米沢富美子(26) 新法則の発見

太平洋上空で「これだ」
研究室総力戦、1年かけ論破

夫の他界の悲しみで論文ゼロとなった年が明け、科研費の研究は1997年春に最終の3年目に入った。全国の200人の研究者たちは、それぞれ成果を上げている。科研費の目的はそれで十分に達成されつつあったが、自分の研究グループから卓越した成果を出さないことには私の気がすまなかった。

春に研究室の大学院生を集め「成果が出るまでは非常事態とする」と宣言。午前3時に物理学科の廊下を歩くと、明かりがついているのは私の部屋と米沢研の院生の部屋だけという状態が続く。

低密度の液体セレンにおける電気伝導度の振る舞いは、常識とは逆になる。これは実験から指摘されていた。世界中の理論家がその謎に挑んでいたが、未解決である。

「この謎は必ず我々の研究室で解明する」と決め、院生の大谷寛明君と卒業生の山口俊夫君の協力を得る。様々な理論モデルを考え、入力変数を網羅的に変えて計算機で答えを求める。議論しながら消去法で可能性を絞っていく。

夏になっても絞りきれない的がかなり残る。計算結果のプリントアウトは山のようになったが、それらを抱えて米国行きの飛行機に乗った。国際学会に出席するためだ。

機上で私は一睡もせずに計算結果を検討した。乗客は全員寝ている時間で、乗員は「飛行機でこんなに働く人は見たことがない」と言い、飲み物や食べ物を運んでくれる。

何時間かが過ぎた時、数値データの中から一つの法則が浮かび上がるのが見えた。「これだ!」。私は思わず叫んだ。謎は解けた。雷に打たれたあの感触が体を貫き、手が震える。この法則に基づき金属―非金属転移の新機構を発見したのである。若い日のCPA理論に匹敵する大仕事だ。

太平洋上空で発見した法則はおよそ次のようなことだ。庭の飛び石を伝って向こう側まで行くことを考えよう。人間を電子とすると、石が密に置かれていれば飛びやすく電気も流れやすい。石が疎になると飛びづらいから電気も流れにくい。それが普通だ。

ところがセレンの場合は違う。飛び石の間に「補助道」ができ、石が疎なほど「補助道」は進みやすく、電気も流れやすいことがわかったのだ。

学会で意気揚々と結果を発表すると、欧米の大御所が「そんなはずはない」と反論する。剣幕(けんまく)に押されて皆も黙ってしまう。常識に反する事実を理解するのは大先生でも容易でないのだ。「頭の固いオヤジどもだ」。そう言えばアインシュタインも最後まで量子力学を理解しなかった。

それから1年、私は説得用のデータを増やしつつ、世界中を行脚する。米国物理学会の会長や、英国やドイツの権威に直接会って説明した。

98年夏にドイツで開かれた国際学会で、私は招待講演の機会を得た。1年の経験でどんな反論も論破できるようになっていた。講演を終えると割れるような拍手だ。心の中でガッツポーズを取る。

「質問を」。座長の声に手を挙げたのはオーストリアのある教授。必ず文句をつける常連だ。私は先制攻撃のつもりで「あなたが何を言おうと、我々の理論は完璧です」と壇上から居丈高に言い放った。教授は「フミコ、お願いだから僕の言うことを最後まで聞いてくれ」と言い、「君の理論は本当に完璧だ」と意外な褒め言葉。会場は大爆笑。学者冥利に尽きる瞬間だった。

(慶応大学名誉教授)

米沢富美子(17) 京大基研

湯川先生「物理は一つ」
「専門バカ」落書きも誇りに

助手として京大の基礎物理学研究所(基研)にいる5年の間に、二女と三女を出産した。「不規則系の新理論」の論文が世界的に注目され、目の回るような毎日が続く。科学雑誌から執筆依頼が来るようになったのもこの頃だ。

当時、基研の所長は湯川秀樹先生だった。研究室は素粒子が2つ、原子核と物性物理が各1つで、計4研究室。それぞれに教授、助教授、助手がいて、所員は12人になる。

所員以外にも、国内外からの短期、長期滞在者が常時何人もいて、所員の部屋やロビーで最先端のテーマを議論している。外部からの滞在者は名前を聞けば「ああ、これがあの著名な……」と思い当たる人ばかりだ。

理論物理学者たちは現在よりずっと燃えていたと思う。研究所全体を高揚した空気が包んでいた。

物理学は対象とする素材で分類されることが多い。原子や電子を素材にする「物性物理」、原子の中の原子核を素材とする「原子核物理」、クォークなどの素粒子を対象とする「素粒子物理」などが大ざっぱな分類である。大きい方は、地球物理、天体物理、宇宙物理が挙げられる。

しかし湯川先生は「物理は一つ」と主張されていて、専門に閉じこもることを良しとされなかった。週に1度の研究所のゼミも、専門と関係なく全ての所員と滞在者が参加して、交代で話をする。おかげで私も門前の小僧よろしく、他の分野で起こっていることをリアルタイムでフォローできた。

自分がゼミの発表担当の時は、何日も前から準備を重ねた。聴衆が前述の顔ぶれだから、下手なことをしゃべるとつぶてのような質問が飛んでくる。鍛錬の道場みたいなもので、得難い経験をした。

湯川先生は物理に関しては厳しいが、普段はやさしかった。昼は10人ほどの所員や滞在者が出前のお弁当を取り、湯川先生と一緒に所長会議室の長いテーブルを囲む。なぜか先生の真向かいの椅子が私の指定席になった。先生は話し好きで、本当に楽しそうにあれやこれやの話題を出される。物理や哲学の話ばかりでなく、政治や経済や世間の噂なども議論した。

12時50分くらいになると、皆さりげなく部屋を出ていく。先生の真ん前で相づちを打っている私は立ちそびれ、気がつくと先生と2人きりになる。「米沢さん、もうちょっとかまへんでしょ」。1時頃に立とうとすると、先生に引き留められる。夕方には娘たちを迎えに保育所まで行かなくてはならない。午後は研究のための貴重な時間で1分1秒も惜しい。「かまへん」ことは全然ないのだが、なかなか言い出せない。

差し向かいで小一時間、先生は雄弁に語られる。どの話も面白いけれど、私は「いつ終わるのだろう」と上の空で聞いている。今思うと、もったいないことをした。

1968年と翌年は学園闘争が広がった。京大でも学部のストライキや学生間の衝突で、教育や研究が滞る。

「専門バカの巣」。学生たちが基研の外壁にペンキで大書していった。それを見た湯川先生は「おお、こらえらい名誉なこっちゃ」と一言。バカと言われるほど専門に徹するのは誇りであるとお考えになった。この一言で、落書きは1年ほど消されなかった。

(慶応大学名誉教授)

米沢富美子(16) 不規則系

理論を言葉に、フル回転
同時期の論文「頭のぞかれた」

1967年、二女を妊娠中に「不規則系の新理論」を発表した。この理論はすぐに世界的に認められ、私の出世作となる。

前回述べたように、新理論のきっかけは夫の一言だった。育児と妊娠の同時進行で仕事が停滞していたとき、夫は過酷な言葉で私に活を入れた。それで私は発奮してフル回転に切り替え、修士論文以来続けてきた「不規則系」の研究に取り組んだのだ。

しかし最終段階まであと一歩のところで、なかなか視野が開けない。1日4時間睡眠で机に向かっていたある日、新しいアイデアが突然ひらめいた。「これだっ!」。雷に打たれたような衝撃に、体の震えが止まらない。

興奮の第一波が過ぎると、次にこれを論文に書くことが今回はとりわけ難しいと気づいた。数学的にかなり複雑な内容だ。自分の頭で理解することと、それを人に分かってもらうことには、大きな隔たりがある。

大学院時代の指導教授、松原武生先生の口癖を思い出した。全ての精力と時間を3等分して「テーマ探し」「実際の研究」「論文書き」に配分せよという教えである。2番目の「実際の研究」が全てだと思い込む傾向があるが、本当は、最も適切なテーマを掘り出す1番目と、成果を確実に発表する3番目も同じくらい重要だとたたき込まれた。

フル回転モードを持続して論文を仕上げた。この理論は「コヒーレント・ポテンシャル近似」、頭文字をとって「CPA」と名づけられ、広い分野で標準的な近似として用いられるようになる。

碁盤上の碁石を原子に見立てて、この理論を説明しよう。縦横19路の線の交点は361個ある。全ての交点に白の碁石が整然と並んでいるのが「結晶」だ。交点が黒の碁石で埋め尽くされた場合も結晶であることに変わりはないが、白とは別の結晶になる。

一方、交点に白と黒の碁石が不規則な並びで置かれたものが、「不規則2元合金」である。この合金の中で電子は散乱され、電子の絡むもろもろの物理量が結晶とは違ってくる。その様子を調べるのが研究の目的だ。

新理論は、361個の全交点がいわば「灰色」の碁石で占められていると考えるもので、多くの実験結果をうまく説明できる。ただその「灰色さ」が鍵で、白石と黒石の数の割合を反映した「複素数」の効果を持つ灰色になる。複素数とは実数部分と虚数部分の両方を持つ数である。

私はこの複素数を数学的な解析から導いた。この理論に到達したとき「こんなことを思いつく人は、世界中に誰もいないだろう」と考えたが、実は米国の物理学者P・リースがほとんど同時に似た内容の論文を発表した。私は後にリースと会い、お互い「他人に頭の中をのぞかれたような気がした」と語り合い、盛り上がることになる。

私やリースの論文と同時期に、米国とカナダの科学者が「物理的考察」から独立にこの複素数を求めた。奇しくもわれわれ4人は28歳と29歳だった。

ノーベル物理学賞受賞者のP・アンダーソンはこの理論を「静かだが過激な革命」と評した。

夫の激励がなければ、この仕事はできなかった。なんとも「手荒い激励」ではあったが、私は心から感謝している。

(慶応大学名誉教授)

米沢富美子(15) 夫の“激励”

「怠けてないか」に奮起
京都に家買い子連れ赴任

長女を妊娠中に2編の論文を発表した。「不規則系の電子状態」に関する修士論文の続編だ。この2編は次の大仕事へのステップとなる。

長女出産からほぼ半年後の1966年8月、京大基礎物理学研究所(基研)の助手に採用された。基研は湯川秀樹博士のノーベル賞受賞を記念して53年に設立された全国共同利用研究所第1号である。助手のポストも公募制で、24人の応募者の中から選ばれた。公刊論文の質と数が評価基準だが、人事を決める委員会では「子持ち女に務まるか」という議論もあったとか。基研に女性研究者が採用されたのは、私が最初である。

当時、基研は「理論物理学の聖地」といわれた。国内外から研究者が集い、物理の最先端を熱く議論している。そんな聖地に、私は0歳児を伴って子連れ赴任した。夫を東京に残して。

研究と育児の両立は生半可ではない。日本一の研究環境を生かして力を発揮するため、個人的環境を整えた。東京で長い通勤時間に懲りていたから、職住近接が最優先である。基研から徒歩5分の一戸建てを全額借金で購入することにした。今のような住宅ローンの仕組みができるよりずっと前のことだ。「そんなむちゃな」。夫は仰天して反対したが、私が押し切った。月々の支払いが家賃より安ければ引き合うと考えた。

大学院の指導教授、松原武生先生が「若い頃は借金してでも勉強せよ」といつも言っておられた。以来、私は「時間をお金で買う」、そして「お金が足りなければ稼ぐ」を指針にしてきた。

翌年には夫が大阪転勤になり、一緒に暮らせるようになった。夫は私には黙っていたが、大阪勤務を自分で申し出たらしい。

長女が1歳になる前に、第2子を妊娠した。長女の育児と第2子の妊娠の同時進行は予想していたが、これが想定外の厳しさだと判明する。使い捨ておむつも全自動洗濯機もなかった。

夫は帰宅が遅いし、週末の休みもテレビの前にペロンと寝そべっていて、家事育児は一切しない。大阪までの通勤が往復3時間かかり、疲れている様子だった。私は家事分担を巡る争いはしないと決めていた。争う時間とエネルギーが惜しい。

つわりが重いうえに、育児は一日も手を抜けない。長女出産以来の無理も積もっていた。体調が悪くて家事がはかどらず、休日も本を開けなかったりした。

そんなある日、夫が「君が勉強している姿を最近見なくなった。怠けているのじゃないか」と強い口調で切り出した。さらに「京大の助手になったくらいで慢心していたら、あとは伸びないよ」と容赦のない言葉を浴びせる。

ガーン。頭を殴られたような衝撃を受けた。「それなら少しは手伝ってよ」と反論したかったが、私は無言で立ち尽くしていた。「一番痛いところを突かれた」という思いもあった。

夫なりの激励の表現に違いない。夫は求婚の時、物理と結婚の両方を取れと言ったけれど、これは「勝手にやれ」の意味で、「手伝ってやる」ではなかったのだ。

その日からつわりも消えた。私は根性で机にかじりつき、不規則系の分野で「世界的」といわれる大仕事を完成させるのである。

(慶応大学名誉教授)

米沢富美子(14) 長女出産

座る暇なく育児、研究
通勤2時間、職場で仮眠

1964年の6月、夫はロンドン大学大学院を修了し、東京勤務になる。私はキール大学側から「もう1年滞在してほしい」と説得されたが、夫が帰国したので英国に残る理由はない。論文を仕上げて9月初めに英国をたち、ウィーン、ギリシャ、インド、香港を1カ月かけて周遊しつつ日本を目指す。

そのまま京大の大学院博士課程に戻った。学位論文は英国滞在中に仕上げていたが、現在のような飛び級はないので学位取得は課程修了時(66年3月)まで待つ必要がある。65年春に妊娠に気づいた。秋には京大大学院在院のまま夫のいる東京に移り、東京教育大物理学科の研究グループに加わった。

翌月、教育大の朝永振一郎教授のノーベル物理学賞受賞が決まる。教授とはゼミで数回話しただけだが、うれしくて「素晴らしいでしょ」と自慢して回った。

66年1月、長女ルミ子を出産した。実は結婚後すぐに妊娠したが「胞状奇胎」だと判明し、修士2年の初夏に妊娠5カ月で人工流産していた。医師に子宮摘出を勧められたほどだったから、正常出産で長女が生まれたのは奇跡のように思える。「私はお母さんになった」と世界中に触れて歩きたい気持ちだった。

4月からは「日本学術振興会」の奨励研究員(有給)として教育大で研究を続けることになる。奨励研究員は競争率の高い狭き門だったが、公刊論文の多さなどが評価されて選ばれたらしい。

夫の社宅は杉並区の荻窪にあった。私は娘と娘の着替えやおむつの入った袋と論文の入った鞄を抱え、毎朝7時半に夫と社宅を出る。夫はバスで荻窪駅へ。私は反対方向のバスに乗って保育ママさんの家に向かい、娘と袋を預けるのが8時半。バスで荻窪駅に戻り、地下鉄を乗り継いで教育大のある茗荷谷まで片道2時間かかる。

研究室に着くと、机に突っ伏して1時間ほど爆睡する。研究室のメンバーが出てくるのは昼ごろだ。一緒に昼食を取り、午後1時から4時までが議論や研究に集中できる私の勝負の時間である。議論の中で私が提案した考えに「それは面白い。一緒に論文を書きましょう」と言う助教授もいて元気づけられた。

週に1度のゼミは、3時半に始まる。保育ママさんの家に6時までに迎えに行かなくてはならないので、その日のテーマのさわりだけを聞いて席を立つ。残念だったが「こんなものは、後からいくらでも取り返せる」と考えた。

朝と逆のコースを2時間かけて戻り、娘と汚れた布おむつで重くなった袋を受け取る。買い物もすませて帰宅するのは7時。娘の離乳食、大人用の夕食の準備、自分の夕食、娘との入浴、袋の中の汚れものの洗濯、翌日のための着替えとおむつの準備――。座る暇もない。

社宅は木造住宅の2階で、水道の圧力が弱くて朝は水が出ない。夜中に洗濯機を回すと「やかましい」と階下から何度も怒られ、立つ瀬がなかった。

夫の帰宅は11時すぎ。高度経済成長期のサラリーマンだから、育児参加は最初から諦めていた。夫と娘が眠った後やっと自分だけの時間になり「たとえ1ページでも」と論文を読んだ。翌朝も6時起床だから、今考えてもすごいことをしたと思う。私は27歳で若かった。

(慶応大学名誉教授)

米沢富美子(13) キール大学

着くなり対等に研究
猛勉強の合間 欧州を周遊

英キール大学の広大なキャンパスの一隅に、3階建ての学生寮が10棟ばかりある。学生の部屋には、机とベッドと本棚が置かれていて、キッチン、トイレ、シャワーは共用。しかし私に与えられたのは各棟に1つだけある寮長のフラットだった。勉強部屋のほかに寝室、キッチン、トイレ、バスタブがある。新婚生活を送った京都のアパートの2倍以上の広さだ。

大学院生というよりは助手の待遇である。このことは研究室での対応でも判明した。授業や研究指導を受けるのではなく、いきなり対等な共同研究を提案される。

30校の学長にあてて手当たり次第に手紙を書いて獲得した宝くじのような奨学金だが、どんな先生がいてどんな研究をしているかは、実は何も考えていなかった。量子化学の分野で世界的に有名なロイ・マクウィーニー教授がいて、私はその研究室に配属されることになる。物理は実験の研究室しかない。

教授は「このテーマで研究しませんか」と「窒素分子の電子状態」に関する論文を3編ほど手渡した。教授と会えるのは週に1度。助手や大学院生が数人いて、誰もがとても親切だったが、テーマはそれぞれ異なるので自分で取り組むしかなかった。

ホールの大食堂で1日3食まかなえるし、部屋の掃除はメードがしてくれる。何の心配もなく、ひたすら勉強づけのぜいたくな日々だった。

研究室の新しいコンピューターを皆で交代に使う。私も割当時間をもらった。大学の中央図書館は24時間開いていて、どんな時間でも誰かが勉強している。私も夜中の2時、3時まで図書館にいた。図書館から部屋に戻る途中で仰ぎ見る夜空は息をのむほど美しい。町の照明から遠く離れた丘の上で、星はこんなにたくさんあるのだと知る。「星明かり」という粋な表現を体感できた。

1年間の成果として、教授と共著の論文2編を書いた。教授との共同研究以外に、独自のテーマでも研究を進めて論文に仕上げ、学術誌に採択される。「磁性に関するある量」を理論的に求める際、単純な近似で計算すると物理的には無意味な無限大の値になることが知られていた。この計算で1つの考慮をすれば有限の値が得られ、懸案の問題が解決できることを見つけた。後日この論文に対して、京大から「理学博士」の学位を受ける。

私は勉強中毒の傾向があるので、友人や夫が居なければ1年のあいだ勉強だけをして帰国したことだろう。食堂で知り合った女子学生たちと夜9時から2時間ほどお茶会をして話に興じ、2週間に1度は週末にロンドンを訪れて夫と観光に出る。

12月のクリスマス休暇、3月のイースター休暇、そして5月の試験休暇に、夫は旅行を計画した。まず12月はスコットランド観光。続いてパリに飛んで夫の仲間たちと落ち合い、南仏とイタリア各地をまわる。夫と私はその後もスイス、ドイツなどに行き、1か月間も旅の空にいた。

3月はスペインで2週間のバス旅行、5月は北欧の国々を訪れる。1年間がまるごと新婚旅行のようで「こんなに幸せでいいのか」と思った。海外旅行の自由化以前で、夫は「次はいつ来られるかわからない」と考えたのだろう。

(慶応大学名誉教授)

米沢富美子(12) 学長に手紙

夫を追いかけ英国留学
寂寥感募り30校に書き送る

結婚して一番実感したのは「家の中に頼れる人がいる」という安心感だった。7歳の時に父の戦死の公報が入って以来、長女として母を支えようと気負って生きてきた。「私が頑張らねば」と思いつめてきた。その緊張が夫の存在で嘘のように消えた。「もう頑張らなくてもいいのだ」と思える幸せ。

家の中に男性がいる便利さもうれしかった。それまでは電気のヒューズが飛べば、私が脚立によじ登って付け替えていた。結婚後は何でも「ねぇ、お願い」である。

夫を頼り切ってぬくぬくと生きていた。だから、夫と離れて暮らさねばならない事態が発生した時は茫然とした。結婚から1年半後の1963年6月、夫は勤務先の留学生試験に合格し、ロンドン大学の大学院に1年間留学することが決まる。社内規則で妻同伴は認められない。私は4月に京大大学院の博士課程に進んでいた。

羽田の搭乗口に夫の姿が消えた途端、私は寂寥感でしゃがみ込んだ。早くも夫が恋しくて、絶対に英国に行く手段を見つけると心に誓った。与謝野晶子が鉄幹を追ってシベリア鉄道でパリに赴いたときもこんな思いだったか。

1ドル360円の時代で、英国までの航空運賃は夫の年収に相当する。自分で勝手に行けるほどのお金はない。たとえお金があっても海外旅行が自由化される前だから、公務や留学などの証明がなければパスポートは下りない。

京大の近くにあるブリティッシュカウンシルの図書館で、英国の大学の名前と住所を調べ上げた。30校はあったろうか。「貴校の大学院で物理の勉強をしたいので、奨学金をいただけませんか」。全校の学長にあてて、切々とした手紙をしたためた。

2校から「OK」の返事が来た。そのうちキール大学は「授業料と寮費、食費は免除」に加えて「幾ばくかの奨学金を月々支給する」という涙の出るような条件を出してくれた。

その年の9月初め、私はロンドンの空港に降り立った。羽田で夫を見送った日からわずか3カ月後のことである。迎えにきた夫は「君と一緒にロンドンに居られるなんて……」と後は言葉にならないほど喜んだ。一人で寂しい思いもしたのだろう。しかし、「途轍もない人を妻にした」ということにもそろそろ気づき始めていたに違いない。

ロンドンでは見るもの聞くものが目新しかった。大通りには2階建てバスが走っているが、ちょっと外れると馬車が行き交っていたりする。半世紀前にはかの地でも、今とは違う風景が展開していた。

9月中はロンドンで夫が手配した英語の個人授業を受けたり、2人で観光したりして過ごし、10月初めにキール大学へ向かった。

大学は英国中部のスタッフォードシャーにある。小高い丘全体が中世の貴族の敷地で、見渡す限り森と湖と草原が広がっている。その敷地に建てられた新設の全寮制大学で、一番近い町まで数キロも離れている。俗世から隔離された空間だ。

ロンドンから汽車を乗り継いで4時間。汽車の駅からバスに乗り、大学の正門前で降りる。正門から大学のセンターまで歩いて30分。「なんとはるばる来たものよ」と思った。

(慶応大学名誉教授)