蜷川幸雄(18) 新宿文化

開演待ち行列 幾重にも
客席ではデモ、異様な熱気

「蜷川です。芝居をやりたいんです」。明治通りをはさんで伊勢丹の向かいにあったアートシアター新宿文化の事務所は狭い。支配人の葛井欣士郎さんは突然の訪問客を裏の喫茶店に連れだした。1969年の春のことだ。

新宿文化は、芸術映画を配給する日本アート・シアター・ギルド(ATG)の中核劇場だった。62年の開館以来、フェリーニやゴダールの映画を紹介し、ATG製作の前衛映画を封切っていた。映画がはねたあと、夜の9時半からは演劇を上演する。

反戦デモが繰り返される新宿は騒然としていた。アンダーグラウンド蠍座を地下に設けた新宿文化は、アングラ文化のるつぼとなる。清水邦夫の「真情あふるる軽薄さ」の上演を即決した葛井さんは、演出家として未知数のぼくに応援を約束してくれた。

台本を仕上げるため、ぼくと清水はお堀端のしけたホテルにこもった。明け方ソファでうとうとしていると、異様な叫び声で目がさめた。「だめだ、だめだ!」。狂ったように頭をたたき、部屋を走りまわる姿が目に入る。その男は刃物の上を渡るように言葉と格闘しているのだった。

演出家は劇作家の言葉を決して変更してはならない。そう心に誓ったのは、この日からだ。演出家は他人の言葉を通してしか表現できない。なんと不自由なことか。けれども、その無残な逆説の中に演出家の栄光はある。

69年9月10日、初日が開いた。なぜ並んでいるのかわからぬまま行列する人々が舞台にいる。これにいらだつ若い男女が情熱的に挑発する。やがて中年男が整理員からかばうかと見せかけ、青年を撲殺する。客席が明るくなると、観客も機動隊そっくりの整理員に囲まれる。

整理員を本物の機動隊と勘違いした観客が体当たりする日もあれば、客席でジグザグデモが起きる日もあった。現実と虚構が入り乱れ、異様な熱気に包まれた。ぼくは全共闘の学生たちも整理員役で舞台にあげる演出をした。

10日ほどの公演の間、開演を待つ人が劇場を幾重にも取り囲んだ。ジャズや映画の批評で人気の高かった植草甚一さんが取り上げてくれた。大人数の長いスローモーションは、大正末期の市村座で見た歌舞伎「お祭佐七」をこえる面白さだとほめられたのは、うれしかった。この舞台の演出は子供のころから親しんだ歌舞伎から糧を得ている。幕を落とし、機動隊の盾を見せる場面は歌舞伎の「振り落とし」から考えついた。

制約をばねにして新しい表現を生む。それがぼくの行き方だった。映画館だから舞台は狭い。セットのために使える幅となると、実際にはわずか2メートル30しかなかった。どうやって舞台を立体的に見せるか。階段のセットで40人の群衆が蛇行しながら階段に列をつくる。

映画がはねてから芝居が始まるまで、およそ20分。その間にあっと驚く装置と群衆を出してしまおう。原寸で確かめないと不安なので、午前中の映画が始まる前にセットを入れて稽古したこともある。葛井さんは「何するの!」と怒ったが、終始温かく若者たちを見守ってくれた。ある文章に書いてくれた。

「演出家蜷川幸雄は、ひとときも定位置に坐ることなく、走り跳び、手を振り、目を輝かせ大声をはりあげ、舞台の上でねそべったり、客席を舞台を、縦横無尽に駆けずり廻ったものである」(演出家)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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