蜷川幸雄(2) 戦争のころ

内気、幼稚園1日で挫折
「怖いから兵隊は嫌」に母叱る

我が家は洋服屋だった。埼玉県川口市の本町にあった蜷川洋服店は職人さんたちがいて、お手伝いさんの「ねえや」もいる人の出入りのたえない家だった。ぼくは5人兄弟の末っ子にあたる。最年長は姉、あとは男4人だった。

生まれたのは1935年(昭和10年)10月15日。そのころは本町3丁目に住んでいた。終戦間際の区画整理で川口神社に近い1丁目に移り、そこで店を構えた。鋳物工場の立ちならぶ界隈で育ったぼくは、生粋の川口っ子だ。

火を扱う鋳物師は太鼓をたたいて火伏せを祈った。初午の日は昔から火事が多いというので、川口の街には太鼓が鳴り響いた。その日は鉄を溶かす炉のお供えもののお菓子を子供に配る。それをもらいに走るのが楽しみだった。

ぼくは近所の人にユキ坊とかユキちゃんと呼ばれていたが、このユキ坊、ひどい人見知りだった。

幼稚園には1日しか行かない。同じ年の子供がたくさんいるのが嫌で、すぐ帰ってきてしまったのだ。先生が嫌なのではなく、人がいっぱいいるのに耐えられなかったのだと思う。「もう行かない」と駄々をこねた。

川口市の第一国民学校(今の本町小学校)に入学しても、臨海学校や山間学校には一度も行かなかった。終戦を9歳で迎えているから、低学年のころは戦争末期。行事は中止になっていた。戦後になると、それが復活する。夏に千葉の房総にあった寮へ行くのを皆が楽しみにしていたが、ぼくは行かなかった。

参加するのは日帰りの遠足まで。それでも先生や両親から何か言われた記憶はない。「ユキ坊はそういう子だ」と許容されていた。

演出家になってからも相変わらず人見知りで、人が多いのは苦手だった。稽古場で俳優やスタッフともみ合っていると、幼稚園を逃げ出したときと同じような衝動がこみあげてきて、一目散に家に帰りたくなることがある。部屋に飛びこんで本と向きあいたくなるのだ。

稽古を終えて俳優と飲みにいく演出家もいるが、ぼくはそういうことはしない。つきあうのは打ち上げだけだ。

川口の商店街にあった蜷川洋服店の隣は理髪店、その隣がノコギリやヤスリを扱う目立て屋で、その先は馬方だった。馬方はいまでいう運送業。戦後にオート三輪に変わるまで鋳物の塊を運ぶのは馬だったのだ。

小学校に入ると、街に馬糞(ばふん)を拾いにいく時間があった。チリトリとホウキで馬糞を集め、肥料にする。それも授業のうちだった。

集団行動が嫌いだといっても、戦時中は許されない。班ごとに旗をたてて行進し、登校する。天皇陛下のご真影をおさめた奉安殿にお辞儀をしてから教室に入った。級長をしていたから、その日の出席者数を先生に報告しなければいけない。

「○年○組○人、異状ありません」。これを軍隊みたいに気をつけして言うのが嫌で仕方ない。数字を間違えると、きつく怒られる。

出征する人がいると、界隈の人は荒川の土手に集まって汽車を見送った。汽車はお別れの時間をつくるために、ゆっくりゆっくり進む。ぼくも旗をふった。親戚の格好いいお兄さんが学徒動員で亡くなった。ぼくは軍国少年でも反戦少年でもなかった。ただ「怖いから戦争は行きたくない」と口にして、母に叱られていた。

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Bubbles of river disappear rapidly.

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