トニー・ブレア(2) 保守党員の父

労働党改革の原点に
上昇志向と思いやり学ぶ

父レオ・ブレアはグラスゴーで造船所の整備工の養父に里子として育てられた。若いころの父はグラスゴー共産主義青年団の事務局長を務めた。そして歩兵として出征し少佐代行になった。戦後は学者、弁護士を経て、活動的な保守党員になった。1964年の総選挙で、父はイングランド北部で保守党が強い選挙区で立候補すべく活動していた。父は聡明(そうめい)で魅力にあふれ野心的な人物だった。

その年のある晩、いつも通り会合をはしごした後、父は脳梗塞に見舞われた。一命はとりとめたが、その後3年間、父は再び話せるようにリハビリに取り組まなければならなかった。母は毎日、一語一語、必死に文章を繰り返して父を支えたことを私は覚えている。一夜にして一家の収入は落ち込み、父の友人の何人かは去った。話す能力は完全には戻らないと診断され、父の政治生命は終わった。

私の政界入りに父は大きな影響を与えた。父と私は、保守党と労働党の政治的垣根の反対側にいたため、かなり激しい議論をしたこともあった。父が私に教えてくれたのは、なぜ父のような人間が保守党員になったかということだった。父は貧しい労働者階級に生まれ、中産階級になることをめざし懸命に働き実力一本で成功した。父と同世代の多くの人は成功を手に入れるとともに保守党員となった。成功と保守党員はコインの裏表だったのだ。

このつながりを断つことが後の私の政治的野望になった。私が労働党を変革したいと思ったのは、父のように上昇志向のある人々の党にしたいと思ったからだ。成功すると同時に、同情心を持ち自分より不遇な人を思いやる。個人だけでなく社会の力も信じる。それは、思いやりも持つ実力主義の労働党を目指すということだった。

母ヘーゼルからも違った形で影響を受けた。母は気品のある美しい聖女のような人だった。恥ずかしがり屋で引っ込み思案。伴侶として父を支えたが心の底では保守党ではなかった。

母は私が22歳のときにがんで亡くなった。容体が悪化したのは私が大学の卒業試験の準備で忙しい時期だったので、父と兄は母の本当の容体を私に知らせなかった。大学を卒業して帰省すると、駅まで迎えにきてくれた父は「お母さんの具合がとても悪いんだよ」と言う。「知っているけど、まさか死にそうなわけじゃないんでしょう?」。私は父が安心させてくれることを期待していた。「いや、どうやら危ないんだ」。それが父の答えだった。

死が直前に迫ったとき、私は母にたずねた。「もう一度若いころにもどって人生を生きてみたい?」。母は答えた。「いいえ。あまりにも多くの苦痛があったわ。もう一度繰り返したいとは思わないよ」

「だけど母さん、人生は幸せだったんでしょう?」「もちろんそうよ。だけど、もう一度繰り返すのは絶対嫌です」。母の言いたいことは今になってわかった。心配と満たされなかった希望、あまりに多くの骨折り。結局、骨折りこそが人生の目的なのだ。

母が亡くなってから人生は決してそれ以前と同じではなくなった。私の中に切迫感が募り、野心が強くなり、人生には限りがあってそれを知って生きなければならないという気持ちが生まれていった。

(元英首相)

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