蜷川幸雄(24) 西洋演劇

日本らしさ、舞台で形に
仏壇に手合わせひらめく

1970年代はじめのことだ。新宿の映画館で、見知らぬ青年に呼びとめられた。話したいというので喫茶店に入った。「蜷川さんはいま希望を語れますか」と聞かれる。「語るべき希望なんてないよ」

青年はテーブルの下でジャックナイフを握っていた。「あなたの芝居をずっと見てきました。希望を語ったら刺すつもりでした。よかった」と言って出ていった。

客席には千のナイフがある。演出家は千の目にさらされる。危地に立つ覚悟は失うまいと思い続けた。

商業演劇の演出がきっかけで孤立したぼくに、ある日電話がかかってきた。「蜷川君、元気?」。唐十郎だった。

家に行くと、唐はちゃぶ台の前にすわっていた。「滝の白糸を書いたんだけど、演出してくれないかな」。「いま評判悪いんだよ、オレ」と言葉を濁すと「関係ないよ。才能と仕事をするんだから」。

この「唐版 滝の白糸」は75年3月、大映の東京撮影所で上演された。ショーケン、萩原健一を通じて知り合いだったジュリー、沢田研二が出てくれた。

翻訳劇といえば金髪の鬘をかぶり、鼻をつけて演じられるのが普通だった時代に、ぼくは育った。外国のまねでない日本人のオリジナリティーをどう舞台化していくか。

東宝では80年の「NINAGAWAマクベス」まで、西洋演劇をおもに演出した。シェイクスピアやギリシャ悲劇を美術の力で日本人のものにしようと考えた。

平幹二朗さんが主演した「王女メディア」は人形作家の辻村ジュサブローさんに衣装を頼んだ。女形で演じる平さんは初めてそれをつけたとき、「苦しい」とうめいた。

きらびやかだが、異様なかぶり物。衣装の一番上は古い帯を何十本もつぶし、裏を表にして仕立ててある。美しさに息をのみつつも、俳優を閉じこめる堅牢な衣装をのろった。演出プランは変更になる。

そのころ、ぼくはあえて徹夜し、睡眠不足に陥らせていた。神経がぴりぴりした状態になると、思いがけないイメージが降りてくる。メディアが口から赤いリボンを出す演出がそうだった。竜車で去る場面にクレーンを用い、コロスに津軽三味線をつけた。

妹尾河童さんにセットを頼んだ「NINAGAWAマクベス」のプランも、突然のひらめきだった。打ち合わせの日、川口の実家に寄って仏壇に手を合わせたときだ。「親父、久しぶりに帰ってきたよ」。位牌に話しかけたとたん、日本人はこうやって先祖としゃべるんだなあ、という思いがこみあげてきた。ろうそくを灯し、チーンと鳴らすうちにも考えが駆けめぐる。

仏壇の中に物語がそっくり入っていたとしたら、どうだろう。観客は祖先の物語としてシェイクスピアを見てくれるのではないか。日比谷の東宝につくと、演劇部への階段を「仏壇、仏壇」と口走りながら駆け上った。

「仏壇のマクベス」の後も賽の河原や佐渡の能舞台を用いた演出をしたが、やはり西洋の演劇に日本人の記憶をつなげたかったからだ。

広告やポスターで演出家の名が俳優より大きいと驚かれた。中根公夫プロデューサーは大物俳優が座頭をつとめる商業演劇の常識を覆し、プロデューサーと演出家が主導する興行を目指した。マクベスの前に名字がついたときは恥ずかしさに震えたが、羞恥心(しゅうちしん)は発想を生みだす触媒でもあった。(演出家)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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