トニー・ブレア(7) スミスの死

「次の党首は自分」決意
不思議な予感、1カ月前から

1992年7月、労働党党首にジョン・スミスが就任し新体制が始まった。ゴードン・ブラウンは影の財務相に就いた。私はスミスからなりたい役職を聞かれたので、影の内相を選んだ。それは人気のないポストでスミスは驚いたようだが、私は前から真剣に考えていたのだ。

私は犯罪、法と秩序の問題に強い関心を持っていた。伝統的に労働党は厳しい犯罪対策をとることに慎重だったが、私は労働党支持者も犯罪に不安を持っており、法と秩序で厳しい対策を求めていると感じていた。犯罪について左派はそれを引き起こす社会を問題にし、右派は罪を犯す個人を問題にした。だが、私は普通の人はその両方の要因が重なっているとみていると考えたのだ。私は昔ながらの右派や左派を超えた新しい政治に合う犯罪対策を打ち出した。それは、罪を犯す個人にも厳しく、犯罪の原因となる社会問題にも厳しく対処するというものだった。

93年になると私には変化が生じていた。私はブラウンに対する自分の気持ちと戦っていた。92年の総選挙で労働党が4連敗するまでは、ブラウンがスミスの次の党首になると想定し、自分が党首になろうとは思わなかった。ブラウン党首のもとで、自分はその忠実な副官になろうと思っていた。

だがブラウンと議論をするにつれ、これまで気づいていなかったことに気づき始めたのだ。彼の知的な用心深さだ。うわべは賢明にみえても、過去と断固として決別する戦略に沿った指導者にはみえなかったのである。

当時、英国経済は、英ポンドへの投機売りで欧州為替相場メカニズム(ERM)からの脱退に追い込まれるなど苦境にあった。野党・労働党は94年半ばまでには世論調査で、圧倒的とまではいかないまでも保守党をリードするようになっていた。

94年5月12日、午前9時、スコットランド北部の空港から町に向かう車中で、労働党の党本部から電話が入った。スミスが深刻な心臓発作で倒れたという。しばらくしてブラウンから電話があった。私と同様にショックを受けていた。あわてて党の地区本部に戻るとまた電話があった。スミスが死んだのだ。

スミスはずんぐりしていて大酒飲みだった。弁護士として成功し下院では素晴らしい論客で頭脳明晰(めいせき)だったが、酒が彼の命を縮めてしまった。

私を政界に導いてくれたスミスは大きな存在で私は彼が好きだった。だが、彼がいなくなった今、何が起こるかわかっていた。人々が訃報を受け入れスミスの死を悼むとしても、関心はほかに移る。一人の指導者が倒れたとき、それも突発的に倒れたときにはいつでも浮かび上がる問いがある。後継者は誰か?

この瞬間に私は備えていた。時には意識的に、多くの場合は無意識に。私はスミスが急死することを知るよしはなかったが、不思議なことにそうなるかもしれないという予感があった。

スミスの死の1カ月前の94年4月、私は妻シェリーとパリに出かけた。ホテルで目覚めた最初の朝、私はシェリーを起こしてこう言ったのを覚えている。「もしスミスが亡くなったら私が党首だろう。ブラウンではなく。なんだかそうなりそうな気がする」

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