今井敬(10) 大増産

鉄鉱石求め、世界を行脚
ペルーでは銃口向けられる

1958年4月1日付で、本社購買部鉱石課の国内鉱石掛長になった。国内の鉄鉱石や、高炉で銑鉄を造るのに使う石灰石を購入するのが仕事。鉄鉱石は北海道や東北が主産地で石灰石は秩父、秋吉台、津久見、高知など全国いたる所にある。そうした産地をほぼ全部見て回った。

すでに粗鋼生産は55年に1000万トン、60年には2200万トンと急増する。一方、国内の資源は鉄鉱石、砂鉄など300万トンほどで、減少の一途。増産に見合う原料調達を海外に求めざるを得ない。それでも60年ぐらいまではスクラップを大量に使う平炉が中心だったので、鉄鉱石は1500万トン程度の輸入で何とかなった。調達先はマレーシア、フィリピン、インド、米国・カナダの西海岸などだった。

ところが製鋼工程の効率を高めるため、銑鉄を主原料とする転炉が普及しだすと発想を変えなくてはならなくなった。1回のチャージに平炉は何時間もかかるのに、転炉は20分ぐらいで済む。粗鋼の増産対応で平炉から転炉に急速に切り替わっていった。61年3月に外国鉱石掛長になった私はブラジル鉱山開発の交渉役になり、またオーストラリアの山を見て回るのだが、まずインドと海運の話をしたい。

インドに神戸製鋼所の浅田長平さんを団長とする技術調査団が派遣されたのは57年のことだ。戦争で壊滅状態だった日本の海運業界は計画造船で53年から鉄鉱石を運ぶばら積み貨物船を建造。船型は1万2千トン、58年までに1万5千トン、59年からようやく2万トン台になった。このクラスで経済的にピストン輸送できる場所として、インドの山がいいということになった。

総勢31人の浅田ミッションは北東部のルールケーラー、中部のバイラディラを見学、翌58年に富士製鉄の永野社長をトップに使節団が訪印、年間200万トンを10年契約し、70年までに数量を年400万トンに倍増させるという基本合意ができた。港はベンガル湾に面したビシャカパトナムで、2万5千トンの船が接岸できるという条件。これは後に10万トン船が入港可能と改められ、日本輸出入銀行から700万ドルの開発資金が供与された。インドの鉱山開発は円借款第1号といわれる。

ところが、インドは当時、社会主義的な体制で官僚のセクショナリズムもあり、開発は遅れに遅れた。私は74年に小さな車に乗り、片道12時間かけてバイラディラ鉱山を見に行った。山自体は立派だと感心したが、大型港はまだ建設中。鉄鋼業界は「これでは増産に対応できない」と、さらに遠方に原料を求めた。

まずペルー。ここには米国資本によるマルコナ鉱山があった。チリでは三菱グループがアタカマ鉱山を開発していたほか、ユダヤ系資本や米鉄鋼メーカー所有の鉱山もあった。60年代前半、日本の鉄鋼業が高炉建設競争を繰り広げていたとき、太平洋の反対側の鉱山から苦労して原料が運ばれたわけだ。

私自身、やはり74年にペルーとチリを訪れた。ペルーは政情不安に陥っており、リマで空港から車で移動中、兵士に停止を命じられ、銃を突き付けられた。チリのサンティアゴでは1年前のアジェンデ側とピノチェト側との銃撃戦跡がホテルの柱に生々しく残っていた。
(新日本製鉄名誉会長)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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