蜷川幸雄(27) 50代の苦悩

吐血、気ふさぎ創作不振
喜劇を自費上演、暗闇抜ける

秋元松代さんほど胃の痛む劇作家はいなかった。近松門左衛門の心中場面を集めた芝居をお願いし、上方言葉にこだわり抜いた傑作「近松心中物語」が生まれたが、舌鋒の鋭さといったらない。あとでかわいがってくれたものの太地喜和子さんを最初の稽古で見て言った。「なんです、あの山猿は」

禿(かむろ)が部屋の掃除をする場面を本番で見て「あの雑巾がけはなんですか」と怒って明け方電話してきた。気性の激しい秋元さんの機嫌を損ねると上演中止になりかねないが「書いてある通りの演出です。いい加減にしてください」と切った。なんとか信頼は保たれ、森進一の演歌を浄瑠璃に見立てた舞台は評判もお客の入りも上々だった。

この作を機に秋元さんは江戸三部作を放つ。住んでいた山梨県の清春芸術村まで「南北恋物語」の打ち合わせにいったときだ。食堂で会うと山菜そばが出た。緊張して食べたら帰りにもどした。

1979年初演の「近松心中物語」は10年後、ベルギーと英国で上演された。帰国後、十二指腸と胃の潰瘍で吐血し、入院した。体重が激減して、青いはずの空が灰色にひび割れて見えた。

50代に入り、メランコリーに侵されていたのだ。神経過敏な状態に追いこむ仕事の仕方を改めるよう医師にさとされ、そう心がけたら、いい作品ができなくなった。

救ってくれたのは若い俳優たちだ。商業演劇に出る若者に演技を見てほしいと頼まれたぼくは、80年代初めから蜷川教室をあちこちで開いていた。それをもとに84年秋、ゲキシャ・ニナガワ・スタジオを結成する。森下の染色工場を貸し稽古場にした紅三という会社の亘理幸造専務が、場所を提供してくれたのだ。

稽古場に付属する小劇場ベニサン・ピットで、チェーホフや清水邦夫の戯曲を実験的に演出した。原点の小劇場に立ち返る日々、突然バイクに乗り始めた。「青梅街道の風になるんだ」といって失笑されたが、ひばりケ丘の自宅からベニサンまでバイクで走る。路上の風が体中の細胞を再生してくれた。

長いトンネルを抜けるきっかけは94年6月、このベニサン・ピットで上演したシェイクスピアの「夏の夜の夢」だった。銀座セゾン劇場(いまのル・テアトル銀座)が世界的な演出家ピーター・ブルックのために劇場を改装し、作品を上演する計画をたてた。そのあと同じ特設舞台でぼくが演出するはずが、来日中止で流れてしまった。

意地でも上演したい。東宝をやめ、ポイント東京という会社を興していた中根公夫プロデューサーは採算がとれないと反対した。が、ぼくは数百万円を自ら用だてた。小道具も、降り注ぐ赤いバラも、鬘も、俳優とスタッフで手作りした。よき理解者の小川富子プロデューサーも出資してくれた。

この舞台は空中ブランコを使うブルックの伝説的な舞台「夏の夜の夢」への返歌でもあった。妖精は空中から降りるのではなく、地の底から現れる。竜安寺の石庭のセットで京劇俳優が飛び跳ねる。悲劇ばかり上演してきたシェイクスピアで初めて挑む喜劇が、感性を解放してくれた。

大劇場も小劇場も海外も、ぼくにとって仕事の場はすべて等価だ。若い俳優集団は名前やメンバーを変えつつ、さいたまネクスト・シアターまで続く。(演出家)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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