蜷川幸雄(7) 川口の視線

地元仲間と専門書輪読
友を面罵、翌日の死を悔恨

アウトドアが苦手なぼくは、どうしてもインドア志向になる。とにかく家にいるのが好きで、機関車のおもちゃなどをマニアックに集めていた。母親がよくこぼしていた。「ユキオはなにかほしいと、一日中言うので困るよ」

開成中学に入っても、ぼくはおとなしいインドア志向だった。のちに舞台の世界で決まりを破り、無性に逸脱したくなったのは、優等生だった反動だろうか。セットの質感にも異様にこだわり、ほしくなるとスタッフに言い続けている。

日暮里と田端の間にあった開成中学に通うようになって、困ったのは成績ではなく、下校時の後ろめたさだった。川口駅から制服で帰ると、地元の中学に進んだ友達と毎日すれ違う。ひとりだけペンと剣の徽章のついた帽子をかぶっているのが恥ずかしい。皆が泥んこになって働いている川口から、自分だけ離脱したという思いに責められる。

虫にも触れないぼくは、川口のごちゃごちゃした下町から生理的に逃れたくなる。一方で、この後ろめたさを埋め合わせしなければ、という激しい衝動に突き動かされる。顔を真っ黒けにして働いている人たちを忘れまい、自分だけ衛生無害な場所へ行くのはやめよう。演出家になって、露悪的なまでに社会の底辺を描くようになったのは、そのせいかもしれない。

開成高校に進むと、ぼくは小学校時代の友達と川口で勉強会を始めた。仲のよかった桃園克己という友達を中心に5、6人が蜷川洋服店の借りる職人用アパートに時々集まった。社会科学の本を読んで、感想を話し合う茶話会だ。

桃園はよく勉強し、成績優秀だったのに家が貧しいから、日中働いて夜間高校に通っていた。父親の稼ぎが悪かったのだろう、母親は川口の鍋や釜をかついで秩父を歩き、行商していた。ある日、長屋に遊びにいくと、ひとりきりの桃園はこんな話をした。「きのうの夜中、お母さんが酔っぱらって帰ってきて玄関で寝ちゃった。引きずりあげるのが大変だったよ」

こういう言葉が、ぼくをいっそう後ろめたさに追い立てていった。「蜷川は恵まれた環境にいる。なのに貧しい人に関心があるように語るのは偽善じゃないか」と桃園は迫る。あるときの勉強会で、あす山に登るという桃園に「お前なんか生意気なことばかり言うから、死んじまえ」とぼくは言いはなった。

翌日、桃園は丹沢で死んだ。滑落したと聞いた。そのとき、自らロープをつかむ手を離したのではないか。狂おしい空想がぼくを責めさいなんだ。桃園は観念で語るぼくにないものを持っていた。生活の実感があった。

ぼくが演出の現場で目線を下げよう、下げようとするのは、こうした体験の積み重ねによっている。

開成の同級生に「かあさんの歌」を作詞・作曲した窪田聡がいた。うたごえ運動にかかわり、卒業後家出して新聞配達の住みこみになった。うたごえ運動は平和の歌やロシア民謡を合唱する社会運動で、ぼくも窪田に誘われて集会に参加したことがある。

1950年代のはじめは平和運動や社会主義運動が盛んだった。開成でもドロップアウトが結構あり、ぼくを驚かせた。

なんで勉強しなければならないのか。なんで受験しないといけないのか。開成高校は成績の優劣がものをいう学校だった。ぼくは学校の受験体制に反発した。(演出家)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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