蜷川幸雄(6) 兄たちのこと

バイクや賭け事に夢中
教育者と家族ぐるみの交流

8歳上の長男の博はまじめだったが、次男の猛はジャズばかり聴いていた人で、三男の洋一は川口の小さな不良だった。兄たちは車券を作っては、荒川の河原をバイクで走って金をかけていた。仲間をつれて帰れば雀卓を囲む。二卓で部屋がいっぱいになった。

職人肌の父親も姉御肌の母親も賭け事はよくした。ポンとかチーとか、皆でわいわい騒いでいるのを横目で見ながら、末っ子のぼくはひたすら勉強していた。そうでなければ絵を描くか、名作全集や「のらくろ」を読んでいた。傍らで見ていることはあっても、決して混じらない。だから、いまだに麻雀ができない。

博はその後、早稲田を卒業してサラリーマンになった。猛は鋳物工場で事務職につき、跡取りになる洋一は住みこみの修業に出た。

いい人は早く亡くなるものだ。洋一は30代で脳溢血で倒れた。酒飲みで、遊んでばかりだったが、仲間にいつも囲まれていた。洋一は遊んでいたなあ。人生で楽しいことの分量ははじめから決まっているのだろう。いい人ほど早く使い果たしてしまう。

猛は心臓を悪くして40代で亡くなった。博は長生きしたが、2年前に亡くなった。

ひとりでいる時間が長かったぼくを10歳上の姉の禮子は母と同じように、日比谷公会堂のクラシックの音楽会によく連れだしてくれた。この姉だけがいまは残っている。

小学校の級友は鋳物工場や商店の子供が多かった。近所には朝鮮人の靴屋さんがいた。金原という名のその家の子供とはよく遊んだ。

一家はひどく貧しく、やがて北朝鮮に帰還した。界隈(かいわい)は家族的な雰囲気に満ちていたから、差別のようなことはなかったと思う。

川口の下町には献身的な教育者の姿があった。小学校しか出ていない両親は教育者を敬い、中でも旧制川口中学(いまの川口高校)の校長から市の助役になった梅根悟先生とは家族ぐるみのつきあいだった。地域の実情に合った教育を考えられた梅根先生は兄たちの恩師でもあった。

人格者の梅根先生は家で酒を飲み、教養のない父とも対等に接して、楽しそうに話していた。父は梅根先生が教育学者ペスタロッチについて書いた本をもらって、大喜びしていた。川口から遠くない赤井というところに住まわれていた。夏休みに泊まりがけで遊びにいき、ごちそうになった。梅根先生はのちに和光大学の初代学長になった。

梅根先生の弟子に浜田陽太郎さんという東京文理科大学の学生がいた。その後、立教大学の総長になった人だ。母が世話した近所の家に住み、兄たちとよく野球をやっていた。小学校から中学校にかけて、ぼくはこの浜田さんの家のはなれで勉強をみてもらった。

浜田さんもそうだが、家に出入りしている無名の画家たちにも父は洋服を縫って、折あるごとに贈っていた。画家の中にはのちに日展の特選になる人も出て、ぼくも見にいったことがある。

学問や芸術に素直な尊敬の念を抱いていた両親は、成績のよかったぼくに大きな期待をかけたのだろう。私立の進学校といえば、そのころは下町なら開成、山の手なら麻布だった。ぼくは親の言うとおり開成中学を受験し、合格した。(演出家)

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