蜷川幸雄(22) 東宝の誘い

商業演劇へ 心決める
灰皿投げ怠慢な役者を罵倒

テレビの「水戸黄門」の撮影で京都にいたときのことだ。ホテルのベッドに寝転がっていたら、電話が鳴った。「東宝演劇部の中根です」。1974年5月に日生劇場で上演される「ロミオとジュリエット」の演出依頼だった。「配役は市川染五郎と中野良子です」

断ったが、翌日も「京都駅にいます。会ってください」と電話があった。撮影所前の喫茶店で会うと、中根公夫プロデューサーは率直だった。同じ戯曲を映画に撮ったフランコ・ゼフィレリに頼んだ企画だが、助手とけんかして来られなくなったという。

東京に帰って再度断る。「イタリアを知らないから」という理由をつくって臨むと「では行ってください」。

それでヨーロッパへ旅立つことになった。38歳で初めての海外旅行だ。ドラマの舞台ヴェローナに行けといわれたが、行かない。ロンドンで同じ演目を見ろといわれたが、見ない。ルネサンスの街フィレンツェで10日ほど遊んだ。

ソ連の思想家バフチンの本でルネサンスの民衆文化の奥深さを知り、その猥雑なエネルギーを取りこめないかと考えていたぼくは、フィレンツェで広場の群衆を眺めて過ごした。ブリューゲルの絵にもヒントを得て、大群衆の乱闘シーンが見えてきた。

稽古初日、ぼくは俳優とスタッフを集め、東宝の試写室でフェリーニの映画「サテリコン」を見せた。ローマ時代の芝居小屋が出てくるから、演出意図を理解してもらうのにいいと思ったのだが、俳優は目をぱちくりさせていた。

当時の染五郎、いまの幸四郎さんはテレビの時代劇「江戸の小鼠たち」で共演した相手だった。「あの蜷川さんが、この蜷川さん?」と不思議そうな顔をしていた。

怠惰な商業演劇の俳優たちのなかで、幸四郎さんは稽古初日からセリフをすべて覚えていた。本物の野草を手にして、その場を演じると、疾風のように引っこんだ。稽古場に拍手がわき起こった。商業演劇で演出をしよう。このとき決心した。

ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。サングラスをかけている俳優がいる。「おい、はずせ、そのサングラス!」

スリッパをはき、ほうきを逆にして、えいえいと殺陣をやっている。「なんだそれ!ルネサンスの街でスリッパはいてんのか」。稽古場でコーヒーが出るのに感動しながらも、商業演劇に慣れきった俳優を罵倒し続けた。

幸四郎さんと中野良子さんを舞台で全力疾走させた。愛の神話を伝説化する民衆のまなざしを示したかったのだ。

階級構造を示す3層の装置の最上段で大公は民衆に大声を出す。はじめ、蚊の鳴くような声だった。走っていって「本気で声出してください」と頼むと「声がつぶれるよ」。「明日つぶれるなら今日つぶれろ」とにらみ合った。

稽古初日の翌日、商業演劇の重鎮だった森繁久弥さんが「日生に威勢のいいのが来たんだって?」と話していたらしい。数年後、お呼びがかかった。楽屋で焼き穴子のお雑煮をいただきながら「蜷川君、『どん底』やろう。新劇俳優が嫌いだろ、違う配役でやろう」と切り出された。

「なんの役をやりたいですか」と尋ねると「オレはサーチンだよ」。人を手玉にとるルカならいいが、二枚目のサーチンでは……。話はお蔵入りになった。(演出家)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。