トニー・ブレア(8) 労働党党首に

ブラウンを再三説得
円満な候補一本化に腐心

「話し合うべきだね」。スミスが亡くなった1994年5月12日の朝。スコットランドの労働党事務所で私はブラウンと向き合った。「いいよ、君がロンドンに戻ったら話そう」。ブラウンの声音にははっきりと変化が表れていた。

私は党首選でブラウンと戦いたくなかった。戦いは2人を分裂させ、彼は必然的に私より左寄りになるだろう。重要な党近代化論者が割れるのは望ましくなかった。友人同士が敵になることも恐れた。政治的打算と感情的な恐れが重なり、私はブラウンと対決するのではなく、おだてて党首選に出馬しないよう説得することにした。

協議は議会から離れたいくつかの秘密の場所で行った。私は意識的に最大限の親愛の情を示した。説得というより求婚のような感じだった。ブラウンと私のつきあいは10年以上で、単に職業上の関係ではなく友情と呼べるものだった。後年、関係が悪化し、最後に危険になったとき、2人の親密さが真のものだっただけに、余計つらかった。

私の主張はこうだった。「次期党首についての世論調査で私はトップで、国民とうまくやれるのは私だ。私たちは政策課題を共有しており、協力すれば、君は私を継ぐ候補の一人になるだろう」。だが、後に問題の種になる交換条件があった。私がブラウンが後継者になるのを助ける代わりに、ブラウンが私と協力する。つまり私が党首でいる間は、私が主導権を握ることを認めるというものだった。

私が彼を後継者にするのに同意することが、彼が出馬しない条件という意味での取引はなかったが、お互いの関心について理解はあった。当時、もしたずねられていたら、私は「首相を2期務めた後にブラウンに譲るつもりだ」と答えただろう。ブラウンは能力、貫禄、手腕で傑出しており、それは党にも国にも正しいことのように思えた。

今振り返ると、ブラウンへの禅譲の可能性を言外ににおわせたのは無責任だった。そして、一国を率いる人物かどうかは、政権について初めてはっきりするという事実を完全に無視していた。

ブラウンが私の支持にまわると初めて切り出したのは、初恋の相手のアマンダの家での会談でのことだった。彼は経済政策を意のままにできる力を要求した。経済政策の権限を実質的に譲り渡す文書を取り交わす話すら出たが、私は拒否した。あとはブラウンがどうすれば面目を保ちつつ身を引けるか相談した。

ある日、2人だけで別の知人の家で会談した。1時間ほど話してブラウンは用を足すために席を立った。私は階下で待った。5分、10分、そして15分がたった。私は胸騒ぎを覚え始めた。そのとき、電話が鳴った。人の家だから鳴るままにしていたら留守番電話に切り替わり、相手の声が響いた。「トニー、ゴードンだ。2階のトイレにいるのだが、出られないんだ」

家の改修工事でトイレのドアを付け替えたのだが、内側のドアノブがまだついていなかったのだ。私は2階に上がってトイレの前で言った。「党首選を辞退しないと、出してやらないぞ」

94年6月1日、ビッグベン(国会議事堂の時計台)の下に2人で立って、ブラウンは党首選に出馬せず私の支持にまわると発表した。(元英首相)

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