のメディアの監視下なら共産党も勝手なことはできないだろうと考えた学生たちが、天安門広場に泊まり込み、民主化を求めました。

しかし、トウ小平氏はこれに激怒。軍隊を使って学生たちの運動を弾圧しました。

トウ氏は若者たちの行動を見て、「愛国心が足りない」と判断。江沢民氏を共産党の総書記兼国家主席に据えて、「愛国教育」を徹底させます。実際は「共産党を愛そう」というキャンペーンでした。

中国共産党は反日運動の「五四運動」の高まりの中から生まれ、日中戦争の中で勢力を拡大しました。つまり、「共産党を愛そう・尊敬しよう」というキャンペーンは、結果的に「反日教育」になっていったのです。

こうして中国には反日的な若者が増えることになりました。共産党の過去の都合の悪い歴史は教えず、功績だけを称(たた)える。この手法が使われ続けているのです。

日本から見ると、よくわからないことが多い中国。過去にこんな歴史があり、それが、いまの中国を形成しているのです。

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いけがみ・あきらジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。近著に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。62歳。

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