LIBOR不正 きしむ巨大金融(下)

銀行の「血気」 どう制御

「交際費を使い切ってでも注文を取れ」。野村証券の機関投資家担当の元幹部が部下に送ったメールが残っている。テレビ、バッグ……年間100万円を超える贈答や接待を受けた投資家もいた。

企業の増資情報を、公表前に投資家に漏らす「増資インサイダー事件」は、その延長線上で起きた。社外の法律家で構成する調査委員会は断じている。「収益目標を達成するために、手段を選ばない営業姿勢だった」

世界を揺るがせているロンドン銀行間取引金利(LIBOR)の不正操作事件も、出発点は収益だ。不正が表面化した英バークレイズ。ボブ・ダイヤモンド前最高経営責任者(CEO)は語っていた。「起床と同時に、自己資本利益率(ROE)をどう上げるかを考えている」

振れ続ける規制

収益を追うのは経営者の義務だ。一線を越えた背景には、世界の金融機関に巣くう「アニマル・スピリット(血気)」というべき風土がある。

「赤いスポーツカーを2台所有したとしても、もう2台欲しがるだろう」。作家のマイケル・ルイス氏は1980年代、米大手証券の内幕を描いた「ライアーズ・ポーカー」で、人々の際限ない欲望を例えている。

いまも引きずる危うい風土を封じるために、規制当局は動き始めた。欧州委員会は、LIBORなどの操作に刑事罰を科す方針。「金融機関の文化を変えなければならない」。欧州議会のシャロン・ボウルズ経済・通貨委員長は主張する。

歴史的に、金融規制の軽重は振れ続けた。甘い規制に乗じて金融機関が暴走、規制強化が進む。やがて経済の活性化を目指して緩和に転じ、再び暴走の芽が生じる。

米国が33年、銀行と証券の兼営を禁じた「グラス・スティーガル(GS)法」は、79年後の今も揺れている。

29年の株価大暴落を受け、預金を市場変動から切り離すのが当初の狙いだった。だが90年代には多彩な業務展開を目指す金融界が緩和を主張し、99年に廃止。そうして巨大化した金融機関が過大なリスクを取った結果、住宅バブルが膨らんだ。

2008年のリーマン・ショックは、流れを再び規制強化に変えた。

銀行のリスク取引を抑えるボルカー・ルールは「現代のGS法」だ。総合金融大手シティグループを創設したサンフォード・ワイル元CEOですら「総合金融は解体すべきだ」と先月表明した。

歴史的な課題

相次ぐ不祥事は、この潮流を加速する。危ういのは過剰な締め付けだ。大統領選を控えた米国などで、世論を背景にした金融たたきの機運もある。金融機関の暴走が危機を招き、人々は失業や格差に苦しんでいる。

だからこそ、金融機関が自覚すべきことがある。市場という公器を担っている責任だ。

「エゴを捨て、投資家と企業に市場を返すべきだ」。1997年の野村。市場を悪用した総会屋への利益供与事件で揺れるなか、幹部の一人は社長に手紙を届けた。

警告は今も変わらない。LIBOR操作でもインサイダー事件でも、露呈したのは市場を傷つけてでも利益を上げようとする身勝手な姿だ。

弱点はあっても、市場主義に代わる経済の仕組みはない。収益を追うアニマル・スピリットは市場の活力源でもある。どう制御するのか。政府も金融機関も、歴史的な課題に直面している。
(編集委員 梶原誠)

LIBOR不正 きしむ巨大金融(中)

膨張の30年、ひずみ蓄積

金利の不正操作、巨額損失、マネーロンダリング(資金洗浄)と立て続けに噴き出す金融業界の不祥事。30年間にわたる規制緩和を追い風に急膨張した陰で、強欲がまん延、モラル低下という病にむしばまれていた。

2000万ポンド(25億円)――。ロンドン銀行間取引金利(LIBOR)の不正操作問題で英バークレイズの経営トップを降りたダイヤモンド氏。辞退した退職金の巨額ぶりに驚きが広がった。

リスクをとって失敗しても責任は限定、うまく行けば青天井の高額報酬が手に入る。このアンバランスが金融の暴走を生んだゆがみの根源だ。

「成功のためには倫理に背き、違法行為も許される」。法律事務所ラバトン・サカローの6月調査では、米英金融業界に勤める幹部の24%がこれにイエスと回答。報酬と倫理との倒錯は、そこまで進んでいた。

カネがカネ生む

起点はどこか。米国では1980年代の預金金利規制撤廃だ。伝統的銀行にも高リスク融資や投資事業に道が開いた。「転換点が来た。かつての穏やかな日々は戻ってこない」(金融史家のチャールズ・ガイスト氏)

金融機関自らが借金を増やし、レバレッジをかける道を突き進んだ。市場での自己取引を拡大。証券化など金融技術を駆使し、家計には住宅ローンを貸し込んでいった。

金融が実体経済の成長スピード以上に膨らんだ30年間だった。マッキンゼーによると2010年の世界の金融資産総額は212兆ドル。世界の国内総生産(GDP)の3.6倍に及ぶ。20年前は2.6倍だった。

00年代の米国では企業の国内利益の4割超を金融が稼いだ。マネーがマネーを生み桁外れの利益を出す。「それが目的化してゆがみを生み、偽ってでも目の前の利益を追う風土が広がった」(コロンビア大学のグリフィス=ジョーンズ教授)

中でもデリバティブ(金融派生商品)はわずかな数値の違いが巨額な利益を左右する。LIBORは業者の申告で決まるが、担当者の塩加減でスワップといったデリバティブが大きく動き、自社のトレーダーに利益を落とす。そこに不正への動機が潜んでいた。

マヒした倫理観

「あらゆる市場の投資家の信頼を損ねた」(カリフォルニア州職員退職年金基金=カルパース=のディアー最高投資責任者)。LIBORという土台には住宅ローンなど世界で300兆ドルもの金融サービスが乗る。普通の人の生活にも影響する指標に不正の余地があることへの怒りがにじむ。

膨らんだデリバティブはもろ刃だ。自らに牙をむくこともある。JPモルガン・チェースの58億ドルの巨額損失は市場で「鯨」と呼ばれるほど肥大化した取引の失敗だ。

HSBCの資金洗浄問題では、社会との距離感を見失った銀行の姿が浮かぶ。麻薬組織の資金がメキシコ支店の口座にドル入金され、米国に運び出されていた。

著名投資家ウォーレン・バフェット氏は、自ら率いるバークシャー・ハザウェイ社の株主総会で必ず1本の映像を流す。90年代に国債の不正入札でつぶれかかったソロモン・ブラザーズの再建を請われ、自身が議会証言に立った時の映像だ。

「会社に金銭的に損失を与えても仕方がないが、会社の名誉を損ねることは決して許さない」。この問いかけは、今重い響きを持っている。

(米州総局編集委員 藤田和明)

LIBOR不正 きしむ巨大金融(上)

身内意識、常識狂わす 

国際基準となるロンドン銀行間取引金利(LIBOR)の不正操作事件が世界を揺るがしている。金融機関はなぜ暴走したのか。逸脱をどう防ぎ、そして規律と活力をどう両立させるか。相次ぐ不祥事は金融界のあり方を問い直している。

自行の金利を虚偽申告してLIBORを操作した事件で、英大手銀バークレイズに英金融当局は5950万ポンド(約70億円)の課徴金を課した。根拠は英金融行政の指針「プリンシプル」。原理、原則を意味する11カ条のうち、「しかるべき能力、注意、勤勉さで」「確実かつ効果的なリスク管理を」「市場取引は適切に監視する」という3つに違反したとされた。

公共の金利をごまかして荒稼ぎしても、違反したのはいわば社会の心構え。明文化したルールで金融機関を縛る日米とは大きく異なる。

放任主義裏目に

英国流の緩やかな規制は民間の裁量を高めるのが目的。1980年代の金融大改革(ビッグバン)以来の伝統で、金融街シティーを世界の金融センターに成長させたインフラだ。だが、いったん金融機関が暴走すると放任主義は裏目に出た。

「ダイヤモンド(前最高経営責任者)氏から電話を受けた翌日、金融市場部門の責任者に金利偽装を指示した」。バークレイズのデルミシエ前最高執行責任者は7月、英議会で証言した。2008年10月、ダイヤモンド氏はタッカー英中銀副総裁と話した後、「政府が英中銀にLIBORで我々の金利が高い理由を問いただしたようだ」とデルミシエ氏に電話した。

金融危機のさなか、財務は健全だと見せかけるためバークレイズがLIBORの金利を低く申告したのは、当局の意をくんだ偽装工作という構図だ。有事対処にあうんの呼吸はつきものだが、シティーの身内意識の強さが常識感覚を狂わせた。

例えば、政策の企画立案を担う財務省や中銀と並び、金融機関を監督する英金融サービス機構(FSA)。その売り物は財政面での独立で昨年度5億590万ポンドの収入は金融機関からの納付金で賄う。まるで住民の会費で運営する町内会だ。

長官の1億円超の年収は官僚としては破格。金融実務に精通した人材確保が理由だ。幹部は回転ドアをくぐって役所と業界を行き来し、民間でもトレーダーらがシティー内で転職を繰り返す。官民を超えて身内意識が強まる構造になっている。

米国からも圧力
05~07年、バークレイズのトレーダーがユーロに絡むスワップ取引での利益を狙い金利操作をしかけた。共謀相手は英HSBC、ドイツ銀行、仏クレディ・アグリコル、ソシエテ・ジェネラルにまたがる。ほとんどがそれまで在籍した銀行の元同僚。英紙が暴いた不正の一例だ。

UBSやJPモルガン・チェースの巨額損失など、最近の大事件の多くはロンドンが舞台。国内の取引にも影響するLIBOR不正にガイトナー米財務長官は「英国側がしっかりした対応をしなかった」と容赦ない。HSBCのマネーロンダリング(資金洗浄)問題を追及したのも米議会だ。

金融機関を厳しく律する金融改革法の精神を求め始めた米国。ユーロ圏が推す監督行政の一元化がシティーの地位も脅かす。一方、英国の対応は後手後手の印象が否めない。危機を招いた金融界への厳しい視線は、世界金融の秩序をも揺らす。

(ロンドン=上杉素直)

君原健二(24) 銀メダルの理由

伴侶得て総合力増す
自分追い込む競技、支え必要

メキシコ五輪の私のゴールシーンは夢遊病者のような走り方と言われたが、意識ははっきりしていた。かといって、ゆとりがあったわけではない。競技者時代、ゆとりを残してゴールすることはなかった。いつも力を出し切るように心掛けた。

メキシコでの私は首を左右に大きく振りながら苦闘している。苦しくなってからの場面ばかりが放送されるので、スタートからあんな走り方をしていると思っている人がいるが、そうではない。

首をかしげて走るのがいいのだと思い込み、私のマネをして走っているという人に何度も会った。そのくらい、あの走りが印象に残っているということなのだろう。

しかし、メキシコ五輪は納得のいくレースではなかった。何しろ、大事なところで便意を催した。食事のとり方が悪かったのか、緊張からなのかは不明だが、いずれにしても便意を催したのは私のミスだった。

ミスを犯しながら、メダルを取れたのは幸運としか言いようがない。高地という特殊な環境下でのレースだったので、私より大きなミスをした選手が多かったのかもしれない。私はとにかく、ゴールするとトイレに駆け込んだ。

優勝したのは2時間20分26秒4のマモ・ウォルデ(エチオピア)で、私のタイムは2時間23分31秒0だった。表彰式はエチオピアの国旗のトラブルがあったとかで、1時間以上も遅れた。

表彰台に立ったときには、もう高ぶりは収まっていた。胸にあったのは、先輩たちが築いてきた日本のマラソンの伝統を守れたという喜びだった。私は台上でどういうポーズをとったらいいのかわからず、困惑した。映像で見ると、中途半端に手を挙げたり、下げたりしている。

レース当日の日記にはこうある。「2位に入賞した。皆、驚いたことだろう。世の中には幸運ということがある。時たま、押し寄せる波のような感激が湧いてくる」

8位に敗れた東京五輪と銀メダルを獲得したメキシコでは、私にどんな変化があったのだろうか。パワーもスピードもスタミナも東京のほうが上だったと思う。練習量も東京五輪の前のほうが多かった。しかし、自分の力を出し切れる選手ではなかった。

五輪は独特の雰囲気に包まれている。だから自己記録を更新する選手はなかなかいない。そういう舞台で力を出すには精神面の安定が必要なのだと思う。

東京五輪後に私は妻帯者となっていた。メキシコでメダルが取れた一番の要因はそこにあると思っている。結婚し、癒やされ、精神的に落ち着いたのが大きかった。その結果、私の競技者としての総合力が上がったのだ。

そこで私は、どうしても円谷幸吉さん(自衛隊)のことを考えてしまう。東京五輪後に円谷さんは結婚目前までいっていながら、自衛隊の上司に「競技に差し障りがある」と反対され、破談になった。結婚に賛成し、話を進めていた畠野洋夫コーチも北海道に異動となり、円谷さんは相談役を失った。

一方の私は2年間の文通を経て、結婚に至った。心の平静を得た私と、悩みを打ち明ける相手のいなかった円谷さん。ぎりぎりまで自分を追い込むゆえに、競技者は人の支えなしでは生きていけない。(五輪マラソン銀メダリスト)

雪村うちわ 逆風なんの

茨城で作り続けて70年、四角い和紙に墨絵描く

室町時代の画僧・雪村(せっそん)ゆかりの「雪村うちわ」は普通のうちわとはちょっと違う。四角に近い形で、表面にはきれいな墨絵が描かれている。茨城県常陸太田市に400年以上伝わるこのうちわを作っているのは、今では私だけになった。今年で90歳。70年以上もうちわ一筋に生きてきた。

兄が戦死、家業継ぐ

そもそもは常陸太田の寺に暮らしていた雪村が、うちわを作って檀家に配ったのが始まりとか。器用な人だったんだねえ。水戸光圀が愛用していたなんて説もある。

うちは200年ほど前、ひいおじいさんの代から常陸太田でうちわ店を営んできた。雪村うちわだけでなくて、丸いものも扱っていた。大正までは同業者も数軒あったそうだけど、昭和に入るとほとんどなくなった。

私は手先が器用で、小学生のころから見よう見まねで家業を手伝っていた。雪村うちわを本格的に作るようになったのは20歳くらい。これは本当に難しくて時間も手間もかかる。

まず幅2センチの竹に0.5ミリ間隔で刃を入れて、うちわの骨を作る。それを1年間、天日に干して乾燥させる。十分に水分が抜けたら墨絵の入った和紙をはりつける。33の工程はもちろん全部手作業。工芸教室で一般の方に体験してもらうことがあるけど、できる人はまずいません。

本当は4つ上の兄が4代目を継ぐはずだったけど、太平洋戦争で兵隊に取られて、満州(現中国東北部)へ行った。終戦になっても帰ってこない。母は1946年に亡くなり、老い始めた父と2人で、「私がしっかりしなくちゃ」とがむしゃらにがんばった。

51年にお見合い結婚した主人も器用な人だった。結婚前、1週間ほど父に手ほどきを受けたら勘がよい、と見込まれて、2人で4代目を継いだ。結婚から5年後に父が亡くなって、その次の年に兄の戦死の知らせが来た。45年8月12日が命日。

父も母も最期まで兄が生きているのだと信じて、その帰りを待っていた。兄の死を知らなくてよかったのかもしれない。私もショックだったけど、手紙の一つもなかったから「やっぱり」という気持ちもあった。

主人は絵も得意で、雪村うちわの墨絵を全部描いた。ナスやキュウリ、馬など雪村ゆかりの画題のほかにも「水戸八景」の景勝地もきれいに描いた。全くの独学で。

ところが心臓の病気で入退院を繰り返すようになって。院長さんの許可をいただいて、作りかけのうちわを病室に持ち込んで、看病しながら作業していた。主人は84年に亡くなったけど、今でもその墨絵を印刷して雪村うちわに使っている。

20年使える丈夫さ

うちわといえば昔は生活必需品。エアコンがない時代、あおいで暑さをしのぐだけじゃない。お勝手で火をおこすのにも欠かせなかった。雪村うちわは面積が大きいからたっぷりした風が出る。竹と手すきの和紙は軽くて丈夫、20年くらいヘッチャラで使える。

丸いうちわは、プラスチックの安いものが出回るようになってからやめてしまった。今は雪村うちわだけを作っている。

気を張って生きてきたせいか、病気らしい病気はほとんどしたことがない。69歳の時、腸ねんてんで入院したくらい。退院した後、うちわを作っていたら手術で縫ったところが裂けてしまった。骨を作るときはおなかに力を込めるから。

毎年、病院でおなかを縫い直していたけど、面倒になって今はそのまま。さらしを巻いてしのいでいる。若い時には作業中に指を骨折して、我慢してたら曲がったままになっちゃった。

自ら山で竹選び

足は弱ったけど、まだまだ元気。社会見学に来た小学生から「長生きの秘訣は?」なんて聞かれる。朝7時半に起きて、キナコとゴマ入りの牛乳を飲み、すったリンゴや酢の物を食べる。

朝食を食べたら9時半には仕事を始める。午後4時になるとテレビで「水戸黄門」が始まるからそれでおしまい。すぐ日が陰る冬は2時半には作業を終える。

竹は地元産を使う。売ってくれるところがなくなって、自分で竹山に切りに行くようになった。4、5年たった竹が一番よい。秋には手伝いに息子とおいたちも連れていく。

今は次男が修業中。会社を定年になったら継ぐと言っている。それまでもうしばらく頑張らなくちゃね。
(圷総子 あくつ・ふさこ=桝儀団扇店店主)

馬やキュウリなど雪村ゆかりの画題の墨絵を入れる

アリエリー著「予想どおりに不合理」

成果主義の欠点
金銭で測れぬ働きがい

「エコノミックアニマル」である人間は、自己の利益を最大化するために行動する。これは従来の経済学の基本的な前提であり、日本中を席巻した「成果主義」の基本ロジックでもありました。アリエリーは、この点についても異を唱えています。

例えば、男性サラリーマンが家でとるはずだった夕食を仕事で外でとって帰宅したときのことを考えてください。奥さんが作った料理が食卓に並んでいます。「買ったら3000円はするな。はい、じゃあ」といって、奥さんに3000円を渡すような家庭は、普通はないでしょう。

もちろん、会社と家庭は違います。前者は市場規範(market norms)で、後者は社会規範(social norms)で動くのです。現実には家庭のように市場規範が成り立たないことは想像以上に多くあります。アリエリーが通りすがりの人にソファを動かすのを手伝ってもらう実験をしたところ、相当の報酬を出す場合だけでなく、無報酬の場合も喜んで手伝ってくれるのに、少額のお礼を出すと言うとほとんどの人が立ち去ってしまうという結果が出ています。

多くのベンチャー企業の成功を目にして、一獲千金を求める起業家は米国だけでなく、日本でも増えてきました。金銭による動機づけは、いい点もあるのでしょうが、深刻な副作用をもたらしているおそれもあります。アリエリーの言葉を借りれば「企業は従業員との社会的な取り決めをじわじわと切りくずしながら、市場規範に入れ替えるような行為をしている」ということです。

金銭面の報酬は大切ですが、それは唯一のものではありません。会社で仲間と一緒に働く喜び、仕事の達成感までを「金銭化」したとき、会社は単なる金もうけの場所に成り下がってしまうのです。「成果主義」が働きがいを示せない経営者の言い訳であってはなりません。

(清水勝彦・慶応大学ビジネススクール)

君原健二(20) 五輪効果

有名人との交流増える
横山やすしさんは電話魔

円谷幸吉さんは中央大学の夜学に通っていたが、私には東京五輪の後、早稲田大学から入学の誘いが来た。

知らないうちに、私が大学に入学すると噂されていたらしい。早稲田出身で八幡製鉄陸上部の先輩が手紙で「噂が本当なら、ぜひ我が母校に入ってほしい」と伝えてきた。しばらくすると、箱根駅伝で活躍した政治家の河野一郎さんの秘書から電話があり、入学を勧められた。

私には大学へのあこがれがあった。上京して、早稲田出身でメルボルン五輪の三段跳びの代表だった小掛照二さんや河野洋平さんと会った。

当然、私は駅伝選手として期待されていた。早稲田は1954年を最後に箱根駅伝の優勝から遠ざかり、62年からは12位、10位、7位と低迷していた。そこで、私を特待生として受け入れるという。

私は陸上のためだけに大学に行きたくはなかった。しっかり学問を身につけたかった。しかし、私には学力への不安があり、授業についていけないのではないかと思った。結局、入学は断念した。あのとき、進学を決断していたら、人生はまた違ったものになっていたかもしれない。

五輪に出場したことで、私は注目され、陸上とは別の世界とのつながりができた。

東京五輪のしばらく後、漫才師の横山やすしさんから手紙が届いた。西川きよしさんとのコンビで売り出し中のころだった。私は人から手紙をもらったら必ず返事を出す。

横山さんの手紙の内容は変わっていた。「別府毎日マラソンに出たいのだが、どういう練習をして、どういう手続きをとったらいいのでしょう」というのだ。どうせなら一流の寺沢徹さんか私からマラソンを習いたいとのことだった。

その手紙がきっかけで交流ができた。寂しがりやの横山さんはしょっちゅう電話を掛けてきた。私の家に電話がなかったので、職場に。

結局、横山さんがマラソンを走ることはなかったが、どういうわけか、私のことが気に入ったらしく、82年にはNHKの「この人……ショー」というトーク番組の公開収録に呼ばれた。

事前にNHKから台本が送られてきて、「ここで、こういう質問がありますので、答えてください」と指示されていた。会場の東京・板橋区文化会館でのリハーサルで台本を見ていると、気性の激しい横山さんは怒り、台本を投げつけた。「君原さんには友人としてきてもらっているんやから、こんなのはええんや」と番組の担当者に息巻いた。私は何を話していいのか不安になった。

頻繁に会っていたわけではなく、飲みに行こうと誘われたら、「派手なお店には行きたくない」と断りを入れた。新大阪駅の地下にある焼き鳥屋で飲んでいるとき、店のおやじさんが「ここには新日鉄のバレー部の選手がよく来る」と言うと、例によって「バレーの話なんかするな」と怒りを爆発させた。

画家の池田満寿夫さんと話しているとき、私の腿(もも)に池田さんのひじが当たっているのを目にしたときにも、「君原さんの大事な脚に何すんねん」と激怒した。横山さんはただ単純に私のファンだったのだ。96年に亡くなる前、面会謝絶の状態にもかかわらず横山さんは私を病室に招いてくれた。(五輪マラソン銀メダリスト)