ポーター著「競争の戦略」

(1)出版30年、今なお影響力-経済学の理論が支え

1980年に出版されたマイケル・ポーターの著作「競争の戦略」は、経営戦略論を代表する1冊です。企業の経営環境は目まぐるしく変化しており、多くの経営書は数年もしないうちに賞味期限が切れます。なのに、なぜ「競争の戦略」は出版から30年以上たった今でも経営戦略論の中心にいられるのでしょうか。

その理由は「競争の戦略」が経済学に根差している点にあります。ミクロ経済学に「産業組織論」という領域があり、独占禁止政策の理論的根拠となっています。平たく言うと、独占やカルテルによってどのように超過利潤が発生するかを特定するための理論です。

この理論を逆手に取れば、独禁法に抵触しない方法で疑似的に独占的な状況をつくり出し、利潤を上げられる可能性があります。経営学でいう「競争優位」とは、まさに独占に近い地位を特定領域で築くことです。

ポーターはまず、「5つの力」という概念をもとにした業界構造分析を通じて、競争優位をつくれる状況にあるかどうかを判断します。そのうえで、どのような基本戦略を選ぶべきかを定めるというアプローチをとります。「5つの力」などの枠組みはすぐには陳腐化しにくい経済学の理論を支えにしているため、彼の「競争の戦略」は今でも影響力があるのです。

ポーターは、96年の論文で「日本企業には戦略がない」と批判しています。日本企業は、横並びで混み合った市場に参入するケースが目立ちます。そうした市場で同質的な競争を繰り広げ、結果的に利益率も低く、それでも撤退しない事例に事欠きません。

「競争の戦略」に象徴されるポーターの理論は「ポジショニング」学派とも呼ばれます。市場で独自の位置を築いて利益率を高めるというのがポジショニングの考え方です。米アップルと韓国サムスン電子の挟み撃ちにあっている企業は今こそ、ポジショニングを再検討すべきでしょう。

(2)競争左右する「5つの力」-適切なポジショニングの指針に

マイケル・ポーターの「競争の戦略」第1章の冒頭に登場するのが「5つの力」という枠組みです。企業の利益性は、競争環境の厳しさに影響を受けるというのが、ポーター理論の土台にある産業組織論の考え方です。その競争環境を分類したのが、「5つの力」と呼ばれる競争要因です。

1つめの力は新規参入の脅威です。魅力的な市場でも、次々と参入者が現れて供給能力が増え、価格競争に陥ってしまうと、利益性は低下します。そのため、参入障壁の存在が重要となります。

2つめの力は業界内の競争関係です。過当競争の結果、誰かが撤退すれば競争は緩やかになりますが、撤退障壁がある場合、過剰な供給能力が残り、値崩れによって利益性が低下します。

3つめの力は代替製品からの圧力です。業界内の競争が緩やかでも、同じような機能の商品が台頭すると、需要を奪われるため値下げで対抗せざるを得なくなります。

4つめの力は買い手の交渉力です。売り手が多数で、買い手が少数という場合、需給のバランスからみて、買い手の価格交渉力が高まります。

逆の場合、売り手の価格交渉力が高まります。原材料生産者が少ない場合などがこれに当たります。これが5つめの力、売り手の交渉力です。

こうした要因を理解して、競争環境の緩やかな場所にポジショニングすれば、資本コストを上回る利潤を上げることが可能になります。逆に、同質的な過当競争に巻き込まれやすい場所に陣取ると、もうかりにくくなってしまいます。

ポーターはポジショニングこそが戦略と主張しました。しかし、現代の経営環境では安泰なポジションを長期的に守ることは困難です。ポジショニングは必要条件として大前提にあるものの、それを守る上で必要な組織的な能力を築くことが、高い利益性を実現するための十分条件になるというのが、現代の戦略論の要諦です。

(3)3つの基本戦略-複数追うより、一つを貫く

マイケル・ポーターの「競争の戦略」で有名になったものとして「5つの力」のほかにも、「3つの基本戦略」があります。企業戦略は自社を取り巻く競争要因に応じて異なるので、唯一の正解はありません。しかし、ポーターは競争相手に打ち勝つ方法は3つのパターンに大別でき、おのおのに一貫した原理があると示しました。

1つめの基本戦略はコストのリーダーシップです。コスト面で優位であれば、競争が厳しくなっても、自社の利益性は相対的に守られるのです。ただし、コスト・リーダーシップは技術変化や新規参入などの環境変化のリスクに弱いともポーターは指摘しています。

2つめの基本戦略は差別化です。製品機能やイメージなどで特長があれば、相対的な高価格が維持でき、同質的な競争も回避できます。この戦略でも、極端な低価格攻勢や、模倣をする競合に対しては、優位を守れなくなるリスクがあります。

3つめの基本戦略は集中です。特定の市場に経営資源を集中して優位を達成すれば、その分野への新規参入は限定され、利益性が守られます。集中戦略は市場を限定するので、全体的に大きなシェアをとれるわけではありません。また、ターゲットとする市場の特異性が薄れれば、全体の市場で優位に立つ企業との競争に巻き込まれます。

3つの基本戦略のどれも満たしていない場合、厳しい競争に巻き込まれ、利益率を低下させます。どれかを満たしていることが、地位を守る上で必要です。

3つの基本戦略の複数を同時に追求するのは難しいとポーターは言います。特に、市場が成熟すると、一貫性のない戦略では競争できなくなります。かつて日本企業は「いいものを安く」で海外市場を席巻しましたが、より低コストのアジア企業が台頭して苦戦を強いられています。どれか1つに基本戦略を絞らない限り、窮地からの脱出は難しくなっています。

(4)業界内部の構造分析-模倣し難い能力確立を

ポーターの「競争の戦略」では、競争業者の分析や、業界内の戦略グループ分析についても多くのページ数を使って説明しています。戦略は自社だけが立てているわけではありません。同業のライバルも戦略を立てていますし、自社の戦略に反応して他社が戦略を変えることもありえます。

特に避けなければいけないのは、自社が価格面の優位を追求するコスト・リーダーシップ戦略に出ようとしても、他社が同様の対応をしてくることです。泥沼の価格競争への突入をどう回避できるのか検討すべきです。

そこでポーターが紹介しているのが、業界内部の構造分析です。主要な競争業者を、戦略の特徴が類似している者同士に分類して、いわば業界内のポジショニングの違いを分析するのです。

いつからその業界に参入しているのか、もともとどのような技術や原料に立脚していたのか、企業グループ内の他事業とどのような関係性があるのかなどを基に戦略グループを分類します。

それら戦略グループの間には、多くの場合、移動障壁があります。その事業に参入した経緯や背景が違えば、経営資源の量や質も異なることになり、他の戦略グループに移動することが難しいためです。

ポーターは企業の能力や資源の要素についても、移動障壁という表現を用いて言及しています。業界内で特定の企業群が他に比べて高い収益性を持続させている場合、その戦略グループの企業群は非常に強力な移動障壁を持っているとポーターは表現します。

強力な移動障壁とは何かというと、模倣の難しい能力を確立できていれば、その戦略ポジションには他社が容易には移動してこられないということです。

移動障壁となるような能力があれば、同質的競争に陥らずに済むのですが、なかなかそうはいかないのが、現実の競争の厳しいところです。

高層マンションに住むだけで流産する確率が上昇する?

80年代のバブル景気や90年代のITバブルの時、成功者たちは先を争ってタワーマンション・高層マンションに住居を構えた。より高い場所に住むのがセレブ、成功者の証であると考えられていたのだ。テレピCM、広告でも抜群の眺望・高級感を繰り返し喧伝している。だが、その高層マンションに住む住民たちを襲う不気味な症状についてご存知だろうか。

2005年、東海大学医学部の逢坂文夫氏が興味深い研究結果を発表している。
「高層マンションに住む女性を調査したところ、なんと4割近くに流産や死産の経験があることが判明した。また性格的に緊張しやすい女性においては、3人中2人が流産・早産の経験があることが判明した」というのだ。

この事実は、逢坂文夫氏の著書『コワーい高層マンションの話』(宝島社)の記述に詳しいのだが、『高層マンションに住む、33歳以上の女性のうち約7割が流産の経験がある」という恐るべきデータも公開されているのだ。

ちなみに、この高層マンションの恐怖は、21世紀に入ってから言われ始めたことではなく、1994年に作成された「厚生省心身障害研究平成5年度研究報告書」に集録されている論文「住居環境の妊婦に及ぼす健康影響について」の中で、公表されている事実である。つまり、予測されていた症候様であったのだ。

この「超高層ビル症候群」は、肉体に苦痛を与えるだけではなく、精神にも悪影響を及ぼすという。ストレスを生じさせ欝病を発症したり、子どもが他人との関係性をうまく構築できず不登校や引きこもりになったり、自殺願望や対人恐怖症まで芽生えるという。また、犯罪の発生率が増え、近所同士の助け合い活動が減るといった人間のコミュニティそのものにも良からぬ影響を与えているということが過去に報道されたこともあった。

ところがここ2、3年「超高層ビル症候群」についての報道は影を潜めている。これはいかなることが起きているのであろうか。

これはあくまで噂だが、高層マンションと住民の健康被害との因果関係が証明されると困る人々--具体的には建築業界や不動産業界が、メディアに圧力をかけている、との説がある。スポンサーの撤退を恐れて、報道を自粛しているのでは、ということだ。

「では外国はどうなのか」という声が聞こえてきそうだが、実は我が国よりよっぽど「超高層ビル症候群」に対する法整備が進んでいるのだ。米国サンフランシスコやワシントンでは、新たに建設される高居住宅に高さ制限が設けられているし、フランスに至っては、1973年に高層住宅の建設そのものを禁止している。極めつけはイギリスで、なんと育児をしている世代は4階以上に住まないように法規制されているというのだ。

古くからの景観を守るという意図もあるだろうが、健康被害を見据えていることは間違いなさそうだ。各国の反応を見ていると、やはり「超高層ビル症候群」は都市伝説ではなく、リアルな”そこにある恐怖”であるようだ。

この「超高層ビル症候群」が現実にある病気だとしたら、それを引き起こす原因があってしかるべきである。一番の原因として挙げられるのは、やはり「気圧」だ。地上と高層階の気圧差が人体に影響を与えているというのだ。高層マンションのエレベーターに乗っていて、気圧の急激な変化から、鼻・耳がおかしくなったことは、誰しも経験があるだろう。筆者も鼻が悪く、何度か高層マンションで具合が悪くなったことがある。他にも、高層階に住み始めて、偏頭痛が悪化したという声も多く、高齢者では関節痛が悪化したという話も聞いたことがある。

もっとも、気圧の影響はそれほどでもないという指摘もある。気圧は0メートルで1013ヘクトパスカルほどであり、高度100メートルのマンションに上がっても、せいぜい地上に比べて10ヘクトバスカルほどしか下がらない。この程度の微細な変化が、人間の体に悪影響を与えるとは考えにくい。潜水病・高山病ならばもっと気圧が低い必要があるし、高層マンション程度の高度では発症しないはずである。ただ、高層マンションに設置された高速エレベーターには、気圧制御機能がついている場合が多い。逆説的に考えれば、この機能がついているということは、やはり、気圧の変化は人間の体に悪影響を与えているのであろうか。

可能性があるとすれば、梅雨時の気圧の変化にさえ反応してしまう喘息患者や循環器系・呼吸器系が敏感な人に限って影響を受けている、ということであろうか。

今論じたのは地上と上層部の気圧差だが、エントランスや廊下などの共用部と、室肉との圧力の盤が大きいがゆえに、頭痛が起きているという指摘もある。

他に考えられる「超高層ビル症候群」の原因としては「描れ」があるのではないだろうか。昨今の高層マンションは、地震の括れに「耐える」のではなく、従う「柔構造」になっていることが多い。その結果、常にわずかな揺れにさいなまれることになり、人体に影響を与えているのではないか、という説だ。

木造住宅などの揺れの周期を1秒程度だとすると、高層マンションの場合は、ゆっくりとした数分間隔の揺れとなり、人体は船に乗っているような感覚に陥り、三半規管に影響を及ぼすとされている。

この揺れは、震災以降過敏に感じる人が多くなったようで、常に揺れているような感じが続き、中には精神的な疾病や不眠症になってしまう人もいるようだ。

ひょっとすると耳鼻に生じた異常や、呼吸器系の疾病、偏頭痛もこの「揺れ」が原因なのかもしれない。

だが、もしこの高層マンションの稲れが人間の身体に影響を与えているとしたら、日本中でマンション価格の暴落が始まり、不動産不況が発生するであろう。政治家や業界関係者からしたら、これは由々しき事態であり、容易に真実が発表されるととはないだろう。

もちろん、高層マンションでの生活が人間の健康に好影響を与えている可能性もありうる。高層マンションから見える地平線まで広がる眺望はストレスを解消してくれそうだし、自動車の排気ガスなどが届かない高層階は住みやすいはずだ。またセキュリティが充実していることから、犯罪に怯えることなく安心して熟睡できるはずである。しかし、筆者は危惧の念を拭い切れない。

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「現代日本のテレビでは放送できない話」山口敏太郎

発展と巨大な代償 ~中国共産党の歴史~

現代世界の歩き方(13)
東工大講義録から

中国共産党の党大会は5年に一度開かれます。今年の秋に、その党大会が開かれ、現在の胡錦濤総書記が引退。後任に習近平氏が就任する予定です。

■9人が13億人を動かす

中国の人口は13億人。この中国を統治する中国共産党の党員数は8260万人です。

党の方針を決める大会が5年に一度しか開かれないということは、大会は単なるセレモニーであることがわかります。実際の党の運営は、党員から選ばれた中央委員会が行うのです。ところが、この中央委員会も年に一度しか総会が開催されません。そこで、さらに上の中央政治局が実権を握ります。中央政治局の委員は25人。しかし、25人では数が多すぎて、迅速な意思決定ができません。そこで、この25人のうち9人が常務委員となって日常の方針を決定しているのです。

13億人の国民をたった9人が統治する構造です。中国の国内政治に詳しい遠藤誉さんは、自著の中で、これを「チャイナ・ナイン」と名づけました。

この9人にも序列があります。トップはもちろん胡錦濤総書記。総書記は国家のトップである国家主席にも就任します。2番手は呉邦国氏、3番手が温家宝首相です。胡錦濤国家主席と並んで温家宝首相がよく表に出てきますから、温家宝氏がナンバー2かと思いきや、実はナンバー3なのです。

呉邦国氏は全国人民代表大会常務委員長。日本でいえば衆議院議長のような立場です。全国民の代表が集まるのが全国人民代表大会であるという建前ですから、そこのトップが国家主席の次に高いポストに位置するというわけです。実際は名誉職に近い存在です。

今年秋の党大会で、9人のうち7人が引退します。中国共産党の常務委員には定年制があって、68歳を超えている人は引退する慣習になっているからです。

残る2人は、序列6位の習近平氏と7位の李克強氏。そこで、習氏が総書記となって来年春の全国人民代表大会で国家主席に就任し、李氏が首相になるだろうと見られています。

さらに、残り7人の枠に誰が入るのかに注目が集まります。ただ、常務委員9人の枠は、かつては7人だったので、この数に戻すべきだという主張も党内にはあるようです。もしそうなると、「チャイナ・セブン」になりますが。

中国共産党の内部にも派閥があります。大別して「太子党」と「団派」です。

太子党の「太子」とはプリンスのこと。つまりは二世です。親が共産党や軍の幹部だったことで出世した人たちが太子党と呼ばれます。習近平氏は、父親が元副首相であり、そのつながりで父親の友人たちの幹部によって引き上げられてきましたので、太子党に色分けされます。

これに対して団派の「団」とは共産主義青年団のこと。共産党の青年組織です。若くして共産主義青年団での活動ぶりが評価されて共産党に入党。そこで着実に実績を積み重ねて出世した人たち。つまりは実力派です。胡錦濤氏も温家宝氏も、このタイプです。李克強氏も団派で、胡氏は李氏を自分の後継者にしようとしましたが、太子党に抵抗され、李氏は序列で習氏の下になったといわれています。

■「事実上の」一党独裁

中国は中国共産党による「事実上の」一党独裁と表現されます。なぜ「事実上」という言葉がつくのでしょうか。それは、建前として共産党以外に8つの「民主党派」があるからです。

「一党独裁ではない。共産党以外に8つも党がある」というわけです。共産党はこの8つの党と共に政治を進めています。8つの政党は政治に参加する「参政党」だというのが中国の言い分です。

ところが、これら8つの政党はいずれも綱領に「共産党の指導を受ける」と明記しています。他の政党の指導を受けるような党は独立した党とはみなされませんから、「事実上の」一党独裁と表現するのです。

他の政党は設立すら認められていません。たとえば、1998年3月に結成された「中国民主党」の場合、米国のクリントン大統領の訪中に合わせる形で創設されましたが、クリントン大統領が帰国後、全員逮捕されてしまいました。

中国共産党はあらゆる場所に存在しています。役所はもちろん、新聞・放送などマスコミの中にも共産党の組織があります。中国の各大学にも共産党の支部があり、ここの支部長は大学の学長より序列は上なのです。

あなた方は、学会のセミナーなどで中国の大学を訪問することもあるでしょうが、表に出て来る学長より表に出て来ない共産党支部長の方が力を持っているのです。

■上海で生まれた中国共産党

これだけ巨大な組織に発展した共産党でも、発足時は小さな秘密結社のような存在でした。

中国共産党が設立されたのは1921年7月のことでした。上海の高級住宅地の一角を借りて、中国共産党の第1回大会が開かれました。このとき党員は全国にわずか53人(57人の説も)でした。このうち代表12人が出席しました。毛沢東氏もそのひとりでした。

当初は、世界革命をめざすソ連共産党の指導を受けたコミンテルン(世界共産党)の中国支部として発足しました。ちなみに日本共産党の発足は翌年のことです。

中国共産党は五四運動の盛り上がりの中から生まれました。1919年、山東半島を支配していたドイツが第1次大戦で敗北します。中国の人たちは、「これで領土が中国に戻る」と期待していましたが、日本のものになってしまいます。これに抗議する学生たちが立ち上がったのが5月4日。なので「五四運動」と呼ばれます。帝国主義列強による植民地支配に反対する五四運動の盛り上がりの中から共産党が生まれました。当時の運動の中心は学生を中心とした都市部のインテリでした。インテリの党として発足したのです。

■8万6000人の逃避行

モスクワのコミンテルンは、中国の事情に疎いまま、ロシア革命の方式を中国共産党に押しつけます。1927年、コミンテルンの指示を受け、中国共産党は武装蜂起を試みますが、国民党軍により壊滅させられます。これを見た毛沢東氏は、さっさと山岳地帯に退避します。都市部で武装蜂起しても勝ち目がないと悟った毛沢東氏は、農村に革命の根拠地を建設するのです。「農村が都市を包囲する」というゲリラ戦略を確立しました。

その後、1929年、新たな根拠地を建設しますが、国民党軍に敗れ、逃避行を始めます。これは後に「長征」と呼ばれます。8万6000人が1年にわたって実に1万2000キロメートルも逃げ回ったのです。最終的に山岳地帯の延安に到着したときには、8000人にまで減っていました。ここに革命根拠地を築きます。

長征の途上で毛沢東氏が共産党のトップに立ち、周恩来氏が毛沢東氏に忠誠を誓いました。

革命根拠地の中で、毛沢東氏は自己の権力を確立させるため、1942年には「整風運動」を発動します。数千人の党員を処刑したのです。こうして1943年5月、毛沢東氏は中国共産党中央委員会主席に就任しました。現在は総書記ですが、当時は主席という呼び名でした。

1945年8月、日本が第2次世界大戦で敗北し、日本軍が中国大陸から引き揚げると、中国では蒋介石率いる国民党と毛沢東の共産党が内戦に突入します。国共内戦です。

この内戦で共産党が勝利し、中華人民共和国が建国されました。

1949年10月1日、天安門に立った毛沢東氏は中華人民共和国の成立を宣言します。中国の国旗は五星紅旗です。大きな星は共産党、4つの小さな星は労働者、農民、知識階級、愛国的資本家を象徴しています。共産党が主導することが国旗に表現されているのです。

■70万人の「反革命分子」

中国が建国されると、直ちに70万人が「反革命分子」として公開処刑されました。処刑されないまでも、「思想傾向が悪い」と判断された人間は、強制労働収容所(労改)に入れられました。この制度はいまも存在しています。共産党に逆らうとひどい目にあうということを国民に徹底したのです。

建国後の中国では戸籍制度が導入されました。全国民の戸籍を都市戸籍と農村戸籍に分けたのです。農村に生まれた人は農村戸籍となり、都市に住むことができなくなりました。膨大な農村人口が都市に集まって来ることを毛沢東は恐れたからです。

また、人々は所属する「単位」で管理されます。全国民ひとりひとりについて「档案(とうあん)」という身上調書が作成されます。先祖が貧農であったか資本家であったか、「出身」が記録されています。「出身が悪い」つまり資本家であったりすると、出世できなくなるという状態が続くことになったのです。

建国後の中国では、指導者・毛沢東によって国民が翻弄される事態が続きます。その最初は、1957年2月の「百花斉放・百家争鳴」運動でした。これは、国民に対して、共産党の間違いに対して自由に批判しなさいと呼びかけたものでした。

これを真に受けて、共産党を批判した人たちには大変な仕打ちが待っていました。

4か月後の6月、毛沢東氏は突然、「反右派闘争」を開始します。共産党を批判した人たちを「右派」と断じ、徹底した批判を浴びせたのです。右派とされた人たちは職場を追われ、投獄される人たちも相次ぎました。全国で55万人が右派とされて職場を追われ、うち11万人が投獄されました。

毛沢東氏が、「右派は人口の5%程度だろう」と発言したことから、職場によっては、無理やり機械的に5%の人間を選び出して解雇する事態にまで発展しました。

これ以降、人々は共産党や指導者のことを批判できなくなってしまいました。間違いが正せなくなることで、中国にはさらに巨大な悲劇が襲います。「大躍進政策」の失敗です。

1958年、毛沢東氏は「大躍進政策」を開始します。東西冷戦が激化する中、中国の兄弟国家であったソ連は、「米国に追いつき、追い越せ」をスローガンにしていました。ソ連より経済力で劣る中国は、米国より経済力の小さい英国に「追いつき、追い越せ」を目指しました。

■「大躍進政策」の悲劇

英国は鉄鋼生産で世界有数の能力を誇っていました。英国に追いつくには、鉄鋼生産を拡大することだと毛沢東氏は考えたのです。全国の農村地帯で、鉄鋼生産を義務付けました。

技術力のない農村部で、農民手製の炉を使っての鉄鋼生産が繰り広げられました。品質のいい鉄などできるわけもなく、生産物は使い物になりませんでした。炉のための燃料として森林伐採が進み、中国の農村部から森林が消えていきます。

農業の生産性を向上させるためといって、中国では人民公社の設立が進みました。農地はみんなのものであり、みんなで生産し、みんなで食事するという集団農場でした。

しかし、「みんなのもの」は、誰のものでもなくなります。農業は自然相手。雨や風、霜などに備えての24時間労働の側面がありますが、農民たちはサラリーマン化して、時間外労働はしません。生産性が低下しました。

さらに農民たちは鉄鋼生産に夢中になったものですから、農業生産は一段と低下したのです。

また、素朴な階級闘争論を農業に当てはめました。「労働者は団結して資本家と階級闘争を戦うのだから、同じ階級の植物も協力して成長するだろう」と考え、稲の密植が奨励されました。

稲を密植すれば、風通しが悪くなり、水も栄養も足りなくなります。稲の生産量が激減するのです。

また、稲の大敵である雀(すずめ)を退治しようと、全国で人海戦術が展開されました。これは成果を上げ、雀が姿を消しました。結果は、害虫の大発生でした。害虫を食べていた雀がいなくなったからです。

こうして農村部の極度の食糧不足に陥りますが、地方の幹部は、毛沢東氏の指導に従わなかったとして処罰されるのを恐れ、中央には「大豊作」というウソの報告を上げました。

この結果、1959年から飢餓が始まります。全国で4300万~4600万人が死亡したと推定されています。とてつもない悲劇でした。

「百花斉放・百家争鳴」で、共産党や政府を批判した人たちが投獄されただけに、人々は「大躍進政策」の失敗を報告できず、被害が広がったのです。

しかし、さすがに餓死者の激増が問題になり、毛沢東氏は責任をとって、国家主席の座を劉少奇氏に譲りました。しかし、国家主席の座は譲ったものの、権力の源泉である共産党主席は保持し続けました。

劉少奇氏は、トウ小平氏と共に、疲弊した中国経済の立て直しに成功します。こうなると、毛沢東氏が保持していた共産党主席の座も危うくなります。劉氏、トウ氏に対する憎しみが芽生えます。

■文化大革命という名の権力闘争

当時、毛沢東氏に次いでナンバー2だった林彪氏は、後継者の座を狙い、毛沢東氏へのごますりを始めます。毛沢東氏の発言などをまとめた『毛沢東語録』を発行し、毛沢東氏の神格化を進めたのです。

毛沢東氏を取り上げる時、国営メディアは、「偉大な指導者」「偉大な教師」「偉大な統帥者」「偉大な舵(かじ)取り」の4つの形容をつけるようになったのです。

毛沢東氏は、この個人崇拝の動きを利用します。共産党主席の座を守り、失われた国家権力を奪回するため、共産党の外の勢力を利用したのです。こうして引き起こされたのが、「文化大革命」でした。

1966年6月、清華大学付属中学校(日本の高校に当たる)の生徒たちが、体制を批判する壁新聞を貼りだし、自らを「紅衛兵」と名乗りました。「紅」つまり共産主義を守る衛兵と名乗ったのです。

8月、毛沢東氏は生徒たちに「造反有理」の言葉を贈ります。「造反することはいいことだ、意味がある」という意味でした。これが報じられると、全国各地で、若者たちが紅衛兵を名乗り、体制批判や共産党幹部に対する批判を始めます。「いまの体制は、革命の精神を忘れて堕落した。新たな革命が必要だ」というものでした。

『毛沢東語録』を振りかざした若者たちは、街に繰り出し、街を「革命化」します。北京の銀座と呼ばれる「王府井大街」(ワンフーチン)は「人民路」へと改名させました。

成都の「陳麻婆豆腐店」は「文勝飯店」(文化大革命の勝利)という名前にされてしまいました。

女性のパーマは「ブルジョア的だ」とされて、パーマ姿の女性たちは街中で髪を切られてしまいます。また、スカートはズボンにさせられました。

紅衛兵たちは宗教を一切認めず、寺院は破壊されました。

信じられない行動にまで出ました。交通信号の赤が止まれの印であることに文句をつけたのです。「赤は共産主義の色であり、前に向かって進めという意味だ。赤で止まれはおかしい」と主張し、交差点の赤信号で止まらないように指示を出します。このため交通事故が相次ぐようになりました。

これにはさすがに困った周恩来首相が、「赤は止まれは国際的なルールなのだから守るように」と指示を出して、ようやくおさまりました。

共産党の古参幹部たちは、「堕落した」と紅衛兵たちから糾弾されます。毛沢東氏に批判的だった幹部たちは、次々に投獄され、あるいは自殺を強要されました。こうして毛沢東の権威が再び高まり、奪権闘争に勝利します。毛沢東氏の完全な独裁が完成します。

毛沢東氏は奪権闘争に勝利すると、紅衛兵たちが邪魔になります。各地で勝手な行動をとり、国家の統治に支障を来すようになったからです。そこで毛沢東氏は、「知識青年は農民に学べ」と号令をかけます。「大学生や高校生のようなインテリは頭でっかちだから、農民たちから真の革命精神を学べ」という趣旨でした。実際は、体のいい地方への追放でした。この結果、都市部から2000万人の若者が地方の農村部に追いやられました。これを「下放」といいます。

文化大革命時代、学校はほとんどすべてが閉校となり、当時の若者たちは勉学の機会がありませんでした。読み書きを覚えることなく成長した人も多く、現在の50代以上の年齢の人たちは、「失われた世代」と呼ばれることもあります。

1976年9月、毛沢東氏の死去で文化大革命は終息しました。しかし、この間に300万人が投獄され、50万人が処刑されたというデータもあります。毛沢東氏の奪権闘争は、とてつもない被害をもたらしたのです。

とりわけ文化大革命後期には、「批孔」つまり孔子=儒教思想を徹底的に批判しました。礼儀作法を守ることは「ブルジョア的だ」と批判されました。これによって、中国の人たちの社会的モラルが大きく損なわれたとの指摘もあります。

■毛沢東「7分の功績と3分の過失」

1977年になると、毛沢東氏によって迫害され、地方に追いやられていたトウ小平氏が復活します。共産党の副主席つまりナンバー2で、中央軍事委員会主席の座を確保します。国家の要職には就かず、共産党の軍隊である人民解放軍を指導・監督する中央軍事委員会主席として、中国の最高指導者になるのです。

毛沢東氏亡き後、共産党は毛沢東氏の功績について、「7分の功績と3分の過失」があったと評価しました。中華人民共和国を建国したのが「7分の功績」で、大躍進政策と文化大革命で多数の死者を出し混乱させたことが「3分の過失」に当たるというのです。「毛沢東の党」であった以上、過失を厳しく追及することはできなかったのです。

その結果、いまになって、毛沢東時代を懐かしむ人たちが出て来ています。どのような「過失」を引き起こしたのか、中国の歴史教科書ではほとんど扱っておらず、革命運動ばかりが教えられるため、貧しくても平等だった当時に憧れるというわけです。

最近になって失脚した重慶市の共産党書記だった薄熙来氏は、毛沢東時代の革命歌を歌うキャンペーンで人気を高めましたが、文化大革命の暗黒時代を体験している胡錦濤国家主席や温家宝首相が激しく嫌悪。これが薄失脚の一因にもなりました。

実権を掌握したトウ小平氏は、1978年には日本を訪問し、発展した日本経済を見て、中国経済の立て直しを進めます。徹底した実利主義者の彼は、社会主義のイデオロギーにとらわれることなく、資本主義経済を大胆に導入します。「改革開放政策」です。先に豊かになれる地方から豊かになればいいとも主張しました。これが「先富論」です。こうした経済政策は「社会主義市場経済」と名づけられました。要するに、政治は共産党、経済は資本主義、というものでした。

また、農村地帯の人民公社を解体します。農家は生産した農産物を自由に処分できるようになり、農業生産性は飛躍的に向上。食糧不足が解消しました。

■天安門事件が起きた

経済が発展してくると、人々は自由に発言を始めます。政府や共産党による言論統制に不満を持った学生たちは、民主化運動を始めます。この運動が弾圧されたのが、1989年6月の天安門事件です。

この年の5月、当時のソ連のゴルバチョフ書記長が訪中するのに合わせて世界のメディアが中国に集まります。世界のメディアの監視下なら共産党も勝手なことはできないだろうと考えた学生たちが、天安門広場に泊まり込み、民主化を求めました。

しかし、トウ小平氏はこれに激怒。軍隊を使って学生たちの運動を弾圧しました。

トウ氏は若者たちの行動を見て、「愛国心が足りない」と判断。江沢民氏を共産党の総書記兼国家主席に据えて、「愛国教育」を徹底させます。実際は「共産党を愛そう」というキャンペーンでした。

中国共産党は反日運動の「五四運動」の高まりの中から生まれ、日中戦争の中で勢力を拡大しました。つまり、「共産党を愛そう・尊敬しよう」というキャンペーンは、結果的に「反日教育」になっていったのです。

こうして中国には反日的な若者が増えることになりました。共産党の過去の都合の悪い歴史は教えず、功績だけを称(たた)える。この手法が使われ続けているのです。

日本から見ると、よくわからないことが多い中国。過去にこんな歴史があり、それが、いまの中国を形成しているのです。

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いけがみ・あきらジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。近著に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。62歳。

中国の世界地図が北方領土に塗った色

現代世界の歩き方(2)
東工大講義録から

2回目の講義は、国際情勢です。

日々目にしたり耳にしたりする国際ニュース。それぞれの国や地域には、領土や国境線をめぐって、それぞれの言い分があります。そんな主張の違いを知る方法のひとつとして、世界地図を見るという手法があります。

実は私は世界各地に取材に行った際、それぞれの国や地域で発行されている世界地図を買い求めるのが趣味なのです。それぞれの政府がふだんは声高には言わない建前や主張が、地図の表現に込められているからです。

私たちがふだん目にしている世界地図は、日本が中心に描かれています。でも、世界の人々は、こうした形の地図を見ているわけではありません。

■世界を英国から見れば

たとえば英国の世界地図。欧州中心の世界地図です。日本は右端つまり東の端にあります。日本周辺のことをなぜ「極東」と呼ぶか、この地図を見れば明らかです。英国にとって日本は、「極端に東」にあるのです。

かつて「極東」の範囲が国会で問題になったことがあります。それは、日米安保(日米安全保障条約)の中の「極東」の範囲が問われたからです。安保条約の第6条には、次のような条文があります。

「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリ力合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」

日本に駐留する米軍は、日本を守るために駐留するという理解の人が多いと思いますが、これを読むと、「極東における国際の平和及び安全の維持」のためにいるんだということがわかります。つまり、もし「極東」で国際紛争が起きた場合、在日米軍は出動するのです。

そこで、「極東」とはどこであるか、が問われたのです。1960年2月、政府は統一見解を発表しています。それによると、「大体において、フィリピン以北並びに日本及びその周辺の地域であって、韓国及び中華民国の支配下にある地域もこれに含まれている」となっています。つまり、台湾海峡で中国と台湾が衝突したり、朝鮮半島で紛争が発生したりした場合、日本にいる米軍が出動することもあると規定されているのです。

極東の範囲がわかったら、次は中東です。私たちが「中東」と呼ぶ地域は、日本から見ると西に位置しています。それなのに、なぜ「東」という文字が入っているのか。英国から見ればわかりますね。英国から見て「中くらい東」にある地域だからです。

では、極東でも中東でもない、ただの東はあるのか。英国にとっては、インド周辺が「東」に該当するのです。かつてインド周辺(インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ)は、英国の植民地(英国領インド)でした。英国から見れば、インドのあたりが東の基準になっているのです。

かつて英国は「大英帝国」と呼ばれ、世界の海を支配していました。このため、国際情勢を語る上でのさまざまな用語が、英国からの発想で生まれたのです。

■イランや台湾から見ると

イランの世界地図を見ると、イスラエルが存在していません。イスラエルの場所には「パレスチン」と表記されています。パレスチナです。イランは、イスラエルを国家として承認していません。対立関係にあります。イランとしては、「イスラエルの建国によって多数のパレスチナ難民が生まれた」という思いがあり、イスラエルを認めていないのです。

イランのアハマディネジャド大統領が就任したとき、「イスラエルを一刻も早く世界地図から抹殺しなければならない」と発言して世界を驚かせましたが、イランの世界地図では既に“抹殺”されているのです。

そんな立場のイランには、核開発を進めているという疑惑があります。これはイスラエルにとって脅威です。このため、イスラエルは、イランの核開発を阻止するため、空爆など何らかの手段に出るのではないかと国際社会は心配しているのです。

地図は、時代によっても変化します。私が持っている古い台湾の地図には、「中華民国全図」と書いてあるのですが、中国大陸もモンゴルも含まれています。実際に「中華民国」を名乗っているのは台湾だけなのに、中国大陸もモンゴルも入っているのです。

これは、かつて大陸に中華民国が建国されたとき、モンゴルもその一部になっていた経緯があるからです。その中華民国は、支配政党だった国民党が中国共産党との国共内戦に敗れ、大陸に存在しなくなりましたが、国民党は台湾に逃げ込んで、中華民国を名乗り続けました。その当時の地図なのです。

しかし、これはフィクションです。実際にはモンゴルは第2次世界大戦後、独立国になったのですから。そこでフィクションはやめようということになり、現在の台湾の地図では、モンゴルは別の国になっています。

一方、大陸にある中華人民共和国の地図を見ると、中華民国は存在していません。台湾島と表記してあります。「中国はひとつ」というのが中華人民共和国政府の方針ですから。

■中国の「敵の敵」は味方

あなたの家の世界地図帳で、中国とインドの国境線を見てください。ブータンの東側です。二重の点線が引かれているはずです。中国とインドは国境線をめぐって戦争をしたことがあります。中印戦争です。国境が確定していないので、第三者の日本では、点線で表示しているのですが、中国の地図ではインド側に入ったところが国境になっています。

このように国境線が国によって異なるということになりますと、では、北方領土はどうなっているのか気になります。

北方領土とは、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)の4島ですね。日本の領土ですが、旧ソ連に占領された後、いまもロシアに占領されています。この北方領土が、中国の地図では、どちらの国の色に塗られているでしょうか。学生諸君に聞いてみましょう。どうかな?

中国の地図では北方領土が日本領として色分けされている(池上氏提供)

学生A「ロシアの色」

どうしてかな?

学生A「中国とロシアは仲がいいから」

ほかには?

学生B「日本の色」

ほう、どうして?

学生B「日本人としては、日本の領土が広いほうがいいから」

おっと、願望と事実を混同してはいけないよ。実は答えは、「中国の世界地図で北方領土は日本の色」なのです。答えは合っていたけど、答えを出すまでの経過が違っていては、正解とは言えないね。

しばしば反日の姿を見せる中国が、なぜ北方領土に関しては、日本の言い分を認めているのか。それを理解するキーワードは、「敵の敵は味方」という言葉です。

かつての東西冷戦時代、中国とソ連は厳しく対立していました。国境線をめぐって軍隊同士の衝突もあり、死傷者が出たこともあります。中国は、本気で核戦争を覚悟していたこともあります。こうした危機感のもと、双方とも、相手の国の包囲網を築こうとしていました。ソ連にとって、敵である中国は、インドと敵対していました。ということは、中国の敵であるインドは、「敵の敵」だから味方になります。ソ連はインドと手を結ぶことで中国を包囲しました。

一方、中国はインドの敵であるパキスタンと結び、インドを包囲しようとしました。世界規模のオセロゲームが繰り広げられたのですね。

では、ソ連を包囲するには、どうしたらいいのか。ソ連と対立する米国、日本と関係を改善すればいいと中国の毛沢東は考えました。1972年、当時の田中角栄首相が中国を訪問し、日中友好ブームが巻き起こりました。これは、中国がソ連包囲網を築く一端だったのです。中国の敵であるソ連と北方領土問題で対立している日本との関係を改善するためには、北方領土を日本のものと認める。これが中国の当時の戦略であり、それがいまも地図の上に残っているのです。

お隣の韓国の地図を見ると、日本海という名称が見当たりません。そこには「トンヘ」(東海)と書いてあります。

朝鮮半島は、かつて日本に支配されていました。その間に、自分の目の前の公海に日本海という、まるで「日本の海」であるかのような名前をつけられてしまった。韓国は、そう考えているのですね。そこで韓国は、世界各国や国際機関、地図会社に対して、「Sea of Japan」ではなく、「East Sea」と表記するように働きかけています。その結果、「Sea of Japan」の後にカッコで「East Sea」と表記する地図が登場しています。

さて、朝鮮半島の首都はどこでしょうか?

変なことを聞くなと思ったでしょうね。韓国の首都はソウル、北朝鮮の首都はピョンヤンだと思いますよね。では、韓国の地図を見ましょう。朝鮮半島に首都はひとつ。ソウルとなっています。

では、北朝鮮の地図ではどうなっているのでしょうか。

■北朝鮮から見ると

北朝鮮の地図では、朝鮮半島の首都はひとつ、ピョンヤンです。韓国も北朝鮮も、自分たちの首都が、朝鮮半島全体の首都であると主張していることが、これでわかります。

北朝鮮の世界地図を見ると、面白いことに気づきます。日本と米国だけ、国の色が塗っていないのです。

日本と米国は、北朝鮮と国交を結んでいません。国交を、結んでいないということは、建前としては、相手を国家として承認していないということになります。日本や米国の地図では、北朝鮮を独立国家として色を塗ってありますが、北朝鮮は建前にこだわり、色を塗っていないのです。

これをどう見るか。北朝鮮は日本や米国を敵視している表れなのでしょうか。私のような意地の悪いジャーナリストは、そうは見ません。「北朝鮮は、それほどまでに日本や米国と国交を結びたいのだな」と読み解くのです。

米国の地図を見ましょう。世界の中心は米国。それがよくわかる地図です。子どもの頃からこうした地図を見て育てば、そんな意識にもなろうというものです。米国は、世界中のことに口を出す「世界の警察官」気取りと批判されることがありますが、この地図を見ると、「さもありなん」、という気になってきます。

私たちがふだん見ている、日本が中心の世界地図では見えてこないもの。それは、米国と欧州の近い関係です。

日本が中心の地図ですと、米国は右の端、欧州は左の端です。でも、米国の地図を見ると、米国と欧州が非常に近いことがわかります。この関係を頭に入れておきましょう。

ただし、米国中心の世界地図を作ると、インドシナからインド、パキスタン付近が分断され、右と左に分かれ、位置関係が不明確になります。米国人の中には、アフガニスタンやイラクの場所がよくわからないという人が意外に多いのではないかと思わせられる地図なのです。

ちょっと変わった地図もお見せしましょう。オーストラリアの南北逆転の世界地図です。

もちろんオーストラリアの子どもたちが、この地図で勉強しているというわけではありません。パロディーの世界地図です。

これまで見てもらったように、世界各国・地域は、自国中心の世界地図を作製しています。だったら、オーストラリアを“世界の中心”にするには、どうすればいいのか。南北逆転の地図を作ればいい、というわけでした。

■宇宙から見ると

でも、この地図を見ると、日本列島が不思議な格好をしています。実に新鮮な視点です。こういうのを「逆転の発想」と呼ぶのでしょうね。たまには地図を逆さや横から見てみましょう。見慣れた世界とは一味違った地図が出現するはずです。こうした柔軟な発想が大切なのです。

では、宇宙から見ると、わが地球は、どのように見えるのでしょうか。

宇宙から人工衛星で撮影した写真を組み合わせて世界地図にしたものがあります。これを見ると、当たり前なのですが、国境線などありません。私たち人間は、地球の上で勝手に線を引いているのだということを改めて感じます。

宇宙から見た地球に国境線はありませんが、地球ははっきり2つに分かれることがわかります。それは、「緑の地球」と「砂漠の地球」です。

南米アマゾン川流域に広がる緑。最近は熱帯雨林の伐採が問題になっていますが、アマゾン川流域は、「地球の肺」と呼ばれる理由がわかります。

一方、アフリカのサハラ砂漠は、緑がまったくありません。この砂漠地帯は、アラビア半島まで広がり、中国内陸部にも拡大しています。春先日本に飛来する黄砂が増えているのも、中国内部での砂漠化が進んでいることをうかがわせます。環境問題は国際問題でもあるのです。

そして、日本。宇宙から見ると、日本列島は緑一色です。宇宙から見た日本列島は美しい。それを知っておいてください。

■ドイツの児童用地図では

最後にドイツ、オーストリアで現在使われている児童用の世界地図をご紹介しましょう。児童用ですから、かわいいイラストで世界各国の様子が描かれています。この地図で、日本はどう描かれているのでしょうか。

なんと、芸者、忍者、お相撲さんに広島にはキノコ雲です。

これが、現代のドイツ、オーストリアの日本認識なのかと思うと愕然(がくぜん)とします。

でも、ちょっと待ってくださいね。あなたは、ドイツというと、どんなイメージを持つでしょうか。「ビールとソーセージ」なんてことはありませんか?

これが、ステレオタイプなモノの見方ということなのです。現地を自分の目で見たことがないまま、「あの国はあんなもんだよ」と思ってしまいがちなのです。

若い皆さんは、固定観念やステレオタイプな発想に汚染されてはいけません。自分の目で見て、自分の頭で判断する。この力を、ぜひ身につけてください。

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第2次大戦後の主な国際政治・紛争に関する出来事

1945年 国際連合成立
46年 インドシナ戦争
48年 イスラエル成立。パレスチナ戦争(第1次中東戦争)
49年 北大西洋条約機構(NATO)発足
50年 朝鮮戦争
51年 日米安全保障条約調印
53年 朝鮮休戦協定成立
55年 ワルシャワ条約機構発足
56年 スエズ地帯の動乱(第2次中東戦争)
60年 日米安全保障新条約調印
61年 東西ベルリンの境界封鎖
62年 キューバ危機。中国とインドの国境紛争激化
65年 米国、北ベトナム爆撃開始
67年 イスラエル、アラブ諸国と交戦(第3次中東戦争)
69年 中国とソ連の国境紛争激化
71年 国連、中国の中国代表権を承認。台湾が国連脱退
72年 日中国交正常化
73年 ベトナム和平協定調印。米国、南ベトナムから撤兵完了。イスラエル、エジプト・シリアと交戦(第4次中東戦争)。東西ドイツ国連加盟
79年 中国とベトナムの国境紛争。エジプトとイスラエルが平和条約調印。ソ連、アフガニスタンへ侵攻
80年 イラン=イラク戦争
(池上教授の講義録、山川出版社『世界史総合図録』など参照)

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いけがみ・あきらジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。近著に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。61歳。

「学際的教養」のすすめ ~原子力の開発を巡る日本と世界の動き~

現代世界の歩き方(1)
東工大講義録から

東京工業大学で教えることになりました池上彰です。フリージャーナリストとして取材に飛びまわっていた私が、なぜ東工大教授のオファーを受けたのか。講義の前に、まずは私の問題意識から話しましょう。

■科学技術は敗北したのか

きっかけは、去年の3月11日です。大地震や大津波の危険性を専門家たちが警告していたにも関わらず、なぜそれが政治や行政、そして東京電力の安全対策に生かされなかったのか。科学や技術が、ある意味で敗北したことを意味するのではないか。そう考えたのです。

また、東京電力福島第1原子力発電所で事故が発生した後、記者会見やテレビで解説する専門家たちの発表や説明が、視聴者や読者にとって理解不能であったのは、どうしてなのか。専門家たちに、「わかりやすい伝え方」の能力が欠如していたからではないか。

さらに、東工大の卒業生だった総理は、危機に際して、十分な指揮が取れなかったのはなぜか。そこに、理科系特有の「狭い視野」に捉われた問題がなかっただろうか。そのような感慨に捉われました。

理科系の専門家の発言が、文科系の国民に伝わらない。世の中が、あまりに「文科系」と「理科系」に分かれてしまい、大きな断層が生じているのではないか。これは、今後の日本にとって看過できない問題ではないか。

私に、こんな問題意識が芽生えていたときに、「東工大の学生たちに、社会科学的な教養を身につけるお手伝いをしていただけませんか」とのお誘いをいただき、決断したのです。あなたたち東工大の学生たちは、やがて科学者や技術者となって、日本を支える人材です。あなたたちに、視野の狭い専門家になって欲しくないと考え、私はこの教壇に立つことにしたのです。

■大学で学ぶ意味

さて、では大学で学ぶ意味とはなんでしょうか。それは、一言で言えば、「教えられるのではなく、自分で学ぶ」ことだと思います。

あなたたちは、高校まで、「正しいこと」を教えられてきたはずです。これから大学では、「正しいこと」を自分で見つけていくことが求められるのです。

高校までの学習課程には、学界の多数派が「正しい」と認めた内容が盛り込まれています。学界で定説になっていない理論や学説は入っていないのです。しかし、大学や大学院では、最先端の研究に触れることになります。その中には、そもそも多数派理論が未形成の分野の学問もあります。多数派になっていない理論を研究している先生もいます。こうした理論や研究に接することができるのが、学問の醍醐味なのです。

となると、教室や研究室で教わることを、そのまま頭から信じ込んだり、記憶したりということはすべきでないでしょう。「これは仮説にすぎない」と考えながら聞くことも必要でしょう。物事を批判的に受け止めること。これが大切なのです。いま池上が話していることも、そもそも批判的に受け止め、自分なりに考えてみる習慣を身につけてください。それがやがて、あなたを研究者に育てることにつながります。

日本の大学の先生たちは、教育より自分の研究を大切にしがちだと批判されます。学生にしてみれば、「なんで教育にもっと力を入れてくれないのだ」と不満に思うかもしれません。その気持ちはよくわかります。私も学生のとき、同じ思いがしました。

しかし、大学というのは、研究者の“後ろ姿”を見て学んでいくという方式をとっています。先生の講義を受けることを通じて、「学び」や「研究」の手法を自ら盗み取り、自分の力にしていくことが求められるのです。

多くの大学の先生は、教えるプロではありません。そもそも教員免許がいらないのです。その点で、小学校から高校までの先生たちとは異なるのです。その点を承知しておきましょう。東工大の先生たちは、あなた方を「研究者のタマゴ」として遇することが多いはずなのです。

■理系・文系の境界を越えて

大地震や原発事故を経験して、私は「学際的教養」の大切さを痛感しています。狭い専門分野に限定された知識の限界を感じます。学者も研究者も技術者も、社会と無縁では生きられません。地震や津波の研究を進めても、それが人命を救うことにならなければ意味がありません。原子力発電の研究開発は、安全性の向上に寄与するものでなくてはなりません。社会の中で、科学や技術が果たす役割を考えていかなければならないのです。

あなたたちの中には、将来、企業に就職する人もいるでしょう。企業の中での研究者、技術者は、コストとの戦いにも直面するはずです。原子力発電所の建設でも、安全性とコストとの関係が問われました。コスト削減のために安全性を損なってもいいのか。この問題に直面したとき、あなたは、どんな判断を、下すべきか。いまから考えておいてほしいのです。

ハイゼンベルクの不確定性原理の誤りを見つけ、「小澤の不等式」を生みだした名古屋大学の小澤正直教授は、実は東工大の御出身です。在学中、東工大の哲学の先生の研究室に入り浸ったそうです。その結果、量子力学の研究の道に進み、世紀の発見をされました。東工大では哲学の勉強もできるのです。これが東工大のユニークなところであり、誇れる特徴なのです。

私が所属する東工大のリベラルアーツセンターとは、そのような教養を学生諸君に身につけてもらうための組織として発足したのです。

北朝鮮の核開発問題で揺れるアジア。それを考えるとき、そもそも日本は外からどう見られているかを知っておきましょう。「唯一の被爆国」として、世界に平和を訴え続けてきた平和国家。そんなイメージを持ってきた学生が多いのではないでしょうか。果たして、その通りなのでしょうか。

■原爆を開発していた日本

世界で最初に原爆の製造に成功し、それを日本に対して使用したアメリカ。日本は一方的な被害者として語られることが多いのですが(そして、それはその通りなのですが)、日本も実は原爆製造の研究をしていたことは、あまり知られていません。

アメリカが、「マンハッタン計画」として知られる原爆開発プロジェクトを発足させたのは、1942年8月のこと。それより2年以上も前の1940年4月、日本では、陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将が、部下の鈴木辰三郎中佐に対して、原爆製造が可能かどうか調査するように命じました。ドイツの学者がウランの核分裂を発見したことが科学雑誌への発表で知られるようになり、これを応用すれば、莫大なエネルギーが得られるのではないかと考えたのです。

鈴木中佐は、東京帝国大学の学者に相談しながら調査を進め、この年の10月、原爆は理論的に製造することが可能であるとの報告書を提出しました。日本の科学技術の水準も、このレベルには達していたのです。

これを受けて安田中将は、当時の陸軍大臣である東条英機の同意を得た上で、1941年4月、理化学研究所に対し、原爆製造に関する研究を依頼しました。アメリカのマンハッタン計画より1年も前のことでした。

理化学研究所の仁科芳雄は1943年1月、「原爆製造は可能であり、ウラン235を濃縮すればいい」との報告をまとめます。研究依頼から報告まで2年もかかっていました。この間にアメリカでは、大規模な開発が進んでいました。研究開始時期には日米にそれほどの差があったわけではないが、この時点で、日米の差は決定的になっています。細々と個人的な研究に終始した日本と、大規模な国家プロジェクトとして推進したアメリカ。日米の研究方式の違いが特徴的です。

この報告にもとづき、日本でも陸軍航空本部の直轄研究として原爆製造が開始されます。これが1943年5月から始まった「ニ号研究」です。この秘密コードのカタカナの「ニ」は仁科の頭文字でした。1944年7月からは、六フッ化ウランを用いてのウラン濃縮実験が始まりました。

しかし、1945年3月10日の東京大空襲で、実験施設が焼失し、実験は中止に追い込まれます。

一方、海軍は海軍で、独自の研究をしていました。1941年11月、海軍艦政本部が、京都帝国大学の荒勝文策教授を中心とするグループに研究を依頼していたのです。これは1945年になって「F研究」として本格化します。Fはfission(分裂)の頭文字でした。こちらは、ウラン濃縮の設計段階で敗戦を迎えました。

陸軍は理化学研究所、海軍は京都帝国大学。それぞれが別個に研究をしていました。すべては縦割り組織の下で進められていく。大規模な統一プロジェクトとして推進されたアメリカとは、ここでも大きな差がありました。もちろん、日本が原爆開発を早く進めればよかったと言っているわけではありません。物事の進め方において、日米でこうした差が出たということを言っておきたいのです。

戦後、日本を占領した連合国軍は、占領下の日本に対して、原子力研究を全面的に禁止します。日本の原子力研究が解禁されるのは、1952年4月に発効したサンフランシスコ講和条約で日本が独立を果たしてからのことでした。

■アメリカの原子力政策に乗った日本

1953年12月、アメリカのアイゼンハワー大統領は、国連総会で演説し、「Atomsforpeace」(平和のための原子力)という政策を明らかにします。原爆を生み出した原子力を平和目的のエネルギー源として使用しようという呼びかけでした。

原子力の平和利用を望む国にはアメリカが技術を供与するというのです。そこにはアメリカの思惑がありました。マンハッタン計画で作り上げた原子力産業をビジネスとして成功させること、原爆製造技術が世界に拡散することのないようにアメリカが技術を一括管理しようという目論見だったのです。

これが日本で熱狂的に支持されました。

原子力の平和利用にとりわけ熱心だったのは、当時の読売新聞の正力松太郎社主でした。

1924年、部数5万5000部の弱小新聞だった読売新聞社を買い取って社主となり、1954年には206万部にまで発展させる天才的経営者です。

彼は1955年2月、衆議院富山2区から立候補して当選します。スローガンは「原子力の平和利用」でした。議員当選後は「原子力平和利用懇談会」の代表世話人となり、1956年1月には、新設された原子力委員会の初代委員長に就任します。総理大臣への野望から「原子力の平和利用」を使ったと評価する人もいます。彼の行動から「原子力の父」との呼び名がつきました。

彼がまだ国会議員に立候補する前の1954年元日から読売新聞は「ついに太陽をとらえた」という大型連載を開始します。

「原子力は平和利用できる。そのエネルギーを使えば地上に太陽を作り出すこともできる。人類は無限のエネルギーを手にしたのだ」と謳い上げたのです。敗戦からわずか9年。原子爆弾という負の面からしか原子力を見ていなかった読者にとって、原子力エネルギーこそが復興の救世主となるという主張は新鮮で、むさぼるように読まれました。この連載によって初めて原子力を知ったという読者も多く、原子力に好意的な世論を形成しました。

■突然の原子力予算

1955年度予算で、原子力研究予算が突然に認められました。その額は2億3500万円という巨額です。現在なら300億円以上の金額というところでしょう。

この予算を認めさせたのは、当時保守系野党の改進党の中曽根康弘代議士です。少数与党の自由党だけでは予算を衆議院で通過させることができなかったため、自由党は改進党に協力を依頼。エネルギーの自給体制を整備するには原子力発電が必要だと考えた中曽根氏は、「原子力予算を認めるなら協力する」と答え、予算を認めさせたのです。

なぜ2億3500万円だったのか。原子力開発に必要な金額を積算したところ、これに近い金額になったため、「原子力発電のためにはウラン235を濃縮させる必要がある。どうせなら235で行こう」と決まったそうです。なんともアバウトな時代だったようです。

突然の原子力予算出現に、原子力の専門家たちが当惑したそうですが、これをきっかけに、全国の国立大学に原子炉工学に関する学科や大学院のコースが設置され、原子力技術者の養成が始まります。

国の機関として1956年に原子力委員会が設置されます。ノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹氏も委員に選ばれます。湯川氏は、「原子力発電は慎重に。基礎研究から始めるべきだ」と主張しますが、委員長は、国会議員になった正力氏。彼は、「外国から開発済みの原発を買えば済むことだ」と主張します。科学者の発言より政治家の発言が優先され、日本は性急ともいうべき速度で原子力発電に邁進することになります。湯川氏は1年で委員を辞任しました。

■「自衛のための核兵器」

日本は国家として原子力の平和利用に進みますが、その一方で、政治家には別の思惑もありました。それが明らかになるのは、1957年5月の岸信介首相の参議院での答弁です。彼は、「自衛権の範囲内であれば核保有も可能である」と語ったのです。

さらに1959年3月にも参議院で、「自衛のための必要最小限度を超えない戦力を保持することは憲法によっても禁止されておらない。したがって、右の限度に止まるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わずこれを保持することは禁ずるところではない」と発言しているのです。

もちろん「だから核兵器を保有しよう」というわけではありませんが、核兵器保有は合憲との判断を政府見解として確立したのです。この見解は、その後の政府も踏襲しています。2009年の麻生内閣の答弁書でも、日本政府としては自衛のために核兵器を持つことができるが、「政策上の方針」として「一切の核兵器を保有しない」と答えています。

岸首相は1958年1月、茨城県東海村の原子力研究所を視察した後、「日本は核兵器保有の潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題について国際的な発言力を高めることができる」と考えたことを、その後明らかにしています。

1968年、核兵器を持つ国を増やさないための国際条約である核拡散防止条約(NPT)が調印され、2年後の1970年に発効します。このとき日本はどのような態度をとったのでしょうか。

1968年、当時の内閣調査室(現在は内閣情報調査室)が、『日本の核政策に関する基礎的研究』を密かにまとめました。これは、1994年になって新聞報道で存在が明るみに出ました。

この研究は、日本の技術力で実際に核兵器製造が可能かどうか、核兵器を保有した場合に予想される国内外の影響などについて調査・研究したものです。

当時は、1964年に中国が核実験を成功させたことを受けて、日本政府内部に日本への脅威だという受け止め方が広がっていました。もし日本が核拡散防止条約に参加すると、核保有の選択肢を失うことになるからです。

この研究の結果、日本は原子力発電所から出る使用済み核燃料から原爆の材料であるプルトニウムを取り出せること、核弾頭を積むミサイルも技術的には製造可能であると判断しています。しかし、もし実際に核兵器を持とうとすると、周辺の国々が警戒し、日本が世界で孤立すること、日本国内で賛否両論渦巻き、国内政治が不安定になることなどから、実際問題としては、核兵器を持つことはできないと結論づけました。

日本が、真剣に核保有を検討していたのです。

さらに1969年、外務省は「わが国の外交政策大綱」をまとめ、この中で、「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘(せいちゅう)を受けないよう配慮する」と記しています。

これが、「唯一の被爆国」日本の国家意思だったのです。

■「核燃料サイクル」にこだわる

2012年4月に北朝鮮が打ち上げに失敗したミサイル。国際社会はミサイルと断じましたが、北朝鮮は「ロケットの打ち上げだ」と強弁しました。しかし、ロケットの打ち上げ技術は、そのままミサイル発射能力に転用できます。

ただ、それを言うなら、日本の人工衛星打ち上げ用のH2型ロケットも、大陸間弾道弾と同じ能力を持っています。周辺国家から見れば、「日本はミサイル発射技術を持っている」ということになるのです。

日本は、「核燃料サイクル」を推進しています。使用済み核燃料を再処理して、プルトニウムを取り出し、再び核燃料として使おうという構想です。

しかし、青森県六ヶ所村に建設中の再処理工場は、トラブル続きで、なかなか稼働できません。再処理に費用がかかりすぎるから、断念すべきではないかとの声もありますが、歴代政府は、推進の方針を変えていません。それは、民主党政権になっても変わりません。

なぜか。プルトニウムを独自に生産できれば、いつでも核兵器を製造する能力を保持することができます。核兵器製造能力だけは持っておこう。そんな国家意思が見え隠れするのです。

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原子力の開発を巡る日本と世界の動き

1940年 日本陸軍、原爆製造の可否に関する研究を開始
1941 陸軍、理化学研究所に原爆製造に関する研究を依頼。海軍、京都帝国大学へ原爆製造に関する研究を依頼
1942 米国が原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」を発足
1943 理化学研究所、陸軍に「原爆製造は可能」と報告、製造開始
1945 米国が原爆完成、広島と長崎に投下。日本がポツダム宣言を受諾、連合国に降伏。降伏文書に調印
1949 ソ連が原爆実験
1950 朝鮮戦争勃発
1951 日本がサンフランシスコ講和条約に調印(52年発効)
1952 米国が水爆実験
1953 米アイゼンハワー大統領、国連総会演説で「Atoms for peace」(平和のための原子力)政策を表明。ソ連が水爆実験
1954 米国の水爆実験による第五福竜丸被爆事件
1955 日本の55年度予算に初めて原子力研究予算2億3500万円。第1回原水爆禁止世界大会
1956 日本政府が原子力委員会を設置(委員長に正力松太郎氏、委員に湯川秀樹博士ら)
1962 「キューバ危機」、米ソが対立し世界が核戦争の脅威にさらされる
1964 中国が原爆実験
1967 中国が水爆実験
1968 核拡散防止条約(NPT)が調印される(70年発効)
1969 日本の外務省「わが国の外交政策大綱」
1970 日本が核拡散防止条約(NPT)に調印

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いけがみ・あきらジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。近著に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。61歳。

君が日本の技術者ならサムスン(Samsung)に移籍しますか

現代世界の歩き方(東工大講義録から・池上彰)

日本というのは、過去、終身雇用にあぐらをかいていた面があるんですね。会社は社員に「最後まで面倒見るから、言うことを聞け。最後まで働け」みたいな関係だったんですね。忠誠心を出せ、会社に文句があっても我慢すれば「退職金も出すよ、企業年金もあるよ、グループ会社へ天下りポストもあるかもしれないよ」という、それなりの幸せの仕組みがあったわけですね。

ところが、2008年のリーマン・ショック以降、経済環境が厳しくなってくる中でリストラが激しくなり、企業が終身雇用を維持できなくなってきたのです。そこで、社員たちは「それなら考えがあるぞ」と会社を飛び出していくようになってきたわけです。

かつて企業は、優秀な人材を米ハーバード大学やスタンフォード大学などへMBA(経営学修士)を取らせるために留学させたんですね。ところが、帰国後に外資系金融機関などへ相次ぎ転職していくような事態になったわけです。会社のお金で教育していたのにです。そこで、社員から帰国後5年以内には転職しないという誓約書を取ったり、転職する場合には学費を全額返還してもらったりといったことを求めるようにもなってきています。

これは不幸な関係なんだろうと思います。会社はなぜMBAを取らせるのか。本来ならMBAを生かせる仕事を任せればよいのだろうと思いますが、必ずしも活用し切れていません。単なるハク付けの場合が多いのです。だから社員は会社を飛び出していくわけです。終身雇用制度が崩れた今、自己実現を求めていくのは当たり前なのだと思います。企業は技術者をきちんと処遇しないと、退職していってしまうことにようやく気付いたのです。

ある意味で、皆さんは就職にあたって、幸せなのかもしれません。皆さんの先輩の世代には歯車として使い捨てられたケースもあったからです。人材を使いこなす企業なのか、会社の考え方をしっかり見極めることも、判断の基準になってくると思います。

先ほど、日立製作所からパナソニックへ転職するのはどうだろう、たまたまサムスンという外国籍企業だからナショナリズムという問題が出てくるけれど、どうなんだろうという議論がありました。日本企業で日本のために働くのか、それとも自己実現のために技術力を発揮するのか、世界で勝負していくのか。それぞれの生き方があるのだと思います。

■個人と企業、社会の「幸せな関係」

今日のこの議論をきっかけにして、皆さん一人ひとりが技術者としての生き方を考えてくれたらと思います。

皆さんは、イチローの決断をどう受け止めたでしょうか。日本で活躍した後、シアトル・マリナーズで活躍して一番になりました。しかし彼は、一度はメジャーリーグで一番のチームで勝負したいと考え、ニューヨーク・ヤンキースへ移ったのです。

劇的だったのは、移籍直後の最初の試合がマリナーズ戦だったわけですね。しかもマリナーズの本拠地球場だったんです。日本だったらどうでしょう。阪神甲子園球場での阪神対巨人戦に、巨人へ移籍したばかりの元阪神選手が出場したとしましょう。観客はどのように迎えるでしょうか。拍手で迎えるでしょうか?それともブーイングとなるのでしょうか。イチローはマリナーズのファンからスタンディング・オベーションで迎えてもらいました。声援、祝福を送ったわけですね。私は「こういう風土の国は強いなあ」と感じました。

翻って日本の産業界。韓国のサムスンへ移籍した技術者が帰国して迎え入れる時、日本の企業はどのような受け入れ方をするでしょう。「ライバル企業ではどうだったんだい」「よく頑張ったね」と、皆で受け入れてくれるような企業であってほしい。またはライバル企業へ祝福して送り出してくれるような会社であれば、再び戻った時に「また頑張ろう」と思ってくれるかもしれません。個人と企業、社会の「幸せな関係」とはどうあるべきなのかを考えてほしいと思います。この「幸せな関係」を築けない企業は、グローバル化の中で衰退していってしまうのだと思います。

そういう中で、皆さんがよりよい生き方を見付けて下さい。これが私からの15回の講義の締めの言葉です。15回ありがとうございました。

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いけがみ・あきら ジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。近著に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。62歳。

霞ヶ関から眺める証券市場の風景

現実的な政策とは、理想的ではないが、次善の策の意味で使われることがある。原発の懸念は払拭できないが再稼働しなければ、化石燃料の輸入代がかさんで経常収支が赤字化し、国債の囲内消化にも支障を来す、といった文脈になる。.また、現実的な政策が、現実に有効な策を意味することもある。震災支援機構が行う資金調達への政府保証を昨年度の4次補正予算で手当てした際、補正の全体像を眺めたら、エコカー舗助金が復活していた。補助金が使われ、足元の需要を喚起するという意味では、有効である。リーマン・ショックで自動車や家電製品のアメリカ向け輸出需要が突然蒸発したのを国内需要で補うべく、エコを名目に補助金や減税を導入した。単なる需要の前倒しだから、期限が過ぎれば厳しい反動減になり、再度の前倒しを試みねばならない。助成期限内に車を買う人に所得を再分配するのを誰も公平とは感じないが、供給側の雇用を国内に確保するのが優先されている。国内に工場立地する企業に補助金を、不況時に解雇しなければ雇用調整助成金を交付するのも、雇用努力に報いんがためである。今世紀の初めに遡れば、前例のない金融緩和と為替介入で円安誘導したのも、輸出産業主導で景気と雇用委を回復させる試みになる。いずれの場合も.当事者は現実的な政策と考えていた。私はドメスティック行政官なので、為替政策を担う財務官経験者の見解など聞く機会に乏しいが、回中直毅さんによると、変動相場制を、努力が報われない仕組みとして理論的に否認する人もいるそうである。頑張って輸出で稼げば稼ぐほど円高になり、輸出で稼げなくなる。どうやら貿易を、勝ち負けの闘いと捉えるらしい。頑張って輸出で稼ぐほど円の購買カが高まり、安く輸入できるとは考えないようである。

さらこ歴史を「官僚たちの夏」の1960年代まで遡れば、資本自由化に備えてアメリカのピッグスリーに対抗するには、日本の自動車メーカーはせいぜい3社が現実的と考えた通産省の政策が、本田宗一郎氏を逆上させた。二輪で世界を制した以上四輪でもできないはずがない、トヨタやニッサンやマツダが何をしようが知ったこっちゃない、オレはやりたいことをやるだけなんだから邪魔するな、とのエネルギーは、結局のところ、政策により抑制されることはなかった。今では、官民相談して需給調整する特定産業振興法案が挫折し、ホンダが自動車製造に参入した経緯を誰もが評価するだろう。タイムスパンを:長くとるほど、何が現実的な政策かは判然としなくなる。私が社会人になった80年代は、自動車輸出によるアメリカとの貿易摩擦が激化したが、輸出で稼げば円高になる為替レートの調整メカニズムや、円高で採算が取れなくなればアメリカに工場立地する企業行動自体は当然視され、ほかの選択肢は意織されていなかった。もちろん今でも、自動車産業の経営者は、同じ考えを基本的には維持しているが、社会的責任をより深〈認識するようになったらしい。程度の差はあるものの、国内雇用の確保と、経常収支黒字を維持して国債を国内消化することにまで責任領域を拡張した。一定規模の園内生産を前提とした上で、海外への販売を続けるためには政府が円安誘導すぺきだし、国内への販売を続けるためには政府が補助金や減税で支援すべきだと、自動車産業が主張する。主張される側の政府も、放っておいて順調に経営される産業相手では仕事がなくなるから、積極的に呼応する。かくて、官民相談して需給調整する新たな「官僚たちの夏」が到来しているとも言えよう。

政策支援しなければ国内生産を続けられない場合、初めから支援しないほうが良いのか否かは、視点が異なれば判断も異なる。以下生産性とは、物理的な生産能力ではなく、願客が対価を払って購入したい財やサーピスを生む、金額ペースの能力と規定しよう。農業の国内生産lま多くの国で、生産性とは別の観点から政策支援されている。もっとも私個人は、「日本人なら稲作の風景に心なごむはずだ」なんて押しつけがましく言われると、「荒野を見るほうが心はなごむ」と言い返したくなるのだが。ともあれ、国民の不安は、自動車や電機という日本を代表してきた産業までが、農業化したことにある。リーマン・ショックのような突然の需要蒸発に対しでは、一時的な政策支後で需要を喚起して致命的事態を避けるのがマクロ的にも正当化されるだろう。ショックを克服すれば、産業として自律的な成長軌道を同復するのが、正当化の前提になる。だが、恒常的な支援は、園内雇用を維持するメリットより、必要な産業構造転換が遅れるデメリットが上回ると評価せざるを得ないだろう。マクロ経済として自律的に成長するには、生産性が低くなった分野から、より高い分野に労働と資本(ヒトとカネ)が移動する必要があるが、政策が生産要素の移動を抑制してしまうからである。

日本国内でテレビを作って生きていける幻想から早く覚める方が良いと言えば、じゃあ代わりに何を作れば成長できるのかと疑問の声が発せられる。1つの答えは、作る仕事は、なるべく新興国の人たちに任せるのが無難だということである。一方で、病院の診療待ち、特養ホームの入居待ちが示す明らかな需要超過領域では、需要に応じた価格形成を許容することにより、医療や介護は生産性の高い産業になれる。成熟した経済では、モノを作るカを新興国と競って消耗するより、カネを使う力に着目して素直に呼応するのが成長の源泉になる。素直に呼応するとは、以前記したように、医療や介護を安い価格で平等に供給するのが正義との固定観念から解放され、自分の命や健康のためなら払うに値すると顧客が感じる価格を払ってもらい、この領域で働いて高い所得を得られるようにすることである。需要に応じた価格に導かれる形で、モノ作り後のピジネスの方向を、市場に教えてもらうのが、疑問の声へのもう1つの答えになる。失われた20年と呼ばれる聞に、65歳以上人口は倍増した。人口の多いこの世代が壮年の働きざかりだった頃は、自動車も家電製品も売れた。現在売れなくなった理由は、壮年人口の減少という年齢構成の変化で相当程度まで脱明できる。かつて旺盛な購買意欲を示した人口の多い高齢世代が、現在買いたいのは医療や介護なのだから、自動車や家電製品の売り方で医療や介慢のサービスを売るのを、いつまでもタブー視する余絡はあるまい。

国内雇用の確保を優先する政策を長年講じているのは、そのための財政負担が国民に明瞭に意識されていないのも背景になる。私は、経常収支が赤字化することと、国債の国内消化に支隙を来すことの間には、かなりの距離があると認識している。経常収支がどうあれ、もうしばらくの問、銀行は、企業貸出を減らして国債を消化するだろう。そして、経常収支が赤字化しでも、対外資産を国債に振り替えれば国内消化を続けられる。にもかかわらず冒頭から例示しているように、最近とくに、経常収支黒字の維持と国債の国内消化の維持を直結する主張が目につく。ぞれは一方で、財政が海外からファイナンスされるギリシャみたいになってはいけないとの危機感の現われだが、他方で、国内生産し輸出で稼ぐ従来の方針で頑張ろうとの信念の表明でもある。そして向時に、頑張れればこの国の財政も持続可能と、信念が補強される構図になる。かくて、国債残高が異常な水準に累積しでも、円本経済の低迷が続くから財政ぬ破綻せず、インフレにも円安にもならないパラドックスが緩いていく。

金融庁・証券取引等監視蚤員会事務局次長
復興庁審議官(金融支援担当) 大森泰人