茂木友三郎(1) ある構想

アメリカに醤油工場
真の国際化に向け私の原点

1965年。30歳の私は4、5人の部下を持つ管理課企画係主任で、主な仕事は会社の長期計画を作ることだった。我が社の醤油造りは江戸初期に遡る。キッコーマンの前身である「野田醤油株式会社」が誕生したのが17年のことだから、当時は設立から半世紀を迎えようとしていた。

池田内閣の国民所得倍増計画以来、日本は高度成長の坂を駆け上がっていた。だが醤油はどうもいけない。見通しが暗い。そのことが私の気持ちを重くした。

そのころ醤油の生産量は戦前の水準に戻っていたが、所得が2倍になっても家庭で使う醤油の量も2倍になるわけではない。人口増加率以上の伸びは期待できないのだ。国内需要は頭打ち。

他産業は2ケタ成長を続けているというのに、醤油製造業の足取りは、いらだたしいほど鈍い。そこで会社は多角化と国際化に活路を求めた。

吉幸(きっこう)食品工業(現日本デルモンテ)や勝沼洋酒(現マンズワイン)を設立したほか、醤油の発酵過程でできるたんぱく分解酵素を医薬品原料として販売し始めた。

国際化については前史がある。1868年、つまり明治元年に153人の日本人がハワイに移民したとき、大量の醤油だるが船に積み込まれた。その後もハワイや米国西海岸に多くの日本人が移民として渡るが、醤油なしの生活は考えられなかった。

戦前は中国や東南アジアの各地に醤油工場があって、現地の在外邦人や日本軍に醤油を供給した。しかし、これらはあくまで外国に暮らす日本人向けであり、進出先の市場を開拓するという性質のものではなかった。劇的に事情が変わったのは戦後のことだ。

占領下の日本には米国人を中心に様々な国の人々が入ってきた。基地内に住む軍人・兵士は別として、ビジネスマンやジャーナリスト、学者らは日本人に交じって生活した。そうするうちに彼らは醤油を発見し、最初は日本料理に、それから洋食にも試してみるようになった。

会社は米国に醤油を売り込むため57年、西海岸のサンフランシスコに「キッコーマン・インターナショナル」を設立した。続いてロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴ、アトランタと支店網を広げていった。

スーパーに置いたコンロで醤油に漬けた牛肉を焼いて一口大に切り、つまようじに刺してお客さんに食べてもらうデモンストレーションを盛んにやった。コロンビア大学の経営大学院に在籍していたころ、私も夏休みなどにアルバイトで手伝ったことがある。

お客の鼻先に小さなステーキを差し出すと、大方は笑顔で受けとってくれる。そしてうまそうに食べ、醤油を買ってくれるのだ。塩コショウだけで食べるのが基本の米国人にとって、醤油味のステーキは新鮮だったろう。

こうして醤油は米国人に少しずつ親しまれていった。その意味では成功だったのだが、何しろ赤字続きだった。いよいよ温めていたあの構想を口にする時期ではないか。

ある日、管理課長席にいる根本繁さんの前に立った。

「アメリカに工場を建設し現地生産しないと本当の国際化にはなりません。社内に委員会を作って検討すべきだと思います」

根本さんはその言葉の意味を確かめるような目で、私を見上げた。
(キッコーマン名誉会長)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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