蜷川幸雄(4) 生家は洋服店

母に連れられ芝居通い
近所のたまり場 食卓は混雑

両親はともに富山の貧しい農家の生まれだった。仕立て職人だった父の秀一は農家の次男だった。ハイカラ文化へのあこがれからかテーラーの修業に出て、東京の向島界隈で住みこみになる。一旗揚げようと川口に店を構えた。

十代で父と結婚した母のその子は、立て膝ついてたばこを吸う姿がさまになる豪快な女だった。ぜいたくなことが好きで、金遣いも荒かった。

父は縫っているだけが生き甲斐の、きまじめな職人だった。戦後は鋳物の工場主がよく注文してくれて、店ははやった。裕福ではなかったが、生活には困らない。

それでも店を切り盛りする母には貯金して立派な家を建てるという考えはみじんもない。最後まで借家だった。

お腹がすいたとなると、神田へ寿司を食べにいこう、日本橋の東洋でハヤシライスにありつこうということになる。川口からタクシーで乗りつけた。言い出すのはいつも母だ。日光に家族で遊びに行くのもハイヤーだった。

田舎から出てきた母には華やかな世界へのあこがれがあったのだろう。小学校のころから、オペラやコンサートへぼくをよく連れていってくれた。戦後の混乱期も乗るのは電車ではなくタクシー、席はたいがい最上等だった。

日比谷公会堂で諏訪根自子のヴァイオリン・コンサートを聴き、藤原歌劇団の「カルメン」やバレエも見た。母は初代中村吉右衛門、父は二代目市川猿之助(猿翁)がひいきだったから、歌舞伎にも通った。スローモーションで俳優が動く歌舞伎の「だんまり」が子供心にも面白かった。文楽も見せられた。

母を通して非日常の世界の輝きを大きな刻印としてぼくは植えつけられた。色の魅力にとりつかれ、塗り絵に熱中する少年になる。

田舎の少女が抱いた文化へのあこがれは、駅前で売っているありふれたケーキのようなものだったかもしれない。でも、そのケーキにあふれる思いを寄せる人が確かにいる。決してばかにできないよなあとぼくは思っている。

川口はオートレースが盛んだ。我が家は馬主ならぬ車主、レースのオーナーにもなっていたから、選手が賞金をもってくることもあった。父が洋服屋の組合長をしていた関係で、配給の時代でも酒が手に入りやすかったのかもしれない。「あそこへ行けば飲める」ということだったのだろう、我が家はたまり場になった。職人が住みこむ上に雑多な人が食べにくる。夕食はテーブル二卓で大混雑だ。

肝っ玉の太い母は「おばさん、おばさん」と親しまれ、夜中のお客にも酒のつまみを出していた。兄の友達や工場で働く人たちがきては花札や麻雀、どんぶりにサイコロを入れるチンチロリンなどをやって騒いでいる。

お客の中には画家や教育者の姿があった。酔っぱらった画家が醤油で色紙を描いていた姿をよく覚えている。田舎から出てきた両親は文化へのあこがれや尊敬の念があり、進んで迎えいれていたのだろう。

絵が好きだった父は若く貧しい画家に部屋を与えて自由に描かせ、2階で作品を入札する会を開いていた。近所のお医者さんや鋳物工場のおじさんたちとうれしそうに見入っては買っていた。無名の画家を大切に支えていた。

宵越しの銭をもたない気風と文化へのあこがれ。そのふたつが不思議に共存していたのが蜷川洋服店だった。(演出家)

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Bubbles of river disappear rapidly.

One Response to 蜷川幸雄(4) 生家は洋服店

  1. 天野 均 says:

    私はそのテーラー蜷川の隣で生まれ育った者です。だから家では隣のユキちゃんと呼んでいました。麻雀の音も確かに良く聞こえてきました。なにせ三軒長屋ですから。売れない俳優時代もありましたね。「今日は幸雄がテレビに出るよ」とユキちゃんのお母さんが教えてくれるのですがいつもチョイ出の悪役ばかりでした。そのユキちゃんにおもちゃの拳銃を向けられて泣いたことは今でも憶えています。世界のユキちゃんの御冥福をお祈り申し上げます。

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