日本交通川鍋一朗

【川鍋】
外資系コンサルティング会社を経て29歳で父の会社に入ったとき、父から100%の権限を与えられ、「自分の好きなようにやれ」と言われました。

でも、いざ入って衝撃を受けました。役員のモチベーションは低く、「彼らの仕事への姿勢を変えるにはどのくらいの時間がかかるか分からない。ここにいてもどうにもならない」と思いました。

そこで入社数カ月後にミニバンを活用した会員制ハイヤーの子会社を立ち上げ、この事業にかかりきりになりました。正直なところ、このときは「5年くらいで子会社の株式を上場し、上場益で親会社を買おう」と思っていました。しかし、うまくいかず、赤字がどんどん積み重なりました。

私の自信はがらがらと音を立てて崩れました。

■ベンチャーとは異なり、多少のミスは吸収できる

【星野】
川鍋社長は名門ビジネススクール、米ノースウエスタン大ケロッグ経営大学院でMBA(経営学修士)を取得し、マッキンゼー日本支社でコンサルタントをしていました。そんな優秀な人でもファミリービジネスを継いだ途端、子会社をつくって失敗してしまった。何が違うのでしょうか。私もそうですが、多くの後継者は「やはり経営は甘くない」と感じるのではないでしょうか。

【川鍋】
振り返って分析すると、軌道に乗せるまでにある程度時間がかかる事業であったにもかかわらず、最初からかなり大きな規模でスタートしたことなどが赤字を招いたと思います。意識と現実にずれがありましたが、そのまま走ってしまった。

「経営者は失敗しそうになっても、誰も止めてくれない」と身をもって知りました。

【星野】
「ファミリービジネスとはどうあるべきなのか」を象徴する話だと思います。

事業の立ち上げには経営者としての能力、知識などを超えたリスクが存在します。成功には運も必要で、それだけ難易度が上がります。一方、ファミリービジネスには先代までに築いた基盤があり、後継者はそのベースを改善すればいいわけです。新事業と比べたら、成功の確率はずっと高い。

だからこそ、ファミリービジネスに入るチャンスのある人は「自分で一から事業を立ち上げるよりも、家に帰れ」と言いたい。ファミリーの一員にしかできない戦略、変革もたくさんあります。

【川鍋】
ほかの人が素手で戦うところを、ファミリービジネスの後継者は「いきなりガンダムに乗れる(大きな土台を利用できる)」面があります。継げる事業があるのはそれ自体がラッキーです。チャンスがあるなら、継がない手はないと思います。

さらに言えば、ファミリービジネスは事業基盤がある分、多少の失敗を吸収できます。子会社の失敗は私の転機になりました。

失敗によって、私への社内の視線は一気に厳しくなり、「今のままでは自分の人生は負けだ」と思いました。結果を出そうと、日本交通本体の改革プロジェクトを10件ほど次々に立ち上げました。

と言っても、「本気になった」というような、格好いいものではありません。「これはやばい」と思う中で、ほかに何も選択肢がなかったのです。

ハイヤーの赤字取引見直しで成果が出始め、私にとって日本交通で初の成功体験になりました。ベンチャー企業は一度の失敗が経営を左右しますが、ファミリービジネスは失敗を血や肉にして経営者が成長できます。子会社での経験はその後の改革に生きています。

【星野】
多少の失敗ならそれまでの蓄積で吸収できたという経験は私にもあります。この点はファミリービジネスの本質とかかわっています。ただし最初から、大学院で学んだ理論やコンサルタントの経験を生かしていたら、すぐに本体改革に取り組めた気もします。なぜ失敗するまで、本体の改革に挑まなかったのですか。

【川鍋】
入社してすぐ本体の役員のモチベーションの低さに頭を抱え、子会社に目を向けたため、本体については実は経営内容すらあまり見ていませんでした。

■社内のコンセンサスのとり方を工夫

【星野】
私も外で働いてからファミリービジネスに入りました。ある程度は覚悟していましたが、社内は「予想以上」の状況でした。ファミリー出身で【星野】姓の幹部が何人も会社の敷地内に住んでいて、「特権階級」として公私混同が日常になっていました。

すぐに改革したかったのですが、入社したとき、父は軽井沢のホテル協会長を務めるなどパワフルでした。会社を変えようと動いても、父は「そんなに甘くない」という立場で、何を言っても進みませんでした。

やがて、私に同調していたスタッフも「あなたもあの一族の1人だ」という見方をするようになったのです。壁はあまりにも高く、失望感もありました。「どうにもならない」と悟り、入社から半年で退職しました。

【川鍋】
親のスタンスに違いはありますが、最初からうまくいったわけではない点で共通しています。

【星野】
父の本音は分からないですがこうなると、「戻ってこい」と言えません。一方で事業の将来を案じたほかのファミリーメンバーから私に対して、「すぐに戻れ」という声が高まりました。父は反対しましたが、最終的に株主総会で6割の支持を得て復帰し、31歳で社長に就任しました。

【川鍋】
退職するまでと復帰してからでは、【星野】社長のやり方やファミリーに対する姿勢に変化はありましたか。

【星野】
退職までの経験で、会社を変える難しさ、人材不足に気付いていました。そこで復帰して社長になるときは「一人では無理だ」と思い、公認会計士として社外にいた弟に役員として入社してもらいました。私にとって弟が一番信用できると思ったからです。

社内のコンセンサスのとり方も工夫するようになりました。会社を離れた2年間にファミリー内のさまざまな株主と話しました。

社長に就任後も、改革するには私をサポートしてくれる株主の納得が必要なため、「ステップを踏まなければならない。長期戦になる」と覚悟しました。周囲のコンセンサスを得ることを少しずつ意識するようになり、自分でもかなり丸くなったと思います。

改革を始めると、それまでのやり方にこだわる社員の退職が相次いだりしましたが、退職前のような「何もできないストレス」はなくなりました。変えたいことに向かって進むため、気持ちはすっきりしていました。

それでも、改革を実現するには時間がかかり、例えばファミリーに会社の敷地外に出てもらうまでには、「星のや軽井沢」が開業する2005年まで十数年かかりました。

【川鍋】
失敗を経て、前向きになったのは私も同じです。

改革プロジェクトが動き出してからも銀行との厳しい交渉などさまざまなことがありましたが、自分の動きで会社の課題が解決できるようになりました。

リストラを進め、一時1900億円あった債務を返済していくうちに、最初は自分1人でしたが、次第に社員も動き始め、できることが広がっていきました。

■変革マインドが周囲を巻き込み、活力を生む

【星野】
特に外の会社を経由して入る場合、若い後継者は大きな変化を図ろうとします。でも、ファミリーは急激な変化に対して抵抗があります。

私の場合、軽井沢以外の運営施設を手掛けるなどしながら成功の実績を作っていき、ファミリーである株主のマインドを変えていきました。

【川鍋】
後継者の中には、ファミリービジネスに入るとき、「当面は様子を見よう」という人が時々います。しかし、様子を見るはずだった人も、さまざまな場面でお酒を飲んだり、楽しんだりしているうちに、それまでのやり方に浸かっていきます。すると、失敗できないという意識が強くなり、リスクを取らなくなっていきます。

【星野】
ファミリービジネスを継いでいる若い経営者に聞くと、入ってからおとなしくなる人が意外なくらい多い。しかし、親の言うままにやっていては、「いつか変えてやろう」という気持ちもだんだんなくなります。

やはり、後継者は最初からある程度リスクを取っても「変える気概」を持つべきです。そうでなければ、せっかく若い世代がファミリービジネスに入っても、新しいエネルギーになりません。

【川鍋】
私のように3代目になると、創業者が作ったビジネスモデルの有効期限もかなり切れているケースがあります。それだけに、ファミリーで培ったことを生かしながら、変革への強い意志を持って付加価値を追加することが必要になってきます。

【星野】
ファミリーで培ってきた強さに依存しているだけでは、事業を継ぐ立場として、責任を果たせません。大事なのはやはり、「自分の代で何を変えてやろうか」ということだと思います。

そうした意識があれば環境をうまく生かせるし、世襲に対して、周りの納得感は高まります。変革マインドは大事だと思います。

<日本交通川鍋一朗社長>
1970年 東京生まれ。もの午後頃ついた頃から将来なりたい職業は「日本交通の社長」。小学校から大学まで慶應。大学では体育会スキー部主将。大学卒業後、米ノースウエスタン大ケロッグ経営大学院でMBA取得。マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社入社。
2000年 日本交通に入社し、すぐに会員制ミニバンハイヤー事業の子会社を立ち上げるが失敗。結果を出さないといけないと考え、本体の小さな改革からスタート。成果が周囲に認められてから、大胆なリストラを断行。最大手のブランドを生かした新サービスにも着手。
2005年 3代目社長に就任。先代までの1900億円の債務を大胆な改革で立て直してきた。

茂木友三郎(12) 追い風

米国家庭に醤油が浸透
操業開始4年で累損一掃

米国現地法人、キッコーマン・フーズの決算は1973年8月期が当然の赤字だった。そして74年8月期も石油危機の影響をもろにかぶって大赤字になった。

しかし米国内の物価はある水準で高止まりし、次第に安定してきた。74年後半から徐々に醤油(しょうゆ)は売れ始め、75年8月期はついに単年度黒字となった。販売額は順調に伸びて77年8月期の時点で累損を一掃した。操業開始から4年。計画を1年前倒しで達成した。私はその年、42歳で海外事業部長となった。

輸入品ではなく米国企業の商品だから、消費者が身近に感じてくれるようになったのだろう。そして醤油をキッチンに置く家庭が少しずつ増えていった。

すでに書いたように米国人の多くは長い間、ステーキを塩とコショウで食べてきた。戦後になって醤油と牛肉が結びつき「Teriyaki」として急速に親しまれていく。文化には交流から融合へという段階があるが、醤油はいまや米国の食文化と融合したと言える。

米国現地法人が行った最近の市場調査結果を見ると「醤油を使った料理は何料理か」という問いに対し「アジア料理」に次いで「アメリカ料理」という答えが多かった。つまり醤油はアメリカ料理に溶け込んでいるわけだ。調理法は「ステアフライ」を筆頭に「バーベキュー・グリル」「ゆでる・煮込む」「焼く」「蒸す」と続いた。

「ステアフライ」というのは、日本の野菜いためのようなもので、最後に醤油で味つけする。手軽な定番家庭料理の一つで、米国人にとって醤油はあって当たり前のものになって久しい。

いまや醤油は全米のスーパーマーケットに置いてある。以前、家族でイエローストーン国立公園に旅行したとき、立ち寄ったドラッグストアにも醤油はあった。

77年に米国上院栄養問題特別委員会が報告書(マクガバン・リポート)を発表する。食生活の改善を通じて、当時米国で問題になっていた心臓病やがんといった病気を予防するためのガイドラインを示したのが、このリポートだった。

簡単に言うと脂肪やコレステロール、砂糖や塩分の摂取量を減らすべきだとの内容で、バランスのいい食事を心がけるよう勧告した。

リポートは専門家を通じて米国人の食生活に影響を与えたが、その過程で穀物や魚を多く食べる日本人の食生活が連想されたのだろうか、後の日本食ブームの下敷きになった可能性がある。醤油にとって悪い話ではなかった。

直近の決算で当社は売り上げの45%を海外で稼いでいる。そのうち75%が米国だ。営業利益で見ると69%が海外で、うち66%が米国となっている。米国では製品売り上げのほとんどが醤油で、30年間にわたって2ケタ成長を続けた。生産能力も当初の9000キロリットルから、98年に稼働したカリフォルニア工場を合わせて14万キロリットルになっている。

あのとき米国での生産という決断をしなかったらいまのキッコーマンは存在せず、その後のグローバル展開はなかったろう。千葉県の片隅で醤油を細々と生産する企業のままだったかもしれない。

来年、米国の生産現法は創立40周年を迎える。私にとって感慨深い年になる。(キッコーマン名誉会長)

茂木友三郎(11) 大赤字

石油危機の中、体に異変
病み上がりで針のむしろ

第1次石油危機が引き起こした波浪は、アラブ産油国から原油を輸入しているすべての国に押し寄せた。米国でも物価が2割がた上がり、金利も急騰した。

米国法人のキッコーマン・フーズは1973年6月操業開始で8月決算だから、その年の売り上げはほとんどない。最初の決算が赤字になることはわかっていた。しかし問題は、石油危機の影響がその後、どう出るかだ。自分の体調に異変を感じたのは、そんな心配をしていた74年2月のことだった。

2年前から月に1度のペースで渡米していた。日本に戻って時差ボケが出ないようにウォルワースの現法で夕方4時まで仕事をし、車でシカゴに向かう。オヘア空港からロサンゼルス空港に飛んで2時間待つとサイゴン行きのパンナム便があった。

それに乗り途中のハワイで1泊して、翌朝の日航機羽田便に乗る。サンフランシスコ経由のルートもあったが、この方が時間はかかっても、体は幾分か楽だった。

だが強行軍が続いたせいだったろうか。ずっとたちの悪い風邪に似た症状が出続けていた。微熱とせきが止まらない。それが急に高熱に変わった。私は「マラリアではないか」とひそかに疑った。

ロスからサイゴンに向かう便のエコノミークラスの乗客は、私を除くほぼ全員が迷彩服を着ていた。ベトナムの戦地に向かう米兵だった。そのころ米国でマラリア患者が出たという話を耳にしていたから、飛行機の中で米兵から感染したと思っていた。

妻の実家は鎌倉の病院だった。そこで診察してもらったら急性肺炎と診断された。40度以上の熱があって顔色は悪い。すぐに入院となった。

入院してから数日後、最初から我が社に好意的だったウォルワースの町議会議員から見舞いのカードが届いた。私はそれをしばらく握ったまま、温かい気持ちに包まれた。

だが後に妻から聞いた話だと医師は「もう1種類の薬を試すが、それでだめだったら覚悟してほしい」と言ったのだという。当時の私は数えで40歳。男の本厄に近づいていた。3人の子どもを抱え、妻は万一のことを考えて眠れなかったのだと打ち明けた。

幸い最後の薬が効いて徐々に持ち直した。それでも入院は2月下旬から40日余に及んだ。周囲は本気で心配していたのに本人ばかりは意外にのんきで、病室で海外事業部員の相談に乗ったり米国からの電話に応対したりしていた。時間だけはあったから東洋経済新報社に頼まれていた「海外現地生産のすすめ方」という本の原稿を書き上げた。

キッコーマン・フーズの2年目の決算書が届いたのは、その年の10月のことだった。事前に報告を受けてはいたが、いざ印刷された数字を見ると、改めて赤字の大きさがズシリとこたえる。

長期計画を作っていたころ、私は社内の赤字事業を批判し、改善を求め続けていた。いまは立場が逆転し私自身が赤字事業を背負っている。このままでは「3年目から黒字転換。5年目で累損一掃」と言ってきた私の立場はない。病み上がりの身で、針のむしろに座っている気分だった。

正面切って難詰されたわけではない。しかし「大丈夫か?」と心配してくれる上司の言葉にも、ただうなずくことしかできなかった。その冬のボーナスは入院で長期欠勤したため大幅に減額された。(キッコーマン名誉会長)

茂木友三郎(10) 落成式

招待客を飛行機2機に
住民向け工場公開に1万人

キッコーマンの米国現地法人「キッコーマン・フーズ」の本社工場が完成しグランド・オープン(落成式)を迎えたのは1973年6月16日のことだった。資本金を上回る巨費を投じた事業。文字通り社運がかかっている。

式典には日本国内の主立った得意先を招待し、招待客は飛行機2機に分乗してシカゴ・オヘア空港に降り立った。米国内の販売店も招待した。キッコーマンからは茂木啓三郎社長、佐平治常務ら経営陣が顔をそろえた。

私は受け入れ責任者として十数人のスタッフと2週間前に先乗りした。記念夕食会の会場はレイク・ジェネバという町のホテル。招待客用に100室以上を確保した。

その日、運悪く竜巻警報が出ていた。ジェネバ湖に船を浮かべて招待客を接待していると、突如として暗雲が広がり雨が降り出した。「すぐに船を戻せ」との指示が飛び、船は全速力で波止場に着岸した。竜巻はその直後に襲ってきたが、幸いなことに大きな被害はなかった。

式典は工場の中の倉庫が会場だった。ルーシー知事や当時の牛場信彦駐米大使の列席を得て、神式のおはらいとリボン・カッティングという日米折衷のセレモニーは無事に終わった。

そこに部下が来て耳打ちした。「地面がぬかるんで車が出せません」。駐車場に入りきれず、空き地に止めた車のタイヤが雨で緩んだ地面で空転するらしい。ずぶぬれになりながら日米のスタッフが車を押して動かした。

夕食会は工場から車で20分ほどのホテルで開くのだが、そこへ通じる道は竜巻で倒れた木でふさがれているとの連絡が入った。「どうします? 予定通り始めますか?」と問う部下に「開始時間を少し遅らせよう」と答えた。

午後6時開始予定の夕食会は30分ほど遅れて始まった。招待状を出していたのは1200人。しかし数えてみると1300人も来てくれていた。物珍しさということではなく、地元にできた新しい工場への期待の表れだった。

予想外のことがもう一つあった。落成式の当日と翌日に地元住民を対象に工場を一般公開した。問題はお土産を何人分用意するかだ。数年前、近くで操業を始めた別の食品工場の一般公開には2000人が訪れたという。そこで多めに見込んで5000人分を用意していた。

しかし実際には1万人を超える人々が見学に来た。もともとは1人1個ずつ渡すはずだった醤油(しょうゆ)などが入ったお土産を1家族1個にして、どうにか乗り切った。

一連の行事が終わった。私は静けさを取り戻したウォルワースの町で思った。町民集会で工場建設への反対意見が出たことは、実は幸運なことではなかったろうか。

だからこそ私たちは住民との融和と共存を第一に考え、できるだけ多くの人々に会って理解を求めた。その結果、地元に歓迎されて操業のときを迎えることができたのだ。「雨降って地固まる」。そんなことわざが浮かんだ。

ところが同年10月、第1次石油危機が世界を襲った。日本国内で「狂乱物価」が猛威を振るい、物資不足の不安を解消するために、政府からの要請で業界は醤油を緊急出荷する事態になった。

「米国の現法は無事で済むだろうか」。豪雨の予感がしてならなかった。(キッコーマン名誉会長)

茂木友三郎(9)現地法人

地域との共生最優先
星条旗掲げ、人事部に米国人

地鎮祭も終わり、いよいよ工場の建設に取りかかる。建設会社は立地調査を依頼していたオースティン社にし、設計にあたってシカゴ・オヘア空港に近いオフィスに数人の技術者を派遣した。

1972年秋、工事が本格化すると本社からの技術者は30人ほどになり、モーテルを宿舎にして追い込みに入った。その年の暮れ、佐平治常務と現地に行き、駐在予定者を含め約50人を集めてクリスマスパーティーを開いた。慣れない米国暮らしの緊張をほぐし、結束を固めるためだ。

後でわかったことだが、我が社はソニー、吉田工業(現YKK)とともに対米進出の第1陣だった。しかも食品企業としては初の工場だ。

当時のことだから、英語に堪能な社員はほとんどいない。現地に派遣する社員の基準は「英語より仕事」とした。

技術者で経理にも明るい製造管理部長の村井豊次さんをトップに7人の駐在員、7、8人の技術指導員を人選した。若い社員が中心で、会社にネーティブスピーカーの英語教師に来てもらい、半年間にわたって朝から晩まで英語の手ほどきを受けた。交代要員は4カ月間の課程で英会話学校に通った。

年末から醤油(しょうゆ)の仕込みを始める。それに先だって10月に駐在社員全員が赴任した。みんな家族帯同で、赤ん坊をねんねこ半纏(はんてん)に包んで背負い、初めての国際線の飛行機に不安そうに乗り込む奥さんの姿もあった。海外転勤を受け入れるかどうか、親族会議を開いた社員もいたという。そんな時代だった。

工場建設と稼働に向けた準備は着々と進んではいたが、私は依然としてウォルワースの町民集会で出た反対意見のことを考えていた。地元は工場建設を認めてくれた。そんな町の人々全員に「キッコーマンの工場ができてよかった」と思ってもらうためにはどうすればいいのだろう。

共存、企業市民、現地化。どんな言葉でもいいが、要は地域に溶け込み、地域とともにある工場にすることだ。

そのために「キッコーマン・フーズ」という現地法人を設立しマルコム、トム、ミックにも役員になってもらった。キッコーマンの米国工場ではない。米国企業キッコーマンの工場になり切るのだ。いまでこそ目新しいことではないが、当時の私たちはそう心に決めた。

具体的に現地化の方策を考えた。まず地元企業との取引を優先する。工場には星条旗を掲げる。外国に住む日本人はどうしても固まりがちだが、キッコーマン社員は可能な限り分散して暮らすことで、一人ひとりが地域社会に溶け込むようにする。

ルーシー知事から有識者による経済開発委員会のメンバーにとのお話を受けたとき、私は喜んで引き受けた。社会参画の貴重な機会になると思ったからだった。

現地で優秀な従業員を採るため、まず人事部長に経験豊富な米国人を採用した。醤油工場は装置産業で発酵の仕事は人間ではなく微生物がやってくれるから、現地採用はそう多くはなかったが、いい人材ばかりが集まった。

採用第1号は日系の女性だった。彼女は出産の世話などを通じて日本人社員の奥さんたちの評判も良く、30年も勤めて退職した。退職の手続きで入社の折に10歳若く申告していたことがわかるのだが、それはずっと後の話。(キッコーマン名誉会長)

茂木友三郎(8) 拒否権

町議会が行使せず安堵
72年1月、大寒波の中地鎮祭

郡議会の公聴会が終わった。腕時計を見ると午後10時になっていた。公聴会を受けた郡議会の決定は1971年12月10日過ぎと聞いている。果たして我が社の工場建設は認められるのだろうか。

日本に戻ってほどなく、建設予定地のウォルワースで町民集会が開かれた。地元ウィスコンシン州のパトリック・ルーシー知事が自ら集会に出て「キッコーマンは我が州にふさわしい企業だ」と発言してくれた。

集会では挙手による賛成が反対を大幅に上回ったという。だが、賛成多数になったことへの安堵(あんど)よりも、反対する人がいたことの方が気がかりだった。

ヤマ場である郡議会が開かれたとき、私はマルコムやトムたちと傍聴席にいた。採決で1人を除いて議員全員が賛成を表明した。数日後にはルーシー知事がわざわざ歓迎の記者会見まで開いてくれた。

ともかく一安心して16日に帰国した。羽田空港に部下が迎えに来ている。「おめでとうございます」「ああ、郡議会の方は……」「違いますよ。お子さん、お誕生おめでとうございます」

めったなことでは国際電話などかけない時代のこと。予定日よりかなり早く3番目の子どもが生まれていたことを、そのとき知った。自宅に戻って荷物を置き、病院に駆けつけた。男の子だった。

2男1女を得て、我が家はにぎやかになった。しかし私の心には、なおも町民集会で出たという反対する声が重くのしかかっていた。

町議会には拒否権がある。反対の動きが広がって拒否権を行使されれば、いままでの苦労は水の泡になる。ほかの場所を探すとしても「ウォルワースで拒まれた企業」という烙印(らくいん)は消えない。

拒否権行使の期限はその年の12月末だった。日本で仕事をしていても落ち着かない。会社や自宅の電話が鳴るたびに「トムからの火急の知らせではないか」と胸が騒いだ。

眠れない夜を重ねるうちに何ごともなく年が明けた。つまり町は拒否権を行使しなかったということだ。拍子抜けするような、それでいて喜びが足元から染みてくるような奇妙な気分の正月だった。

だが考えてみると大変なことではないか。キッコーマンが米国に工場を建設し、本格的な海外展開に乗り出す。自分が敷いたレールの上を、会社は社運を賭けて走り出す。

72年1月18日、現地で地鎮祭を執り行うことになった。シカゴに日本人の神官がいることがわかって神事を依頼した。そのときウォルワースは50年ぶりの寒波に見舞われていた。私は準備のため1週間前に乗り込んだのだが、ホテルからわずか500メートルしか離れていない郵便局まで歩くだけで凍えた。

十分に着込み、分厚いコートを重ねているのに、素肌でコートを着ているように思われた。郵便局で暖を取ってからホテルに戻り、すぐに熱いシャワーを浴びた。

地鎮祭当日もひどい寒さだった。茂木啓三郎社長は当時72歳。「年配者は息を吸っただけで肺炎になる」とさえ言われる寒気の中に立たなければならない。せめて風だけは防ごうと会場をバスで囲んだ。全員がコートにマフラー、手袋、帽子、耳当てという完全装備で神事を済ませた。

ホテルに会場を移してパーティーが始まったとき「さあ、これからだ」と私はつぶやいた。(キッコーマン名誉会長)

茂木友三郎(7) 公聴会

事前の住民説明に奔走
当日、草の根民主主義を見る

議員3人によるウォルワースの町議会は午後7時に始まって10時ごろ終わった。その間、一言も聞き漏らすまいと肩に力が入り、多方面にわたる矢継ぎ早な質問に応じるのは骨が折れることだった。

議会が終わったとき、私たちはみなぐったりと疲れていた。疲労と緊張をほぐすためにホテルのバーに入った。この日の質問の数々を振り返ってみると、議員たちは工場が進出してくることの利害得失を事細かく計算していることがよくわかる。

そうならば町民に醤油(しょうゆ)とは何なのか、キッコーマンの工場がどんなものか、よく理解してもらうことが必要だ。農地の用途変更に関する許認可権は郡にあるが、町は拒否権を持っているから、最後は町民の説得が鍵を握る。

翌月には郡議会の公聴会を控えていた。「住民や議員にわかりやすく説明するためのスライドを作ろう」。皆でそう決めて、私は帰国の途に就いた。

休む間もなく、部下の染谷光男君(現社長)とスライド作りに没頭した。醤油の製造工程を詳しく説明するための写真を何枚も撮った。これで住民が心配する公害に関しては、煙も汚水も出ないことを強調する。原材料は米国の農民から買うことも知ってもらおう。醤油造りは発酵技術を使った農業関連産業であることも理解してもらいたい。

1971年10月下旬、染谷君と米国に向かった。公聴会は2週間後に迫っている。私たちは、どこかで集まりがあると聞けばスライドを持って訪れ、話を聞いてくれる農家は個別に訪問した。

ウォルワースの住民はドイツ、スイス、北欧系が多かった。難しい顔をする人も少なくなかったが、ともかく私たちは握手を繰り返した。

郡議会企画委員会が主催する公聴会は郡都エルクホーンの裁判所で開かれた。郡議会議員も昼間はそれぞれの仕事があるので、始まったのは午後7時からだった。

大きな部屋のステージの前に10人ほどの議員が座り、ずらりと並んだベンチの最前列に私たち、後方には約200人の住民が居並んでいて、順次発言することになっている。その中に交じっていた小さな子どもたちが、私たちの顔をのぞき込んではニコニコと笑った。日本人が珍しかったらしい。時間が来て公聴会が始まった。

「では農地の用途変更についてご意見を」という進行役の声に応えて最初に立ち上がったのは女性だった。「米国ではどんどん農地が工場に転用されています。このままでは私たちはロッキー山脈の麓を耕して農業を続けることになります」と言った。すぐに男性が挙手して発言する。

「いまの意見はおかしい。国内には休耕地がたくさんあります。心配はいらないのではないですか」。これを別の発言が追いかける。「私たちは自然に育まれて生きてきました。この環境を子孫に伝えるためにも工場建設に反対です」

「それはそうですが、我が国の工業化が進むのは当然のことです。どうせ工場ができるのならキッコーマンのようなアグリビジネスを歓迎すべきではありませんか」

上半身をひねり後ろを見ながらやり取りを聴いていて、私は一種の感動を覚えていた。学校で教わった草の根民主主義。それがいま、眼前で繰り広げられている。(キッコーマン名誉会長)

茂木友三郎(6) 町議会

地元が工場建設に反対
現地に飛び疑問に答える

工場の建設用地はミシガン湖の西に位置するウォルワースという町のトウモロコシ畑だった。広さは190エーカー(23万坪強)ある。これを工業用地に用途変更する許可が下りたら買う契約になっている。

建設地が決まった翌日、私はコンサルタントのマルコムとウィスコンシン州では有名なゴッドフリー・ネシェック法律事務所を訪ねた。トーマス(トム)・ゴッドフリーさんは40代後半、ミルトン(ミック)・ネシェックさんは40歳を出たくらいだった。

「今度、州内で工場を建設することになりました。ついてはそれに関する法律事務をお願いしたいのです」と言うと「わかりました。ところで場所はどこですか?」との問いが返ってきた。

「ウォルワースの農地です」。私の答えにトムの表情が曇った。「リゾーニング(用途変更)の必要があることは知っていますよね。あれは大変なんですよ」と言う。隣でミックもうなずいた。

日本でも農地転用は簡単ではないから事情はわかっているつもりだったが、言われるほど難しいとは思っていなかった。2人の手腕に任せることにして私は急ぎ帰国した。

1年半後に操業開始。予定ではそうなっている。日本で工程表を作り、設備の設計をしなければならない。日本橋小網町にあった東京出張所と野田の本社を行き来する日々が始まった。

醤油(しょうゆ)は大豆と小麦を麹(こうじ)にし、発酵させて造る。日本とは気象条件が違う米国中西部で国内と同じ品質の醤油を造る技術的な検討は済んでいたが、米国で手に入らない特殊な装置が多いから、それらは日本から運ぶ。現地で調達できるものもあるし特注する部品もある。

1971年10月初め、野田の工場の研修室で会議中に電話がかかってきた。電話に出た社員が「アメリカから急ぎの電話だそうです」と私を呼ぶ。受話器を受けとるとトムの声が響いた。

「大変です。地元が工場建設に反対しています。こちらに来て町議会で説明してほしい」。まったく予期していないことだった。佐平治常務と石川部長に報告すると、2人とも「それはすぐに行かなきゃだめだ」と言う。

翌日の夕方、羽田から日本航空のサンフランシスコ行きに乗った。米国内線でシカゴに向かい、そこでマルコムと合流した。車でウォルワースのフォンタナという町に行くとトムとミックの両弁護士が硬い表情で待っていた。

私は2人に「日本企業だからですか」と聞いた。「違います」と言う。「醤油を知らないからですか?」「それでもありません」。では何が理由なのか。「公害による環境破壊を心配して、工場自体に反対する声があります。ひとつ認めると次々にできるのではと警戒する人もいます」

翌日、町議会に出た。町の人口は1600人で町議は3人しかいない。町長も議員を兼ねている。全員が昼間の仕事を持っているから、議会は夜の7時に助役の家の応接間で開かれた。

「リゾーニング申請について審議します」と町長が言って議会は始まった。「従業員数はどれくらいになりますか」「原材料はどこから調達するのですか」「設備投資額は?」「工事期間中、道路は壊しますか」

穏やかだが鋭い質問が私たちに降り注いだ。(キッコーマン名誉会長)

茂木友三郎(5) ウォルワース

社長からゴーサイン
適地は中部、投票で全員一致

銀行の意見書には「設備能力を下げるべきだ」と書いてあったが、5万石を4万石にしても設備投資額はあまり変わらない。それよりも銀行が工場建設に反対していないことがありがたかった。

石川浩海外事業部長に「年間9000キロリットルでいきましょう」と言うと「そうだな」とうなずいた。つまり石川さんは取締役会で当初案を推してくれるということだ。

1971年3月下旬の取締役会に3度目の稟議(りんぎ)書を提出した。投資額が資本金を超えるプロジェクトだ。米国に工場を建設することに対して経営陣が慎重になるのはわかる。といって何もしなければ将来の展望は開けない。

取締役会ではやはり活発な議論にはならなかったらしい。乗り気でないということではなく、検討するのは3回目。もはや社長が決断する段階だ。取締役会から戻った石川さんが私を呼んだ。「工場建設が決まったよ。しかも9000キロリットルだ」

ついに社長のゴーサインが出た。一瞬だが「もし失敗したら」という思いがよぎり、私の背筋が自然に伸びた。いや失敗は許されない。まあまあという結果も許されない。求められているのはパーフェクトな成功だった。

さあ、建設地の選定だ。米国を東海岸、中部、西海岸に分けて考える。東海岸は主要マーケットから遠い。西海岸は日本人や日系人が多く住んでいるので適地のように見えるが、それが逆に良くないように思えた。つまり「親離れ」しないというか、本当の意味で米国の工場にならない気がした。

中部は確実な需要が見込まれる西海岸にも、これから伸びそうな東海岸にも輸送の便がいい。私は中部にすべきだと考えたし、コンサルタントのマルコム・ペニントンも同意見だった。取締役会は私たちの意見をいれ、候補地は中部から選定と決まった。

マルコムが建設会社の立地調査部門と選定作業を始めた。彼から毎日手紙やテレックスで状況を知らせてくる。ウィスコンシン州とイリノイ州に絞られ、最後まで残った6カ所はすべてウィスコンシン州内の候補地だった。

「社長に来てほしい」というマルコムの要請で茂木啓三郎社長、佐平治常務以下6、7人の経営幹部が直接現地を見ることになった。私たちは先乗りし、ニューヨークの北にあるマルコムの別荘で幹部に説明する資料をまとめた。

9月初め、シカゴ・オヘア空港から現地入りした経営陣は2日かけて候補地を視察した。候補地はデイン郡とウォルワース郡に集中している。地元の電力会社が大型ヘリを提供してくれたので、上空からもじっくり観察できた。

3日目。ホテルの会議室に全員が集まった。それぞれが感想を述べた後で、社長は「君たちの意見を参考にしたい。一番いいと思った地名を挙げてほしい」と言った。

6カ所の候補地に番号を振ってボードに示した。それから投票用紙代わりにメモ用紙を配る。投票には私たち先乗り組も加わった。やがて二つ折りにしたメモ用紙が私の手元に集まった。1枚ずつ開いていく。

思わず声が出そうになった。みんなが示し合わせたように同じ番号を書いていたからだった。「全員がウォルワース郡のウォルワースです」。私が発表すると、部屋に小さなどよめきが広がった。(キッコーマン名誉会長)

茂木友三郎(4) 保留

稟議書作成へ現地調査
巨額投資に取締役会 慎重

1970年11月、米国での現地生産に向けてキッコーマンの調査団が羽田をたった。団長は村井豊次製造管理部長。海外事業部グループ長になっていた私と3人の社員が従った。

その2カ月前、私は予備調査のため渡米していた。コンサルタントのマルコム・ぺニントンと集めたデータを基に、需要を予測しコストを計算した。その結果、年産9000キロリットルの生産能力を備えた工場を建設した場合、5年ほどで累積欠損が解消できるという見通しが出た。「本調査の価値あり」。それが私の結論だった。

調査団派遣に先立ってマルコムからいくつかの州に問い合わせの手紙を送っていた。もし工場を建設したらどんな優遇措置が受けられるのかを事前に知っておきたかったからだ。最も早く返事が来たのがミシガン湖に接する中西部のウィスコンシン州だった。

シカゴ・オヘア空港に着いた私たち5人をマルコムが待っていた。荷物を彼のステーションワゴンに積み込んで市内のホテルに入った。

翌日、ウィスコンシン州職員のラスムッセンさんが案内してくれることになっている。彼は「朝の5時に迎えに来ます」と言った通り、まだ真っ暗な中をやって来た。手に6人分のコーヒーを持っている。それをホテルのロビーで飲んでから出発した。

イリノイ州からウィスコンシン州に入ったのが午前7時過ぎ。昼食をはさんで工場適地を10カ所以上回ったのだが、ラスムッセンさんはその間、ずっと各適地の特徴と州の優遇策を語り続けた。

夕食を終えたのが午後10時半ごろだったろうか。もう終わりかと思っていたら「まだ案内する所がある」という。結局、シカゴのホテルに着いたとき、時計の針は午前2時を指していた。州職員といいながら民間のセールスマン顔負けのサービスだった。

翌71年2月下旬、いよいよ取締役会にかける段階を迎えた。総投資額、採算予測をはじいて石川浩取締役海外事業部長に相談した。

年間9000キロリットルの製造ラインを建設する。150ミリリットル瓶で6000万本。日本風に言うと5万石で「これくらいならペイするだろうと」思われた。「5年で累損一掃」という予測を強調し、石川さんから指摘された点を手直しして稟議(りんぎ)書を提出した。

しかし戻ってきた稟議書は「保留」のところに丸印が付いていた。後で聞いたところだと、賛成意見も反対意見もほとんど出なかったという。なにしろ当時の資本金36億円に対して投資額は40億円。そんな投資にもし失敗したら誰が責任を取るのか。

だが私は半月後の取締役会に同じ稟議書を提出した。結論は再び「保留」だったが、今度は役員の誰かが発言した。「銀行の意見を聞こう」

ほどなく、銀行の担当者から電話があった。「現地生産について意見を求められているのですが、内容が全くわかりません。茂木さん、資料を見せてください」と言う。

担当者と会って資料を前に計画の概要を話すと、しばらくして意見書が届いた。内容は私の説明を下敷きにしたものだったが、銀行らしく慎重に「設備能力を4万石に下げるべきだ」と書いてある。

銀行も軽々に賛成・反対を唱えられることではない。といって「わかりません」とも書けなかったのだろう。(キッコーマン名誉会長)