蜷川幸雄(29) パンクじじい

自分を壊し まだ駆ける
夢の劇場でお会いしましょう

家には人を呼ばない。芸能人で我が家を訪ねた人はほとんどいない。親しくなりすぎると、関係がフェアでなくなるからだ。

舞台を批判されるのは仕方ない。けれどもフェアでない劇評には抗議する。劇場に壁新聞をはり、私家版のニナガワ新聞をロビーで配って劇評を批判したことがあるのは、そういう思いからだ。

幼いころから演劇の現場を知っている長女の実花は、女優になりたかったらしい。ぼくは知らん顔をしていた。

父親が演出家では、女優として使われにくい。自分も、娘から他人の演出について聞きたくない。すると実花は美大に入って写真家になった。

蜷川幸雄の子だと思われるのが嫌だろうから、ぼくは展覧会場にもなかなか顔を出さない。実花は自分で作品を雑誌に売りこみ、はじめから自立していた。

高校、大学のころ一緒に道を歩いていても、実花は風景を撮らず、花のアップを接写していた。ぼくの部屋で資料の残酷絵を眺めていた。不思議な子だと思っていたが、なにも言わなかった。

小さいころから実花に言っていたのは、こういうことだ。「カッコいい生き方とはどういうものだろう。カッコいい女がいいよな」

たまにはほめて、と言っているようだが「まあまあだな」と言うくらい。ただ撮った映画を見ると、映像は実花の方に才能がある。

ぼくも1981年に公開された「海よお前が―帆船日本丸の青春―」以来、映画を撮り続けている。室内の演劇と異なる演技をロケで発見したり、カット割りしたりするのは楽しい。ただ演技のつけ方の細かさで演劇の経験は生きるが、どういうシチュエーションでその場を映像にするかという点では映画監督に、まだまだかなわない。

真山知子は女優をやめてキルト作家になり、次女の麻実は編集者になった。

54歳の年に胃潰瘍で吐血して8年、今度は胸に激痛が走った。心筋梗塞で入院。緊急治療を受けながら稽古場に通い、初日が開いてから心臓のバイパス手術を受けた。ほかにも血管系の病気を経験し、朝からビフテキを食べることはさすがにしなくなったが、食生活には相変わらず構わない。野菜中心のひっそりとした食事ばかりだと、演出の勢いがなくなるのだ。

最晩年の井上ひさしさんと仕事できたことが、大いなる刺激になった。同時代には出合えなかった井上さんの初期の戯曲は、民衆の猥雑なエネルギーにあふれている。その奔放な言葉の力は70歳を過ぎた自分の演出を鼓舞してくれた。一昨年、生前の井上さんが念願とした「ムサシ」のニューヨーク公演を果たして、遺影を抱えて万雷の拍手を受けることができた。

70代にさしかかって「パンクじじいになる」と放言した。若いころ影響を受けた芸術家たちが年をとって、人生への諦観とか家族の話とか、小さな物語を表現しているのを見ると、どうしても裏切られた気持ちになる。

自分の行く道は現代を疾走する演劇だ。この連載の間も、ぼくは劇場に通って稽古をしている。これまでの自分を壊し、まだ見ぬ夢の劇場へ向かって、瓦礫の荒野を駆けていきたい。夢の劇場でお会いしましょう。(演出家)

=おわり

蜷川幸雄(28) 芸術監督

高齢者劇団、夢解き放つ
「身毒丸」演出、神経過敏を克服

50代の長いトンネルの時代、演出していても目の前の舞台がモノクロに見えた。「夏の夜の夢」でようやくカラーに戻った気がしていると、舞台を見たというホリプロの金森美弥子さんとメジャーリーグの笹部博司さんが訪ねてきた。

寺山修司さんの「身毒丸」を演出しないかという依頼だ。中根公夫プロデューサーという無二のパートナーとおよそ20年走ってきたが、新しいプロデューサーと組む選択をした。出会いと別れを重ねるのが演出家の宿命かもしれない。

同い年にもかかわらず、寺山さんとは生前出会う機会がなかった。見せ物の復権を唱えた寺山さんならではの「身毒丸」はまがまがしい力を放つ作品で、ぼくの演出は総天然色になった。初演は1995年の冬、そのとき60歳。

神経過敏にならなくても演出できるようになったのは、このころからだ。過剰な自意識を手なずけるまで、こんなに時が必要だった。

60代は仕事の場が広がった。彩の国さいたま芸術劇場で全シェイクスピア作品を上演する企画が始まるのは、98年1月。この彩の国シェイクスピア・シリーズの芸術監督になったことがきっかけで、劇場の芸術監督にもなった。また99年には東急文化村のシアターコクーンで芸術監督に就任した。のちに文化村の社長になる田中珍彦さんから要請を受けた。

税金を用いる埼玉では民間ではできない舞台、シェイクスピアのマイナーな作品も上演し、地域に親しまれるよう努めている。民間劇場はデパ地下のようなもので、シアターコクーンではいろいろな楽しみを提供したい。

埼玉で力を入れているのが、2006年に創設した高齢者劇団のゴールド・シアターだ。芸術監督を引き受ける際、実現を就任の条件にさせてもらった。年をとることはマイナスではない。むしろ、より深い喜びや悲しみを表現できるようになる。演劇は実人生で実現できなかった夢を解き放つ場ともなる。

平均年齢が70歳を超えているので、公演のたびに体力の限界との闘いとなる。セリフを忘れるのは当然で、老いをさらけ出すことで新しい演劇の方法が見えてくる。ぼく自身、セリフを俳優にささやくプロンプターを務め、舞台の傍らに出ることもある。

埼玉ではゴールドのあと、若い俳優を集めたネクスト・シアターも発足させた。日本では俳優を育てる場が決定的に不足している。桐朋学園芸術短大の学長をした経験からいっても、学校制度の中で演技を学ぶことには限界がある。やはり劇場で演劇の実際をつかみとってもらいたい。

ネクストでは、福田善之さんや宮本研さんの優れた戯曲を上演した。いまの若者は友達の芝居、同世代の芝居しか見にいかない傾向がある。横に広がるだけで縦軸がない。数十年前の戯曲を演じることで、歴史の連続性の中に自分たちがいることを学んでほしいと思っている。

面白いのはゴールドとネクストが一緒に稽古すると、大家族のようになることだ。おじいちゃんを孫が助け、おばあちゃんが孫に弁当を作る。そんな光景が生まれる。

演劇は人と人とがぶつかる、コミュニケーションから生まれてくる表現だ。自意識過剰で、引きこもりがちだったぼくが生きてこられたのも、この演劇の力のおかげかもしれない。(演出家)

蜷川幸雄(27) 50代の苦悩

吐血、気ふさぎ創作不振
喜劇を自費上演、暗闇抜ける

秋元松代さんほど胃の痛む劇作家はいなかった。近松門左衛門の心中場面を集めた芝居をお願いし、上方言葉にこだわり抜いた傑作「近松心中物語」が生まれたが、舌鋒の鋭さといったらない。あとでかわいがってくれたものの太地喜和子さんを最初の稽古で見て言った。「なんです、あの山猿は」

禿(かむろ)が部屋の掃除をする場面を本番で見て「あの雑巾がけはなんですか」と怒って明け方電話してきた。気性の激しい秋元さんの機嫌を損ねると上演中止になりかねないが「書いてある通りの演出です。いい加減にしてください」と切った。なんとか信頼は保たれ、森進一の演歌を浄瑠璃に見立てた舞台は評判もお客の入りも上々だった。

この作を機に秋元さんは江戸三部作を放つ。住んでいた山梨県の清春芸術村まで「南北恋物語」の打ち合わせにいったときだ。食堂で会うと山菜そばが出た。緊張して食べたら帰りにもどした。

1979年初演の「近松心中物語」は10年後、ベルギーと英国で上演された。帰国後、十二指腸と胃の潰瘍で吐血し、入院した。体重が激減して、青いはずの空が灰色にひび割れて見えた。

50代に入り、メランコリーに侵されていたのだ。神経過敏な状態に追いこむ仕事の仕方を改めるよう医師にさとされ、そう心がけたら、いい作品ができなくなった。

救ってくれたのは若い俳優たちだ。商業演劇に出る若者に演技を見てほしいと頼まれたぼくは、80年代初めから蜷川教室をあちこちで開いていた。それをもとに84年秋、ゲキシャ・ニナガワ・スタジオを結成する。森下の染色工場を貸し稽古場にした紅三という会社の亘理幸造専務が、場所を提供してくれたのだ。

稽古場に付属する小劇場ベニサン・ピットで、チェーホフや清水邦夫の戯曲を実験的に演出した。原点の小劇場に立ち返る日々、突然バイクに乗り始めた。「青梅街道の風になるんだ」といって失笑されたが、ひばりケ丘の自宅からベニサンまでバイクで走る。路上の風が体中の細胞を再生してくれた。

長いトンネルを抜けるきっかけは94年6月、このベニサン・ピットで上演したシェイクスピアの「夏の夜の夢」だった。銀座セゾン劇場(いまのル・テアトル銀座)が世界的な演出家ピーター・ブルックのために劇場を改装し、作品を上演する計画をたてた。そのあと同じ特設舞台でぼくが演出するはずが、来日中止で流れてしまった。

意地でも上演したい。東宝をやめ、ポイント東京という会社を興していた中根公夫プロデューサーは採算がとれないと反対した。が、ぼくは数百万円を自ら用だてた。小道具も、降り注ぐ赤いバラも、鬘も、俳優とスタッフで手作りした。よき理解者の小川富子プロデューサーも出資してくれた。

この舞台は空中ブランコを使うブルックの伝説的な舞台「夏の夜の夢」への返歌でもあった。妖精は空中から降りるのではなく、地の底から現れる。竜安寺の石庭のセットで京劇俳優が飛び跳ねる。悲劇ばかり上演してきたシェイクスピアで初めて挑む喜劇が、感性を解放してくれた。

大劇場も小劇場も海外も、ぼくにとって仕事の場はすべて等価だ。若い俳優集団は名前やメンバーを変えつつ、さいたまネクスト・シアターまで続く。(演出家)

蜷川幸雄(26) 英国公演

主演降板、綱渡りの舞台
ロンドンの俳優と演技で議論

50歳になる年、シェイクスピアの舞台を初めて英国で公演した。平幹二朗さんと栗原小巻さんが出た「NINAGAWAマクベス」で、1985年夏、エジンバラ国際フェスティルへの参加だった。

到着すると、ホテルの窓から荘厳なエジンバラ城が目に入った。マクベス亡きあとスコットランド王となるマルコム3世の城だ。ご当地で演じることに俳優たちは恐怖を感じ、激しく動揺した。ぼくらは夜中に劇場へ出かけ、公演の看板を確認し、心を落ち着かせた。

ところが、筋を熟知する観客は日本語の舞台であっても反応が素早かった。新聞の劇評は平さんと栗原さんの演技をたたえ、演出の斬新さや花吹雪を散らせる桜の美しさを絶賛してくれた。

この舞台をセルマ・ホルトというプロデューサーが見ていた。英国演劇界に精通する彼女は、ロンドンのナショナル・シアターで自ら企画する国際芸術祭に招いてくれた。87年9月、「NINAGAWAマクベス」と「王女メディア」が上演され、その年のオリビエ賞で演出部門にノミネートされた。

実際の舞台裏は戦場だった。2作に主演予定だった平幹二朗さんが病気で降板となり、マクベスを津嘉山正種さん、メディアを歌舞伎の嵐徳三郎さんに代役をお願いし、必死の稽古を続けていた。

本番では、舞台に並ぶ仏像の装置がひとつ足りない。運んでいたスタッフがぶつけて、首が折れたという。劇場のピーター・ホール芸術総監督に抗議したら、すぐ謝罪文が出た。戦うべきは戦い、話し合いでフェアに解決する術をこのとき学んだ。

ロンドンでは現地の俳優を演出したこともある。清水邦夫の「タンゴ・冬の終わりに」(91年)、イプセンの「ペール・ギュント」(94年)、そしてシェイクスピアの「ハムレット」(98年)だ。

英国の俳優は論理的に説明しないと、納得して動いてくれない。若いころ青俳で倉橋健さんに仕込まれた戯曲分析の訓練が役に立った。英文学者の倉橋さんはいつか英国で演劇をやるとき、必ずためになると話していたが、それは本当だったのだ。

たとえば「ハムレット」でフォーティンブラスの軍が近づいて去っていく場面。音楽を高めると「ニナガワ、軍隊は戻ってきたのか」と問われる。そこで劇的効果の意味をていねいに説明する。

「ペール・ギュント」で俳優に中腰をさせたら「なぜ重心をさげるんだ」ときかれた。「ウィンブルドンのテニスだって、サーブを受ける選手はすぐ動けるように膝を曲げるじゃないか」。やっと納得してもらっても、英国人は中腰に慣れていなから「痛い、痛い」とうるさい。全員が「ニナガワ、ニナガワ」と質問を浴びせてくる。ポスター1枚稽古場にはるのも討議だ。

英国のリアリズムの演技は、日本のそれとは比較にならないほど徹底している。動物的なほど激しい。演出家として勉強になった。

シェイクスピアを通じた英国演劇界とのつながりは途切れることがない。99年にはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで、真田広之さんを加えたキャストで「リア王」を上演できた。セルマ・ホルトはいまなお大切なパートナーであり、エジンバラに行けば「お帰りなさい」とあいさつされる。(演出家)

蜷川幸雄(25) 王女メディア

アテネで客総立ち、絶叫
理解してくれた悲劇の故郷

独学で演出してきたぼくにとって、商業演劇は学校だった。ニッパチといって、2月と8月は興行の入りが悪い。ぼくは東宝でニッパチをあてがわれる演出家だったが、学ぶ機会は多かった。

1976年に「オイディプス王」を上演したとき、重役から「ソフォクレスの原作よりホーフマンスタールの台本の方がいい」と教えられ、驚いた。

東宝上層部の教養は実に深かった。「ベルサイユのばら」を演出した長谷川一夫さんの稽古を見ることもできた。時代劇で女優の小夜福子さんに駄目を出し、財布の取り方を自分でやって見せている。うまいなあと思った。

東宝演劇の総帥で、すでに亡くなっていた菊田一夫さんに蜷川演出を見せたかったとよくいわれた。やがて演出料を分割して月給でもらえるようになり、生活も安定する。

俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。79年に上演された秋元松代さんの「近松心中物語」の稽古で、こういわれた。

「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。もう、やめてちょうだい」

ぼくの俳優人生は50歳のころ、ようやく終わる。演出家としては年収60万とか70万の時代が続いたが、妻が女優をやめても演出で食べられるように、やっとなった。

ぼくらの芝居のあまりの評価の低さにくじけそうになったとき、中根公夫プロデューサーが言った。「海外で評価を確かめませんか」。中根プロデューサーはフランスで演劇を学び、パリ・オペラ座で研修した経験もある。我々の舞台は欧米のレベルに負けないと力説した。

83年7月、ローマで上演された「王女メディア」が第一歩となった。荷物も衣装も手荷物で、三味線を背負っていく。まさに旅の一座だ。安いチケットでくたくたになってローマに入る。ボルゲーゼ公園の仮設劇場で上演された舞台に、終演後、興奮した観客が押し寄せた。主演の平幹二朗さんは舞台へなかなか出られなかった。

ツアーの最後はギリシャのアテネだった。リュカベットスの丘にある野外円形劇場だった。ここも終演後の熱狂はすさまじかった。日本に帰ってローリー・アンダーソンのコンサートに行ったとき、ロビーで村上春樹さんに声をかけられた。「ギリシャで『王女メディア』を見ましたよ」

翌年、アテネのフェスティバルに再び招かれた。前の年に市街から離れた劇場でやらせたことが批判され、より便利で古代ギリシャ以来の歴史があるアティコス劇場で再演してほしいという話だった。

初日の1週間前、同じ劇場でギリシャの劇団によるギリシャ悲劇を見た。カーテンコールで演出家が出てくると、6千人の観客が総立ちになって銀色の座布団を投げつけた。ブーイングが野外劇場にこだました。幸いなことにぼくらの「王女メディア」の観客は総立ちになって熱狂的に泣き叫んだ。女優で文化大臣でもあったメルナ・メルクーリさんも、満員の観衆と一緒に涙ぐんで拍手を送ってくれた。

西洋の演劇を日本人の記憶と結んで上演する。父や母のような普通の日本人が見てもわかる舞台を生みだしたいという思いが、外国の民衆に届いたのだった。(演出家)

蜷川幸雄(24) 西洋演劇

日本らしさ、舞台で形に
仏壇に手合わせひらめく

1970年代はじめのことだ。新宿の映画館で、見知らぬ青年に呼びとめられた。話したいというので喫茶店に入った。「蜷川さんはいま希望を語れますか」と聞かれる。「語るべき希望なんてないよ」

青年はテーブルの下でジャックナイフを握っていた。「あなたの芝居をずっと見てきました。希望を語ったら刺すつもりでした。よかった」と言って出ていった。

客席には千のナイフがある。演出家は千の目にさらされる。危地に立つ覚悟は失うまいと思い続けた。

商業演劇の演出がきっかけで孤立したぼくに、ある日電話がかかってきた。「蜷川君、元気?」。唐十郎だった。

家に行くと、唐はちゃぶ台の前にすわっていた。「滝の白糸を書いたんだけど、演出してくれないかな」。「いま評判悪いんだよ、オレ」と言葉を濁すと「関係ないよ。才能と仕事をするんだから」。

この「唐版 滝の白糸」は75年3月、大映の東京撮影所で上演された。ショーケン、萩原健一を通じて知り合いだったジュリー、沢田研二が出てくれた。

翻訳劇といえば金髪の鬘をかぶり、鼻をつけて演じられるのが普通だった時代に、ぼくは育った。外国のまねでない日本人のオリジナリティーをどう舞台化していくか。

東宝では80年の「NINAGAWAマクベス」まで、西洋演劇をおもに演出した。シェイクスピアやギリシャ悲劇を美術の力で日本人のものにしようと考えた。

平幹二朗さんが主演した「王女メディア」は人形作家の辻村ジュサブローさんに衣装を頼んだ。女形で演じる平さんは初めてそれをつけたとき、「苦しい」とうめいた。

きらびやかだが、異様なかぶり物。衣装の一番上は古い帯を何十本もつぶし、裏を表にして仕立ててある。美しさに息をのみつつも、俳優を閉じこめる堅牢な衣装をのろった。演出プランは変更になる。

そのころ、ぼくはあえて徹夜し、睡眠不足に陥らせていた。神経がぴりぴりした状態になると、思いがけないイメージが降りてくる。メディアが口から赤いリボンを出す演出がそうだった。竜車で去る場面にクレーンを用い、コロスに津軽三味線をつけた。

妹尾河童さんにセットを頼んだ「NINAGAWAマクベス」のプランも、突然のひらめきだった。打ち合わせの日、川口の実家に寄って仏壇に手を合わせたときだ。「親父、久しぶりに帰ってきたよ」。位牌に話しかけたとたん、日本人はこうやって先祖としゃべるんだなあ、という思いがこみあげてきた。ろうそくを灯し、チーンと鳴らすうちにも考えが駆けめぐる。

仏壇の中に物語がそっくり入っていたとしたら、どうだろう。観客は祖先の物語としてシェイクスピアを見てくれるのではないか。日比谷の東宝につくと、演劇部への階段を「仏壇、仏壇」と口走りながら駆け上った。

「仏壇のマクベス」の後も賽の河原や佐渡の能舞台を用いた演出をしたが、やはり西洋の演劇に日本人の記憶をつなげたかったからだ。

広告やポスターで演出家の名が俳優より大きいと驚かれた。中根公夫プロデューサーは大物俳優が座頭をつとめる商業演劇の常識を覆し、プロデューサーと演出家が主導する興行を目指した。マクベスの前に名字がついたときは恥ずかしさに震えたが、羞恥心(しゅうちしん)は発想を生みだす触媒でもあった。(演出家)

蜷川幸雄(23) 子育て

「主夫」、仕事も抱えダウン
商業演劇巡り孤立、櫻社解散

東宝の舞台で初めて演出料をもらった。40、50万円だった記憶がある。日生劇場や帝国劇場で年1、2本の演出を手がけるようになったとはいえ、食べていけない。そもそも演出家は職業として認められていなかった。

苦しかったこの1970年代、どうやって暮らしていたかと問われれば「女房のヒモだった」と答えるしかないだろう。現代人劇場や櫻社を経済的に支えたのも、真山知子や皆が映画やテレビで稼ぐお金だった。真山は子供をほしがったが、ぼくは演出で妥協したくなかったので拒んでいた。

現代人劇場が71年秋に解散したとき、真山は一冊の預金通帳を差し出した。夫婦でネパールへ行く資金として貯めていた100万円だった。「しばらく働かなくて大丈夫。ネパールにするか、子供をつくるか選んで」と迫られた。

翌年生まれたのが、写真家になる長女の実花だ。赤ちゃんの世話に熱中する真山にぼくは言った。「君は女として駄目になる。育児はぼくがやるから仕事をすれば」

78年に次女の麻実が生まれ、育児役を真山と交代するまで、ぼくは優秀な主夫だった。朝起きてバギーに実花を乗せ、荒川の土手で遊ばせる。洗濯し、それを取りこみ、実花をお風呂に入れる。買い物をして夕ご飯の支度をし、洗い物をする。

スポック博士の育児書に忠実な主夫だった。母親は「ユキオがおしめをくわえて走り回っている」と驚いた。

台本を読んだり、資料を調べたりする時間は夜の10時以降になる。商業演劇の初演出となる「ロミオとジュリエット」の上演を控えていたころ、ついに過労でダウンする。診断書は「育児疲れ」。

稽古場や会議室にも実花をつれていった。打ち合わせ中に「おむつ換えなきゃ」「離乳食の時間だ」と何度も席をはずすものだから、舞台美術の朝倉摂さんによく叱られた。子連れ狼(おおかみ)ならぬ、子連れ演出家だ。実花は劇場のロビーで遊び、監事室で芝居を見て育った子だ。

はじめ母乳だった実花は、あるとき乳首を求めて、ぼくの胸に顔を寄せてきた。母と子の結びつきはこんなに強いのか。身をもって知る生き物の感覚は、ギリシャ悲劇で母子の関係を演出するとき役に立つ。子育ては学校だ。

家事が体にしみついているぼくは、いまでも手が空けば洗濯や炊事をする。家事は一番暇な人がすればいい。

さて、商業演劇の仕事をしたぼくは仲間から孤立する。櫻社に帰って新しい舞台をつくろうと思っていたが、ある日参宮橋のスナックに呼び出された。何十人もの俳優やスタッフに「なぜ商業演劇をやるのか」と批判された。

その場で解散が決まった。74年夏のことだ。帰り道、蟹江敬三が「キンちゃん、どうするの」と聞いた。「しょうがないから商業演劇やるよ」。蟹江は「ぼくもひとりでやる」と言った。

汝の道を歩め。そして、人々をしてその語るに任せよ。ひとりぼっちになったぼくは「資本論」の序に引かれたダンテの「神曲」の一節を心の支えとした。

幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」(演出家)

蜷川幸雄(22) 東宝の誘い

商業演劇へ 心決める
灰皿投げ怠慢な役者を罵倒

テレビの「水戸黄門」の撮影で京都にいたときのことだ。ホテルのベッドに寝転がっていたら、電話が鳴った。「東宝演劇部の中根です」。1974年5月に日生劇場で上演される「ロミオとジュリエット」の演出依頼だった。「配役は市川染五郎と中野良子です」

断ったが、翌日も「京都駅にいます。会ってください」と電話があった。撮影所前の喫茶店で会うと、中根公夫プロデューサーは率直だった。同じ戯曲を映画に撮ったフランコ・ゼフィレリに頼んだ企画だが、助手とけんかして来られなくなったという。

東京に帰って再度断る。「イタリアを知らないから」という理由をつくって臨むと「では行ってください」。

それでヨーロッパへ旅立つことになった。38歳で初めての海外旅行だ。ドラマの舞台ヴェローナに行けといわれたが、行かない。ロンドンで同じ演目を見ろといわれたが、見ない。ルネサンスの街フィレンツェで10日ほど遊んだ。

ソ連の思想家バフチンの本でルネサンスの民衆文化の奥深さを知り、その猥雑なエネルギーを取りこめないかと考えていたぼくは、フィレンツェで広場の群衆を眺めて過ごした。ブリューゲルの絵にもヒントを得て、大群衆の乱闘シーンが見えてきた。

稽古初日、ぼくは俳優とスタッフを集め、東宝の試写室でフェリーニの映画「サテリコン」を見せた。ローマ時代の芝居小屋が出てくるから、演出意図を理解してもらうのにいいと思ったのだが、俳優は目をぱちくりさせていた。

当時の染五郎、いまの幸四郎さんはテレビの時代劇「江戸の小鼠たち」で共演した相手だった。「あの蜷川さんが、この蜷川さん?」と不思議そうな顔をしていた。

怠惰な商業演劇の俳優たちのなかで、幸四郎さんは稽古初日からセリフをすべて覚えていた。本物の野草を手にして、その場を演じると、疾風のように引っこんだ。稽古場に拍手がわき起こった。商業演劇で演出をしよう。このとき決心した。

ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。サングラスをかけている俳優がいる。「おい、はずせ、そのサングラス!」

スリッパをはき、ほうきを逆にして、えいえいと殺陣をやっている。「なんだそれ!ルネサンスの街でスリッパはいてんのか」。稽古場でコーヒーが出るのに感動しながらも、商業演劇に慣れきった俳優を罵倒し続けた。

幸四郎さんと中野良子さんを舞台で全力疾走させた。愛の神話を伝説化する民衆のまなざしを示したかったのだ。

階級構造を示す3層の装置の最上段で大公は民衆に大声を出す。はじめ、蚊の鳴くような声だった。走っていって「本気で声出してください」と頼むと「声がつぶれるよ」。「明日つぶれるなら今日つぶれろ」とにらみ合った。

稽古初日の翌日、商業演劇の重鎮だった森繁久弥さんが「日生に威勢のいいのが来たんだって?」と話していたらしい。数年後、お呼びがかかった。楽屋で焼き穴子のお雑煮をいただきながら「蜷川君、『どん底』やろう。新劇俳優が嫌いだろ、違う配役でやろう」と切り出された。

「なんの役をやりたいですか」と尋ねると「オレはサーチンだよ」。人を手玉にとるルカならいいが、二枚目のサーチンでは……。話はお蔵入りになった。(演出家)

蜷川幸雄(21) 櫻社

別れた仲間と再び劇団
唐十郎氏に衝撃、戯曲依頼

劇団の主演女優でもあった女房の涙を見て、ぼくは玄関に掲げた「蜷川TENSAI」の表札をはずした。自己暗示までかけ、騒乱の新宿を駆け抜けた現代人劇場の季節は終わった。時代劇の斬られ役やギャング役を演じる俳優生活がまた始まる。

こんなことがあった。時代劇に出るため、スタジオの化粧室に入ると声がした。「キンちゃん、元気か」。木村功さんだった。「なんだい、ふたりして」と岡田英次さんが入ってきた。別々の撮影なのに化粧室は同じ。青俳、現代人劇場で別れた先輩が両脇にすわる。とりとめのない話に疲れ果ててしまった。

1972年が明けると、連合赤軍のリンチ殺人が社会に衝撃を与える。ある日のデモを思い返した。機動隊にけちらされ、新宿の明治通りで歩道にへたりこんでいたら「赤軍派がトラックに乗って旗をたてて助けにくる」という流言が飛んだ。

むろん妄想にすぎなかった。ただ一瞬とはいえ、胸高鳴らせた責任はやはりある。

新宿の「五十鈴」という店に蟹江敬三と石橋蓮司を呼びだしたぼくは、もう一回集団をつくろうと持ちかけた。清水邦夫を入れた4人で10万ずつ持ち寄り、櫻社を結成した。「櫻の樹の下には屍體が埋まつてゐる!」という梶井基次郎の言葉に、連合赤軍の屍をこえていく思いを重ねた。

櫻社はこの年の秋、清水邦夫の「ぼくらが非情の大河をくだる時」で旗揚げした。アートシアター新宿文化はやはり満員だったが、観客は様変わりしていた。闘争を知らない世代が上の世代を見ていた。

はじめ清水の筆は進まなかった。劇場支配人の葛井欣士郎さんに謝りにいったとき、雑談で「同性愛者の集まる公衆便所があるよ」と聞き、その夜見にいった。木立の中に古い煉瓦づくりの公衆便所があった。たばこの火に照らされた顔が闇に浮かぶ。「書けるかもしれない」と清水はつぶやいた。愛の戦争に敗れた無名戦士の死体が公衆便所の下に埋まっている。そう信じて死体を探し歩く狂気の詩人の物語はそうして生まれた。

73年秋、清水の「泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために?」の楽日。

終演後、ぼくらは新宿撤退を宣言した。清水も蟹江も蓮司も舞台に並んだ。「ぼくらの舞台は衰弱しています。無残なくらいです。ゼロから再出発します」

客席から「帰ってこいよ」「待ってるぞ」と声援が飛んだが、この日から、ぼくは新宿が嫌いになった。

櫻社をつくる半年前、不忍池で見た状況劇場の「二都物語」にぼくは打ちのめされていた。唐十郎が書き、演出した芝居で、池を泳いできた俳優は泥水をしたたらせて舞台に上がった。自分にない演劇的な野性に身も心も奪われ、演出助手で入団しようかと思いつめたほどだ。

観劇した夜、ぼくは突然にも唐に「戯曲を書いてください」と頼んだ。それでできたのが「盲導犬」だった。櫻社で清水作品以外で上演したのは、それだけだ。

新宿の喫茶店で渡された罫のないノートを開くと、アリのように小さな字が詰まっていた。不服従の盲導犬ファキイルをめぐる奔放なイメージに翻弄される。桃井かおりさんを客演に招き、本物のシェパードを走らせた。唐はほめてくれたが、転機に立っていたぼくは産みの苦しみを味わった。(演出家)

蜷川幸雄(20) 撮影の現場

監督の統率力、肌で学ぶ
下積み役者の思いも大事に

映画やテレビがぼくの学校だった。演出助手をしたことがなく、大学で勉強もしていない。だから、映画を懸命に見た。映画監督やディレクターが現場を率いる力を、俳優の目で学んだ。

NHKの名物ディレクターだった和田勉さんには、びっくりの連続だった。青俳にいたころ時代劇に出る機会があった。

まず「オッハヨーゴザイマース」ととんでもない大声で入ってくる。絵コンテを広げ「ハイ、今日のココとココはコーナリマース」。弁当が出たら「ウワー、このテンプラ、衣にくるまれてカワイソーニ! ガハハハ」。

駄目出しもすごい。「ハイ、蜷川君、その100バーイ」。和田さんの手が顔のそばに迫る。「ハイ、そこで目ん玉10メートル飛びダース」

全員が旋風に巻きこまれた。ところが画面を見れば、ピーンとはりつめている。

ぼくでさえ、和田さんの前では羞恥心が吹っ飛んだ。愛嬌があって、後腐れがない。あとで会ったら「オマエはヘタだったなあ、ガハハハ」とやられた。ぼくの演出では、パンパンと手をたたきながら俳優を追いこんだり、休憩を与えず俳優の自意識を消させたりする。これは和田さんに影響された面がある。

篠田正浩さんの監督した「暗殺」(1964年)で、ぼくは血気盛んな幕末の浪士を演じた。面白ければ役を変える篠田さんは宴会シーンで「蜷川君、ここで剣舞をやろう」と思いつく。午前中習って午後には撮る。河原で人を多く見せるため、傘をひとり2本持たせて上から俯瞰で撮った。刺激的な現場だった。

浪士が集団で歩くシーンでは「よーい、スタート。アドバンス!」。前進しろが英語になる。仕切り方がさわやかで、格好いい。「蜷川君、セリフが早いと言われると思うけど、気にするな。スピード変えるなよ」と若さを気遣ってくれる一方で、セリフを勝手に変える俳優には厳しい。スポーティーな篠田さんの現場も忘れがたい。

撮影現場では有名俳優と無名俳優の差が激しい。ロケが終わると、ハイヤー組とロケ用のバスに乗る組に仕分けされる。「ハイ、○○さん、ハイヤー」「ハイ、蜷川君、ロケバース」となる。

テレビの現場では、あるディレクターに「おい、右から三番目の坊や、余計な芝居するんじゃない」と大声を出されたこともある。

ぼくは下積みの気持ちがわかるし、演出家になってからは稽古が始まる前に写真と名前を見比べて全員の名前を覚える習慣をつけた。

こういう演出家になりたいと思わせられたのは、片岡千恵蔵主演の「十三人の刺客」(63年)で有名な工藤栄一監督だ。テレビの仕事でよく呼ばれた。

工藤さんはロケ先で長靴をはき、ひげぼうぼう。寒くてもドテラを着てるだけだった。カメラの位置を低くしようという話になれば、真っ先にスコップをもって穴を掘る。その姿はまるで肉体労働者だった。

どんなにつらくても工藤さんにほめられたいから、皆ついていく。撮影現場はいい作品をつくりたいという心だけになる。

演出家の仕事は80パーセントが俳優やスタッフとのコミュニケーションに費やされる。売れない俳優が現場で感じたあれこれが、演出家の勉強になったと思っている。(演出家)