蜷川幸雄(8) 開成高時代

授業さぼり下町を徘徊
落第、母の涙が胸に刺さる

高校1年の途中から、午後の授業をさぼりだした。こんな調子だった。

まず日暮里の方へ出て、谷中の墓地を通り、幸田露伴の小説で有名な五重塔を見て、東京芸大の前までぶらぶら歩く。石膏がならぶ芸大の彫刻室で学生が絵を描いている姿をのぞき、不忍池をひとめぐり、池之端のジャズ喫茶イトウでモダンジャズを聴く。

それから湯島天神の石段をのぼって、神田明神からお茶の水を通り、神保町に出る。古本屋をまわって、水道橋から川口に帰る。それがいつものエスケープ・コースだった。

大体週に1、2回。友達と一緒のこともあれば、ひとりのときもあった。映画を見る日もあれば、上野動物園をぶらつく日もあった。思えば、ぼくの動いている範囲はいつも下町なのだった。下町の中をぐるぐるまわっていた。

開成高校では野球部に入っていた。荒川区の大会でレフトで出場し、エラーしたことくらいしか思い出はないが、試合の転戦先もいつも下町だった。級友には浅草のお菓子屋や人形町のすき焼き屋の息子がいた。

演出をしていても、お行儀がいいと感じると猥雑にかきまわしたくなるのは、行動範囲が下町から脱(ぬ)け出なかったせいかもしれない。

さて、こんな徘徊高校生に学校も業を煮やしたようだ。2年生に進級する前、速達が我が家に舞いこんだ。

「原級に留まる」

母親が泣いた。簡単に涙を見せるような女じゃない。それが「ユキオ、どうするの、お前」と涙をこぼしている。

成績が下がってきたことは知っていたようで、小中学校のとき家庭教師だった浜田陽太郎さんにまた習いにいけ、と言いだしていたが、まさか落第するとは思いもしなかったのだろう、さすがにうろたえていた。

ぼくも「あ、泣くんだ」と思って、この涙はこたえた。もっとも、このお袋は「私、泣いてなんかいないわよ」とあとで言いはったが。

父親は「そうか」とつぶやいただけだった。職人の父はぼくを説教したことがない。ちゃんと小遣いをくれて、やりたいことはやらせ、黙って見ていてくれた。

のちにぼくが新聞に出るようになると、記事をスクラップ帳にはって、ひっそり喜んでいたそうだ。ぼくは、そういうことを見つけると怒る方だから、隠れてやっていた。

青春のころ、しょぼくれた親父の顔を見るのは不愉快でしかたないものだ。が、普通の人の貴さを、ぼくはやはり父から学んだ。

ぼくは面白くなくて、休日に音楽室に入り、蓄音機のピックアップを折ってしまった。「あれは蜷川の仕業だ」と職員室で問題になった。そのとき「蜷川にもいろいろな思いがあるのだろう。ああいう子なんだから、許してやってくれ」とかばってくれたのは、音楽と数学の先生だった。おとがめは、なかった。

教師になっていた浜田陽太郎さんが慰めてくれた。川口神社の裏手に父と浜田さんがよく行くバーがあって、そこへ高校一年生のぼくを連れだした。「ユキ坊、こんなことなんでもないんだからな、落ちこむことないぞ」

桜が灰色に見えるようになったのは、この春からだ。ぼくはやり場のない怒りや青春の鬱屈を抱え、でも、どうしていいかわからなかった。そんな心を受け止め、理解してくれた優しい教師たちに、ぼくは救われた。(演出家)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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