ポーランド語のテキスト ピーター・フランクル(4)

強い動機あれば上達早く

僕は12カ国語くらい、人と議論できるレベルで話せる。簡単な会話なら30カ国語くらい使ったことがある。よく「外国語をマスターするにはどうしたらいいか」と聞かれるが、強い動機があれば上達は早いものだ。このポーランド語のテキストを買った時も、ある女性と話したいという思いから、習得に時間はかからなかった。

それは1977年、大学を卒業してハンガリー科学アカデミーの研究員になった夏のこと。ハンガリーにある外国人向けのディスコに潜り込んだら、そこに美しいクリスティーナという女性がいた。ドイツ人かと思って、ドイツ語で「踊りませんか」と誘ってみたが通じない。

ポーランド人だった。やむを得ず、同じスラブ系の言葉でかなり似ているロシア語を使った。きちんとした会話ができなくて、いらいらした。軽い気持ちで接したつもりだったのに、彼女が帰ると心にぽっかりと穴が開いた。

そこで僕はポーランド語のテキストを買い求めた。自由な時間のほとんどはこの本に没頭して2カ月。ポーランド語で文通し、彼女が住む町の近くで会う約束をとりつけた。

出国許可を申請し、汽車での長旅の末、なんとか待ち合わせの場所にたどり着いたが、彼女は現れなかった。電報も打ったがダメだった。今になってこの本を見ると当時の切ない思いよりも、これをきっかけに、短期集中型の外国語習得法を身につけたことが頭に浮かぶ。

97年、中国のテレビで孫悟空と一緒に、子どもに算数を教える全26回の番組に出ることになった。中国語で話さなければいけないわけだから、やはり懸命に覚えた。台北と北京へ1週間ずつ留学をしたことを含め、勉強に本腰を入れた。

たくさんの言語に触れたが、一番難しいのは日本語だと確信している。この世界一難しい言語をマスターできた日本の人たちが本気になれば、英語の習得は簡単ではないか。もしそうでないなら学習姿勢か勉強方法に問題があるのだろう。

国際数学オリンピックの賞品 ピーター・フランクル(3)

最優秀者に選ばれ進路決める

縦1メートルはあるだろう。この大きな木彫り作品で描かれているのは、チェコスロバキアの民俗衣装を着た女の子だ。1971年、同国で開かれた国際数学オリンピックにハンガリーの高校生チームの一員として出場し、1位になった。その時にもらった思い出の品だ。

国際数学オリンピックは59年から高校生を対象にして毎年行われている数学の祭典。各国から高校生チームが出場し、2日間かけて問題を解く。一人ひとり解いて、チームの合計点数で競う。第2次世界大戦後、旧共産主義国を中心にして始まり、現在では日本を含め、約100カ国が参加している。

僕が出場した年は15カ国が参加。各国6人のチームで争った。2日間のコンテストの後はチェコスロバキアの観光地を全員で旅行し、高校生同士、数学の問題を出し合って仲良くなった。会場に戻ってくると、ハンガリーチームは、僕を含めて全問正解が続出という。ソ連などに大差をつけて1位になった。

さらに僕は、最も見事な解き方をした最優秀者に選ばれ、この木彫り作品をいただいた。野球でいえば、最優秀選手(MVP)だ。夜にはパーティーが開かれ、新聞やラジオの取材も受けた。これを機に、数学者になろうと決心した。両親は、僕を医師にしたがっていたが諦めてくれた。

数学の魅力は政治などに一切左右されず、純粋に真実を探るところにある。それに紙とペンさえあれば、どこにいても研究できる。後年、フランスに亡命した時、僕はフランス国立科学研究センターに職を得ることができた。同センターからインドや英国などに派遣してもらい、今は日本で研究を続けている。これは数学だから実現できたことかもしれない。

98年、僕は長年の研究成果を評価され、母国の最高科学機関である「ハンガリー学士院」の会員に選ばれた。亡命して国を捨てる思いを味わっただけに、ブダペストで記念講演をした時は感無量だった。今、東京・渋谷にある僕の事務所には、木彫り作品とハンガリー学士院の会員証を大切に飾っている。

大道芸の衣装 ピーター・フランクル(2)

ド派手なパジャマ、笑顔呼ぶ

「こんにちは、ピーターでーす」。街角で、後ろ向きになってお辞儀し、お尻をヒョイッと突き出す。衣装には、お尻のところに「ぴ」「い」「た」と大きな飾りが付いている。集まってきた人たちが、自然と笑い出す。

この衣装は大道芸を本気で始めた1989年ごろにこしらえた。実はこれ、ただのパジャマだ。友達に飾りだけ縫ってもらった。バブル真っ盛りで日本全体が明るかったから、百貨店ではこんなド派手なパジャマをいくらでも売っていた。

前年、僕は勤めていたフランス国立科学研究センターから2年間の予定で日本に派遣されてきた。すでに何回も短期滞在して日本にぞっこんだったので、2年が過ぎても、ここで暮らしていこうと決めていた。

研究の合間には、代々木公園で独り、ボールや棒をお手玉する「ジャグリング」の練習に励んだ。高校時代からの特技で、いつも試験を受けている感覚で完璧を目指していた。服装も普通だった。ところが、あまりにも明るすぎるバブル全盛の空気に化学反応し、僕の中の何かが変わった。

「なんで歩行者天国でやらないの」。独りで練習していたら、いろんな人が声をかけてくる。歩行者天国では、竹の子族と呼ばれる若者たちが踊っている。僕より下手なパフォーマンスでも拍手喝采を浴びている外国人がいる。楽しそうだった。僕も勇気を出してカラフルな衣装に身を包み、おしゃべりをしながら街頭にデビューしていった。

大道芸は、完璧である必要はない。もし失敗しても、例えば無言で10回腕立て伏せをして、「お仕置きでした」とやれば、笑いがとれる。みんなに笑ってもらえるのが何よりだ。

今、僕は日本各地に呼ばれて数学などの講演を続けている。そんな中でも大道芸を取り入れ、一緒に楽しいひとときを過ごしている。医師で博識だった僕の父は、町の名士で、行く先々で様々な人に声をかけられ、会話を弾ませていた。父はユーモアがあって、話を聞く人たちは笑顔で輝いていた。僕は、父のように、人を喜ばせて生きていきたいと思っている。

強制収容所で死んだ祖父の遺品 ピーター・フランクル(1)

ユダヤ人差別、無念さ尽きず

高校生の時、父が古ぼけた小さな紙片を見せてくれた。僕の祖父アーロン・フランクルの名前が書いてある。彼が極貧の医学生だった若い頃、慈善団体の貧民食堂でご飯を食べられるように発行してもらった許可証だ。その後、祖父は開業医になって活躍した。だが第2次世界大戦中、ナチスの強制収容所で殺された。

故郷ハンガリーで、僕らユダヤ人はずっと差別されてきた。大戦中は父も母もナチスの強制収容所に入れられ、銃殺寸前の恐怖を味わった。戦後、結婚し、僕が生まれた時、父は僕に祖父と同じ名前をつけたがったが、母は猛反対した。名前だけでユダヤ人とわからないように平凡な「ピーター」にしたそうだ。

両親は医師で、僕は“箱入り息子”だった。幼い頃、祖父らの悲劇は知らされていなかった。だが7歳の時、知り合いに「ばかなユダヤっ子」と罵られた。母に話したら「差別はなくならないのね」と泣かれてびっくりした。「私たちはユダヤ人だから、あなたにはおじいちゃんもおばあちゃんもいない。殺されたのよ」。そう説明され、しばらくはショックで銃殺される夢ばかり見たものだ。

ある時、親戚の女性と市場に買い物に行ったら、いかにもユダヤ人らしい顔つきの彼女に、店の人が「ユダヤ人?」と聞いた。彼女は否定した。後で「この国ではユダヤ人だと言う勇気がない。もしニューヨークにいたら堂々と言い返せるのに」とつぶやいた。僕が亡命を望むようになった出発点はこの体験にある。

大学で数学を専攻し、フランスに留学してからは当時の西側諸国の人がまぶしく見えた。政府の許可がなくても国を行き来できる自由が僕もほしかった。だが西側へ亡命すると両親が失職する恐れもある。2人が退職した後に実行した。

日本に定住を決めたのは1988年だった。特定の宗教などが絶対視され、信じない人が差別されるような理不尽は日本ではない。仏教も神道もキリスト教も受け入れてしまうこの国の寛容さに救われる思いがした。父も母も、亡くなるまでに何度か来日し、日本を好きになってくれた。

父はよく「もし神がいたら、あんな残酷なことを許していない」と言い、無神論者で通した。この紙片を手にすると祖父の無念、父の悲しみが伝わってきて、今も胸を締めつけられる。

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ピーター・フランクル(数学者・大道芸人 1953年ハンガリー生まれ。ブダペストのオトボス大学卒。79年フランスへ亡命、フランス国立科学研究センターの研究職に就く。87年に同国籍を取得。翌年から日本に定住。子どもに算数を教えるテレビ番組などで人気を得る。ハンガリーの最高科学機関であるハンガリー学士院会員。)

正範語録

実力の差は努力の差
実績の差は責任感の差
人格の差は苦労の差
判断力差は情報の差

真剣だと知恵が出る
中途半端だと愚痴が出る
いい加減だと言い訳ばかり

本気でするから大抵のことはできる
本気でするから何でも面白い
本気でしているから誰かが助けてくれる

(作者不明)