茂木友三郎(9)現地法人

地域との共生最優先
星条旗掲げ、人事部に米国人

地鎮祭も終わり、いよいよ工場の建設に取りかかる。建設会社は立地調査を依頼していたオースティン社にし、設計にあたってシカゴ・オヘア空港に近いオフィスに数人の技術者を派遣した。

1972年秋、工事が本格化すると本社からの技術者は30人ほどになり、モーテルを宿舎にして追い込みに入った。その年の暮れ、佐平治常務と現地に行き、駐在予定者を含め約50人を集めてクリスマスパーティーを開いた。慣れない米国暮らしの緊張をほぐし、結束を固めるためだ。

後でわかったことだが、我が社はソニー、吉田工業(現YKK)とともに対米進出の第1陣だった。しかも食品企業としては初の工場だ。

当時のことだから、英語に堪能な社員はほとんどいない。現地に派遣する社員の基準は「英語より仕事」とした。

技術者で経理にも明るい製造管理部長の村井豊次さんをトップに7人の駐在員、7、8人の技術指導員を人選した。若い社員が中心で、会社にネーティブスピーカーの英語教師に来てもらい、半年間にわたって朝から晩まで英語の手ほどきを受けた。交代要員は4カ月間の課程で英会話学校に通った。

年末から醤油(しょうゆ)の仕込みを始める。それに先だって10月に駐在社員全員が赴任した。みんな家族帯同で、赤ん坊をねんねこ半纏(はんてん)に包んで背負い、初めての国際線の飛行機に不安そうに乗り込む奥さんの姿もあった。海外転勤を受け入れるかどうか、親族会議を開いた社員もいたという。そんな時代だった。

工場建設と稼働に向けた準備は着々と進んではいたが、私は依然としてウォルワースの町民集会で出た反対意見のことを考えていた。地元は工場建設を認めてくれた。そんな町の人々全員に「キッコーマンの工場ができてよかった」と思ってもらうためにはどうすればいいのだろう。

共存、企業市民、現地化。どんな言葉でもいいが、要は地域に溶け込み、地域とともにある工場にすることだ。

そのために「キッコーマン・フーズ」という現地法人を設立しマルコム、トム、ミックにも役員になってもらった。キッコーマンの米国工場ではない。米国企業キッコーマンの工場になり切るのだ。いまでこそ目新しいことではないが、当時の私たちはそう心に決めた。

具体的に現地化の方策を考えた。まず地元企業との取引を優先する。工場には星条旗を掲げる。外国に住む日本人はどうしても固まりがちだが、キッコーマン社員は可能な限り分散して暮らすことで、一人ひとりが地域社会に溶け込むようにする。

ルーシー知事から有識者による経済開発委員会のメンバーにとのお話を受けたとき、私は喜んで引き受けた。社会参画の貴重な機会になると思ったからだった。

現地で優秀な従業員を採るため、まず人事部長に経験豊富な米国人を採用した。醤油工場は装置産業で発酵の仕事は人間ではなく微生物がやってくれるから、現地採用はそう多くはなかったが、いい人材ばかりが集まった。

採用第1号は日系の女性だった。彼女は出産の世話などを通じて日本人社員の奥さんたちの評判も良く、30年も勤めて退職した。退職の手続きで入社の折に10歳若く申告していたことがわかるのだが、それはずっと後の話。(キッコーマン名誉会長)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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