今井敬(7) 富士製鉄入社

鉄屑掛に配属、輸入担当
「ソロバンの縁」で職場結婚

1951年9月にサンフランシスコ平和条約が結ばれた。当時、長兄・善衛は、大使館開設準備のため、アメリカ勤務だったので、あらかじめ名刺に、八幡製鉄の稲山嘉寛常務と富士製鉄の永野重雄社長あての紹介文を書いていてくれていた。

9月はじめ、駒込の下宿から都電に乗り、日本橋まで来て、「さてどっちから行くか」と考え、ふらりと富士の本社へ向かった。すると武田豊秘書課長が出てきて、社長に会わせてくれるという。永野さんは「筆記に受かったら、口頭試問は面倒みてやろう」と一言。じゃあ富士を受けるかと腹が固まった。

試験は東京・本郷の東大構内であり、800人ほど論文試験などを受けた。事務系80人を採用、その1人として合格した。余談だが、八幡と富士の資本金がそれぞれ8億円、4億円で富士は八幡の半分というのは入社後知った。八幡は成績優秀者が多いから、八幡を受けていたら落ちていたかもしれない。

採用決定後、入社前に姫路にある広畑製鉄所へ見学に行った。広畑は旧日本製鉄時代に建設され、戦後は賠償に充てられる予定だったが、結局差し押さえ解除となり、50年の集中排除法による日鉄分割後は富士が引き受けていた。1年先輩の渡辺秀男さんが案内してくれ、鋼板の巻き取りスピードが「特急つばめより速い」という新設の製造設備に驚いた。

入社後、本社購買部原料課鉄屑掛に配属になった。後で知ったが、どうも面接を担当した田部(たなべ)三郎さんが引っ張ってくれたらしい。田部さんは原料一筋、「石炭をなめれば、どこ産だかわかる」と豪語した人だ。

このころの製鉄法は製鋼の工程で平炉を使っていた。まず高炉で銑鉄を作り、これと鉄くずを平炉に入れて粗鋼を製造する。今の転炉では85%が銑鉄だが、平炉は銑鉄4に対し鉄くず6の割合。鉄くずが主原料だった。高炉メーカーは八幡、富士、日本鋼管の3社だけ。高炉3社が20社ぐらいある平炉メーカーに銑鉄を売っていた。一方、鉄くずは国内の発生がまだ少なく、輸入が多かった。おもに東南アジアからで、インドシナ(当時)、マレーシア、香港などだ。私は富士でその担当をやった。政府が外貨を割り当て、商社がオファーを持ってくる。それを鉄鋼各社が作った原料委員会の課長会で入札のような形で購入していた。

スクラップの集積場は東京・越中島と豊洲にあり、トラックで搬入していた。購入量は行きと帰りのトラックの重さを量り、その差で決める。ところがトラックが来ると秤量(ひょうりょう)機の下にこっそり入り、機械にぶら下がって体重分だけ重さをごまかす業者がいた。スクラップは当時1トン当たり2万円はした。体重60キロとしても1回1200円ぐらいのもうけになる。私の初任給が月9000円ぐらい。1200円は4日分の給料で、「割のいい商売だ」と思ったものだ。会社は監視を厳重にし、懸命に被害を抑えた。

53年12月、原料課の同僚で3つ年下の康恵と結婚した。鉄くず購入のための請求書を経理部審査課に持って行くと、鬼軍曹のような人がいて、端数が合わないと突き返される。計算合わせを手伝ってくれたのが康恵だった。彼女はソロバンが得意で、今は経済誌を愛読している。
(新日本製鉄名誉会長)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。