トニー・ブレア(30) 新しい生活

世界の「平和共存」支援
宗教間の相互理解に尽力

首相を辞めてから約1年後、2008年秋に世界金融危機が起こった。これは1930年代以降、最も重大な経済事件として歴史に残るだろう。危機後の世界では、突然国家がもてはやされ、80~90年代の市場主導の改革は間違いであったかのようにいわれるようになった。まず混乱を整理する必要がある。

第一に証券化商品などは失敗したが、市場のすべてが失敗したわけではないということだ。第二に、政府も、規制も、政治家も、金融政策も失敗したということだ。危機の責任は共有すべきで、市場や銀行だけに負わせるべきではない。

危機に際し市場を安定させるために国が介入するのは正しいが、政府の役割は安定を実現したらできる限り早く退くことだ。危機が当初の銀行危機から政府債務の危機に転じたことは、国や政府にも改革が必要なことを示しているのだ。

労働党は10年の総選挙で負けた。遺憾ながら答えははっきりしている。ニューレーバーでなくなったから負けたのだ。ブラウン前首相個人だけの問題ではない。労働党は敗北の理由に正面から向き合わねばならない。

首相退任後、私は世界各地を駆け回っている。私の活動には共通テーマがある。グローバル化で相互依存が深まる世界で、皆が平和的に共存するために努力することだ。

首相を辞めたとき、まだやり残した仕事があると感じていた。仕事は決して終わることはないのだと思い、私は新しい生活に入っていった。私には政治よりも大きな情熱があった。それは宗教だ。

私は今、世界の異なる宗教間の相互理解を深めることに情熱を注いでいる。なぜ元政治指導者が宗教にかかわるのかといぶかる人も多いが、この問題は21世紀の世界には決定的に重要な問題だ。

グローバル化時代に平和共存を実現するには、異なる信仰を持つ人々が互いに理解し尊敬しなくてはならない。20世紀には政治的イデオロギーの衝突が大きな傷を残したが、21世紀は文化や宗教のイデオロギーの衝突が大きな問題になりかねない。

私が設立したトニー・ブレア・フェース財団は世界12カ国で活動している。異なる宗教学校間の交流、宗教が違う人々の共同作業による貧困削減支援などに取り組んでいる。

首相在任中から重要性を強調していた中東和平問題では、国連などの特使になり、イスラエルとパレスチナの和解を支援している。同様に地球環境保護、アフリカ支援でも活動を続けている。

私は今でも楽観的だ。私が世界で出会う人々が私に希望をもたらしてくれるからだ。よく「今の若い人たちは情熱を失った」といわれる。私の経験はその反対だ。私とともにアフリカ支援などのボランティアに取り組む若者たちは皆素晴らしい。

これまで長い旅路を歩んできたが、もっと先まで行かなければならないという気持ちがある。新しい課題に直面したときにはまだ興奮を覚えるし、大きな目的意識を持っており、それが私を幸せにしている。私には弱いところはまだあるが、それを克服することに人生の意味がある。それがこれまでの人生の旅路で私が学んだことだ。(元英首相)

トニー・ブレア(29) 首相辞任

「自ら引き際」こだわる
ブラウンと最後の綱引き

2005年の総選挙の後、党内では「秩序だった移行」という考え方が広がっていた。要するに「ブラウンへの首相禅譲」という意味だ。ブラウンは私に06年秋の党大会をメドに辞任を表明するよう迫っていた。

06年8月末、私はある英大手紙のインタビューを受けた。その前に側近から次のような助言メモを受け取っていた。「辞任時期を示せば首相の権威が低下し、辞任前倒しの圧力が強まります。07年秋の党大会か08年まで首相の座にとどまるべきです。チャーチル、サッチャーなど成功した首相たちに『秩序ある移行』などありませんでした」

このメモが頭にあったため辞任時期についての質問に「日取りを決めるつもりはない」と断定的に答えてしまい、新聞の見出しは「ブレア、退任時期について党に逆らう」となってしまった。

そして「クーデター」が始まった。9月4日、「ラウンドロビン」と呼ばれる首相辞任を求める労働党議員の連判状が回覧された。ブラウン陣営は我慢の限界にきていた。

6日、私は首相官邸のテラスでブラウンと向き合った。

ブラウン「連判状について詳しいことは知らないし関わっていない」
私「この談合が最後であることをはっきりさせたい」

このやりとりが実際に意味したのは次のようなことだ。

ブラウン『君は僕をほかにどうすることもできないようにした。君が辞めるというのは信用できない』
私『あまり強く辞任を迫るなら、君にクーデターの烙印(らくいん)を押すぞ』

私はブラウンに辞任時期について言質を与えなかった。

7日、私は今回の騒ぎについて謝罪し、まだ辞任の日取りを決めるつもりはないことを明らかにした。同時に次の党大会が私には最後になるだろうと述べた。これで党内はおさまり、私が自ら引き際を決すべきだという意見が大勢になった。

私は「07年半ばまでニューレーバー政策の核となる基本的な政策決定をしてから辞めよう」と決めた。最後の9カ月間、年金、福祉、医療、学校などの改革について一連の選択肢を示すのだ。

10月下旬、ブレアとブラウンの両陣営を集め「未来への道」という政策協議を発足させた。ブラウンが首相になってもニューレーバー路線が続くことを示そうとするものだったが、彼にはその重要性がわかっていなかったようだ。

07年5月、仏大統領に就任したばかりのニコラ・サルコジに会った。全身に力がみなぎっていた。新しい指導者特有の限りない可能性。私は10年前の自分を見る思いがした。「そのうち難しくなるよ」。彼に警告した。「もちろん、わかっている」と彼は答えた。私もそう思っていた。だが実際に経験するまではすべてはわからないものである。

そして6月27日、辞任の日が来た。それは水曜日で最後のクエスチョンタイム(首相質問)があった。私はこうあいさつした。

「政治という場は、時には程度の低いインチキの場であっても、尊い大義の追求の場であることのほうが多いのです。友にも敵にも幸あれとお祈りします」

保守党党首デビッド・キャメロンの提案で、満場総立ちの拍手で見送られた。そして終わった。(元英首相)

トニー・ブレア(28) 最後の2年

教育・年金改革に執念
党献金巡る脅迫に屈さず

首相在任中の最後の2年間、党は反乱を起こしていた。財務相のゴードン・ブラウンは絶え間なく陰謀をめぐらしていた。一方、私も強くなり何でも来いという気分になっていた。矢をはね返す心理的なよろいとでも言うべきものを身にまとおうとしていた。

多くの困難にもかかわらず、自分のやっていることに強い自信を感じていた。今や政策課題を完全に掌握していたからだ。私の政策を理解する閣僚が主要ポストにそろっていた。財務省の嫌がらせがあったが、ブラウンもやり過ぎれば改革に反対だと疑われると恐れていた。

特に学校改革は最終目標にまで進むことができた。職員採用や給与設定をより柔軟にできる学校の導入などだ。

年金・福祉改革も重要だった。英国は他の先進国と同様に高齢化、若年人口の減少、医療費の増大などの問題に直面していた。このままでは将来、公的年金制度の破綻は避けられない。年金給付の責任を国から個人に移す仕組みをつくるべきだった。国は本当に困った人には保障を与えるが、国民がもっと自分自身で老後の資金を確保するほうが良いと考えた。

年金改革を検討する有識者委員会で検討し、国の基礎的年金は維持し、その年金を個人の努力で積み増すことができる仕組みを導入する改革案をまとめた。こうした改革の実行や設計が進んでいたが、これらはメディアで大きく報じられることはなかった。関心は政策よりもスキャンダルにあったのだ。

2006年3月、「現金で爵位を買う」というスキャンダルが表面化した。労働党の資金集めの担当者が、貸付金に見せかけた政治献金と引き換えに貴族院議員になれる爵位を与えることを人々に持ちかけたという話だった。資金提供者の名前が表に出る献金ではなく、貸付金という形で資金を提供するのは当時はよく行われていたことだった。

最初に報じられたときは中規模の事件だったが、3月15日、労働党の財務責任者ジャック・ドローミーがこの件で調査を要求する声明を出したのをきっかけに騒ぎが大きくなってしまった。

この件にもブラウンが関わっていた。前述した年金改革案について私は彼と衝突していた。その最終決定をする重要会合が3月15日にあったのだ。まず午前中にブラウンと2人だけで会った。彼は年金ではなく、党献金問題から切り出し、調査が必要だと言った。私はそれは火に油を注ぎ、党に大きな打撃を与えるだけだと反対した。

ブラウンはそこで、私が年金改革案を棚上げにするなら、調査は求めない。そうでなければ調査を要求すると言った。彼は私を脅迫し、私はそれを軽蔑した。

午後4時、年金改革の協議が始まり、私は改革案通り進めることを主張し、会議は5時に終わった。1時間後の6時にドローミーが調査を求める声明を発表したのだ。この声明発表で警察も捜査に入らざるを得ない状況になった。捜査は私が辞任するまで1年半にわたり続いた。そして、私が首相を辞任した数週間後には何の告発もなく捜査は終結したのだ。

私にはブラウンがドローミーをそそのかしたのかどうかはわからない。だがこの一件で私は政治の本当に嫌な側面を見せつけられたと感じた。(元英首相)

トニー・ブレア(27) 小泉首相

改革者として共通点
公共部門のあり方を議論

私は首相在任中に日本の首相と良い関係を築いてきた。ただ一つの問題は、知り合いになったかと思うとすぐに交代して新しい首相がやってくるということだった。その中で最も印象に残っているのが小泉純一郎首相だ。小泉は他の首相に比べ長い期間にわたってつとめ、その間は日本のリーダーシップが安定した時期だった。

小泉は私が政治の世界で会ったなかでも最も興味深い人物のひとりで、それまでに会ったどの日本人政治家とも違っていた。とても快活で、並外れた個性の持ち主だった。

2005年のグレンイーグルズでの主要国首脳会議(G8サミット)。女王主催の首脳晩さん会でのことだ。

その数日前にシラク仏大統領が英国料理について不用意な発言をしたと報道され、話題になっていた。彼が、プーチン・ロシア大統領とシュレーダー独首相に「料理がとてもまずい国の人間は信用できない」という趣旨の発言をしたというのである。シラク自身はそんな発言をした覚えはないと否定していた。

晩さん会が始まり、コース料理の最初の一品を腹に入れた小泉は、つかえつかえの英語で大声でシラクに言った。「ヘイ、ジャック。素晴らしい英国料理だ。そう思わないかい?」。笑いのどよめきが起こった。シラクは少し意地の悪い視線を小泉に向けたが、その悪ふざけに加わらざるを得なかった。そしてエリザベス女王に向かって、自分は報道されているような発言をしていないと釈明した。

「何を言ったんですって?」。いきさつを知らなかったのは女王だけで、事の次第を初めからもう一度説明することになった。気をよくした小泉は、その後も料理を一口食べるごとに、その素晴らしさをやかましくコメントした。最後にはシラクが副官の銃をつかんで小泉を撃つのではないかとひやひやしたほどだ。

小泉は9・11後に我々が置かれた困難な状況も理解してくれた。私たちは公共サービスの改革者という共通点があり、改革の必要性についてよく話した。21世紀における企業、国家、個人の課題に対応して、どうシステムを変えるべきか。どうすれば永続的な変革ができるのかといったことを語り合った。

彼も出身政党内の反対勢力と戦ったが、現代の指導者は自らの出身政党を超越しなければならないこともある。現代政治で奇妙なのは、大衆の多くは中道の政策を求めているのに、政党は党派色を強めていることだ。政党には様々な既得権益を持つ支持者がいるが、そうした利益集団は公共の利益を代表していない。

私は日本を訪れるたびに楽しんだ。特筆すべき文化があり、日本にいるときにはいつも「世界で最も違う場所に来た」と感じた。日本の人々も食べ物も好きだ。

昨年の東日本大震災という非常に痛ましい出来事への日本国民の対処の仕方についても尊敬の念を抱いている。国全体を打ちのめすような一連の出来事にも負けず、日本国民は立ち上がり、復興に動き始めた。

私は日本が世界で大きな役割を果たしたいと希望を持っていることを知っている。経済面だけでなく地政学上の観点からも日本の重要性を認識している。日本も、他の多くの国と同様に、必要な改革を進め、国をさらに開放する決断がなされるという期待もしている。(元英首相)

トニー・ブレア(26) 勝利と悲劇

サミット最中にテロ
五輪開催決定 歓喜の翌朝

2005年7月2日からの7日間は忙しくなりそうな気配だった。12年五輪の招致活動のためシンガポールに飛んで2日間過ごした後、主要国首脳会議(G8サミット)を開くスコットランドのグレンイーグルズにとって返す。その年は英国がG8議長国だった。

五輪招致案が出たとき、私は実現するとは思っていなかった。下馬評ではパリが断トツだった。開催地を決めるシンガポールでの国際オリンピック委員会(IOC)総会に私が行くべきかどうか迷った。結局行くことにしたのは、最善を尽くさなかったと批判されないためだった。

シンガポールでは多くのIOC委員と会い、妻シェリーやサッカーのデビッド・ベッカムも動いた。5日夜、パーティー会場にシラク仏大統領が現れた。私のひがみかもしれないが、皆が彼のまわりにお世辞を言いに集まったように見えた。私は会場を抜けだしたかったが補佐官が許さなかった。「五輪招致に失敗、サミットも台無し」というのだけはごめんだった。

シンガポールから1晩飛んでグレンイーグルズに直行した。私はG8で2つの目標を掲げた。アフリカ包括支援と、京都議定書後の温暖化ガス削減の原則の確立だ。ブッシュ米大統領はこの議題に不安を抱いていた。もともとサミット嫌いの彼に、この議題に同意させ行動をともにさせようと努力した。彼はアフリカ支援の倍増を表明したが、気候変動問題には懐疑的だった。

6日朝、シンガポールから知らせが入った。まずモスクワが、次にニューヨークが落選。午前10時、マドリードも落選した。残るはロンドンとパリだ。そして首席補佐官パウエルの電話が鳴った。勝った。私は彼に抱きついた。敗れたシラクも私に丁重なお祝いの言葉をかけてくれた。

勝利から一夜明けた7日朝。中国の胡錦濤国家主席との会談の最中に、パウエルからメモが入った。「ロンドンの地下鉄で事件」。1回以上の爆発が起こっているという。朝の通勤ラッシュ時の地下鉄を狙った爆弾テロだった。午前10時ごろ、4回目の爆発のニュースが入った。今度はロンドンのバスだった。

私は深く息を吸った。「G8を中座するか、G8を取りやめるのか、予定を変更し敵を喜ばせるのか」。無情に聞こえるかもしれないが、計算が必要だった。涙を流す時間はあとである。今はリーダーなのだ。

私は各国首脳に事情を説明した。G8を中座すべきか迷っていた。ロンドンに戻るべきだと主張したのはシラクだった。「英国民はそれを待っている」と彼は言った。私はロンドンに戻ることにした。

官邸に戻り事態の把握に全力をあげた。アルカイダの犯行であることは明白だった。52人が死亡、多数の負傷者。英国では過去最悪のテロ攻撃だ。五輪開催の栄冠を勝ちとった直後の、まさに勝利の後の悲劇だった。

その夜、G8に戻った。テロの影響もあって首脳らの団結は強まっていた。皆がG8の課題を支持し、すべてが望み通りではなかったが8~9割の目標は達成した。

G8が終わった8日夜、私は官邸に帰り着いた。幼い三男レオの部屋に入った。ぐっすり眠っていた。これからの人生、彼はどれだけの勝利、どれだけの悲劇、幸せと悲しみを積み重ねるのだろうか。私は自問した。(元英首相)

ドリームキラー

アスリートのメンタルサポートに詳しい福島大の白石豊教授は、選手やチームのレベルアップの大きな妨げになるものとして「ドリームキラー」の存在を挙げる。

夢や高い目標を掲げる選手の耳元で「身の程を知れ」「現実は甘くないぞ」とささやく人たち(メディアも含む)のことだ。親やコーチがそう助言するとき、根底にあるのは善意だから選手の心を惑わすに十分な力を持つことになる。

スポーツの世界で記録更新を阻むのは、肉体より、自らの頭の中に設けてしまう“壁”の方が大きいらしい。陸上男子100メートルで日本人スプリンターにはいまだ10秒の壁がそびえるが、これとて日本人の身体能力の限界はそこらあたりと思い込むと破れるものも破れなくなる。逆に、誰かが9秒台を出すと次々に続く可能性があるらしい。

そういう意味では最初の突破者は非常に重要な意味を持つ。陸上競技ではないが、野茂の米大リーグ挑戦がそうだった。「パワー、スピードに差があり過ぎる。日本野球は通用しない」という決めつけを破壊した。

野茂が活躍すると「投手は成功しても打者は無理」という新手の“殺し屋”が現れた。それはイチローが始末した。これからはダルビッシュが夢の続きを見せてくれるのだろう。

後に続く者たちの心理的負担を軽くし、奮い立たせるという意味ではテニスの全豪オープンでベスト8に進んだ錦織も立派なものだった。この競技も男子はサイズやパワー、スピードの違いから「蚊帳の外」をしぶしぶ受け入れてきた。錦織の80年ぶりの快挙は、かつては野球やサッカーにもあった不必要なコンプレックスを取り払うことにつながるはずである。

ドリームキラーも手ごわい。ダルビッシュが活躍すれば「体格が普通と違う」といい、錦織が頑張れば「タッチが天才的」などと極めて特殊な例で片付けようとする。やる前から「それは無理」と理由を並べ、凡人が夢を持つことを戒める。身動きをとれなくする。

ダルビッシュが札幌ドームで開いた退団会見からは日本で怪物扱いされ続けることへのやるせなさを感じた。戦う前から打てないと白旗を掲げる「褒め殺し」という名の変種のドリームキラーにスポイルされる前に大リーグに行くのだなと。

by 武智幸徳

トニー・ブレア(25) 米欧との関係

同盟、常に重要性意識
英国の影響力 保持に直結

英国人は、首相が国際的に威厳を保つことを好む。そして世界に影響力を持たなければならない。世界での英国の相対的な存在感や重みが変わり、そのように振る舞うのは昔に比べ難しくなった。今の世界ではっきりしているのは、英国は他国との同盟を通じて力を行使すべきだということだ。英国の2つの最良の同盟相手は米国と欧州だ。

私は首相在任中、クリントン、ブッシュの2人の米大統領と良好な関係を築いた。

最初にホワイトハウスでクリントンに会ったのは野党党首だった1996年のことだ。私は政治の達人として彼に敬意を払っていた。会談の間、それが短く打ち切られないよう祈った。「ブレア、冷たくあしらわれる」という新聞の見出しを避けたかったからだ。幸い、クリントンは歓待してくれ、会談時間は予定を上回った。

クリントンと私は政治的に相性が良かった。ともに「第3の道」の哲学を信奉した。それは進歩主義政治を時代遅れのイデオロギーから開放し、政府の役割を改革し、市民と社会の新たな関係を築く試みだ。2人とも形式的スタイルにこだわらず、年の割に考え方も若かった。

クリントンにはまねのできない強さがあった。女性問題で報道が事件一色になっても、彼は「毎朝目が覚めるたびに、国を治め続けるのだと決意を新たにした」と私に語ったのだ。彼は、その並外れた政治能力のため、素晴らしい思想家であるという事実が忘れられがちだった。「コミュニケーションにはたけているが信念がない」という彼への批判は事実ではない。

ブッシュは全く違うタイプだった。彼が賢くないという意味ではない。実際は非常に頭が良かった。彼について「偶然大統領になってしまった頭の悪いやつ」という冗談があるが、偶然で米大統領になれるわけがない。賢くない人間は9カ月に及ぶ選挙戦で生き残れない。

ブッシュの世界観はきわめて単純だった。正しいかどうかはともかく、それが決然たる指導力につながった。これまで会った政治指導者のなかで誰が一番誠実だと思うかとよく聞かれるが、ブッシュは断トツに近い。ブッシュは誠実で政治的勇気があった。

欧州と英国の関係についても述べておこう。英メディアに強い欧州懐疑主義は、英国と欧州の関係をゼロサムゲームととらえ、欧州連合(EU)を満足させることはすべて英国に悪だとみなす。これは保守党のサッチャー首相が残した最悪の遺産の一つだ(もちろん、彼女は疑いなく偉大な首相ではあったが)。

野党党首時代にシンガポールのリー・クアンユー元首相からもこんな助言を受けた。「サッチャー改革を続けよ、だが欧州に対する愚かさは捨てよ。英国が今の世界で欧州の外にいるのは現実的ではない」。新興国が台頭する世界で、英国が影響力を持ち、国益を追求するには欧州との協力が必要なのだ。

私は原則として単一通貨ユーロに賛成で、長期的には英国がユーロに加盟し欧州の経済的な意思決定に完全に参加したほうが良いという立場だ。だが、英国の利益がはっきりしなければ政治的に売り込むことはできない。私の首相在任中にはユーロに参加する条件はそろわなかったが、経済状況が適切になれば国民投票を実施しリスクをとる覚悟だった。(元英首相)

トニー・ブレア(24) 3期目へ

改革貫徹へ辞任撤回
総選挙、内紛乗り越え勝利

2004年、首相就任から7年たった。私はもう十分だという気持ちになっていた。イラク戦争については誠意を持って決断を下した。国にとって最善だと思うことを実行しようとした。だが、メディアは右派も左派もそろって激しい中傷キャンペーンを始めていた。右派は私がいると労働党が勝つので辞めさせようと考え、左派はイラク戦争に心底怒っていた。疲れ果てたというほかない状態だった。

就任当初の楽観主義は消え、一日一日、会議一つ一つが戦いに思えた。私は引退後に住む家も探し、04年秋の党大会で辞任を表明、クリスマスごろに辞めようと考えた。

妻シェリーに相談した。彼女は、自分の思いに正直になるよう促した。そのうえで「ブラウンがあなたと政策課題を共有していると思うなら考えが甘いわ。あなたはただ辞めたいだけなのよ」と遠慮なく言った。

03年11月のブラウン、プレスコットとの3者会談では、私の辞任の意向を口外しないと取り決めた。この約束をブラウンは破った。メディアは私の辞任の可能性を報じ、すでに合意ができていると書き立てるものまで出てきた。

辞任撤回を考えたのは、それよりも首相官邸が財務省と進めていた改革計画づくりの協議が原因だった。改革を次の段階に進める5カ年計画を、ブラウン率いる財務省が支持していないのは明確だった。「ブレアはどうせいなくなるから、話をする意味はない」という声すらあった。

04年5月末、私はブラウンと話をつけることにした。この協議で私がしくじったのは確かだ。我々はお互いをよく知り過ぎていて、夫婦げんかのように、考える前に感情をあらわにしてしまったのだ。ブラウンは高圧的な態度にでた。「君は辞めると約束したではないか」。私が厳しい反応を示すと、ブラウンは、改革を支持しているし、私の辞任の話も漏らした覚えはないと弁明した。どちらもウソだった。話し合いは気まずい雰囲気で終わった。

6月、首相別邸チェッカーズで思いをめぐらせた。私は英国民を心から愛しており、それは恋愛感情に近かった。だが、人々は私を愛するのをやめ、再び愛してくれそうもなかった。私に残されたのは、心から信じることを実行して3期目を勝ち取り、改革を見届けることだった。

私は決意を固めた。少なくとも今は、ひょっとしたら永久に、ブラウンに政権を譲ることはない。翌週、彼にそう伝えた。彼の反応は想像いただけるだろう。

私は改革計画の主導権を取り戻し、財務省の抵抗にもかかわらず作業を進め、それは3期目に向けたマニフェスト(政権公約)の基礎になった。

05年5月の総選挙は不快なものだった。準備段階から内輪もめが起きた。それでも我々は勝った。選挙スローガンは「後ろではなく前を」。未来への行動計画が我々の強みだったからだ。だがブラウン陣営は選挙に勝ったのは「ブレア・ブラウン」の二枚看板で戦ったおかげで、党首がブラウンなら結果はもっと良かっただろうと主張した。

メディアは私がまるで負けたかのように扱ったが、実際は私は負けていなかった。選挙運動中に私は強くなり、指導者としても成長した。弱さ、恐れ、逃げ出したい気持ちは残っていたが、その感情を自分で認め、抑えられるようになったのだ。(元英首相)

トニー・ブレア(23) 大学授業料問題

「首相禅譲」めぐり密約
ブラウンの支持引き出す

対イラク開戦後の数年はその問題に忙殺されたと思われがちだが、実は国内政策も進んでいた。公的サービスに競争を導入し、公的部門と民間部門の垣根を低くする我々の改革には激しい抵抗があった。最も強い異論が出たのは大学財政改革だった。実際、私が辞任の瀬戸際まで追い込まれたのはイラク問題ではなく、大学授業料問題だった。

国庫補助で無料だった英国の大学は、1998年から年間1000ポンドまで授業料をとることが認められた。2001年総選挙のマニフェスト(政権公約)には「授業料は上げない」と書いたが、選挙後すぐに大学の困難な状況がはっきりした。

人的資本に依存する英国のような先進国の将来は、活力ある国際水準の高等教育にかかっている。米国が世界の大学ランキングの上位を占め、英国の大学は一握りで、中国やインドが急速に追い上げていた。英国の大学は平等主義の弊害に陥っていた。教育水準は違うのに財政は一律で硬直的だった。オックスフォード大などの有名大学は授業料を上げる自由を求めていた。

我々は大学に授業料引き上げを認めるかわり、学生は授業料を在学時ではなく卒業後に所得に応じて払う新制度を提案した。大学の収入は年間3割以上増える計算だった。

正しいが決して人気の出ない改革の典型だった。私はこう考えた。人々は、政府の不人気な決定に不満を言うが、最後はリーダーが指導力を発揮してその不満に打ち勝つよう望んでいる。リーダーが指導力を失えば、国民はその政府を切り捨てるだろう。

ブラウン率いる財務省は抵抗した。彼は次の選挙を首相として戦うことを想定し、不人気な政策を避けようとしたのだ。この問題は私とブラウンの戦いになっていった。

ブラウン陣営は「ブレアは『市場化』に傾きすぎ、公平を損なった」「大衆の支持を得るために、意図的に労働党との対決を打ち出している」などと批判し始めた。党内で支持の強いブラウンを放逐すれば政権は崩壊してしまう。

私は、もしブラウンが私に協力し、本当に政策課題を共有するなら、次の選挙前に首相の座を譲ると話して、彼を安心させようとした。

03年11月、私たちは副党首プレスコットの家で会った。授業料の議会表決は数週間後に迫っていた。ブラウンと次のようなやりとりをした。

「私は辞める用意がある。首相は2期やりたいだけだ。だから、改革への妨害はやめてほしい」
「妨害ではない。正当な財政問題を提起しただけだ」
「私が辞めた後、君が改革をやりとげるのかどうか知っておく必要がある」
「無論、そのつもりだ」

席を外していたプレスコットが戻ってきた。私は言った。「私が3期目は務めず、選挙前の辞任をはっきりさせるには、ブラウンによる完全で無条件の支持が必要だ」。プレスコットはそれは理にかなうと言い、我々は別れた。

この会談について、ブラウンは「ブレアは辞めると確約した」と言い、私は「ブラウンは改革への協力を確約した」と主張する。どちらが約束を守り、守らなかったかは読者に判断をおまかせする。

後に私はこんな約束はすべきでなかったと思ったが、この会談でしばしの平和を得ることができた。ブラウン陣営の議員は反対姿勢を撤回し、授業料問題の表決で我々は勝利した。(元英首相)

トニー・ブレア(22) 戦闘後のイラク

治安悪化、相次ぐテロ
首相退任後も消えぬ責任

私はイラク開戦当初から作戦をできるだけ速やかに国連の下に置き、ばらばらになった大西洋同盟を再結束させたいと思っていた。

2003年3月21日、欧州連合(EU)首脳会議のため訪れたブリュッセルで悲報に接した。クウェートでのヘリコプター事故で英海兵隊員8人、米兵4人が死亡したのだ。シラク仏大統領、シュレーダー独首相の2人がお見舞いの言葉をかけてくれた。それは、国際社会の再結束への話し合いのきっかけになった。

私の目標は、戦闘終結後すぐに全政治過程を国連管理下に置くことだった。戦後統治では国際合意をつくりたかった。EUでは、イラク原油収入を国連に信託し、新暫定政権は国民の総意を広く代表すべきだという点で一致した。

米国の説得は難しかった。パウエル国務長官は私の意見に賛成だったが、チェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官は、国連の官僚機構では混乱を招くという意見だった。いつもの通り、最後はブッシュ大統領の説得だった。3月27日の会談で議論し、最後は国連の関与について「原則として」合意した。

米英軍はめざましい成果をあげていた。3月19日からフセイン政権の実質的な崩壊まで2カ月はかからなかった。だが、イラク国内で大量破壊兵器(WMD)は見つからなかった。5月末に私がバスラを訪問するころ、ラムズフェルドは「WMDは見つからないかもしれない」という趣旨の発言をした。

5月29日、国内では別の問題が持ち上がった。英国放送協会(BBC)が「政府は02年9月にイラクのWMD開発に関して発表した文書に、一部情報が誤りであることを知りながら盛り込んだ」と報道したのだ。その後の独立調査委員会の調べで、意図的な虚偽情報挿入の事実はないという結果が出たが、報道の情報源とされた国防省のデビッド・ケリー博士の自殺などいたましい事件を引き起こした。

戦後イラクの最大の問題は治安悪化だった。国内不満分子が、アルカイダやイランと結びついたのだ。自爆テロで市民は恐怖心を募らせ、その責任はテロリストではなく連合軍とイラク政府に転嫁されてしまった。

決定的瞬間は8月19日にやってきた。バグダッドの国連現地本部への爆弾テロでセルジオ・デメロ事務総長特別代表を含む職員20人以上が死亡したのだ。国連はスタッフを退去させ、その多くは数年間は戻ってこなかった。アルカイダの作戦勝ちだった。戦争の余波は誰もが想像した以上に血なまぐさく恐ろしいものになった。

「後悔していますか?」。10年1月、首相を退いた私はイラク戦争に関する独立調査委員会で証言に立った。最後にこの質問が私に向けられた。これは新聞の見出しを狙った質問だった。「イエス」と答えれば「ブレア、戦争について謝罪」。戦争を支持した人々は自分たちの支持や犠牲は無駄だったのかと思うことだろう。「ノー」と答えれば、私は無情な人でなしと思われるだろう。

私は、意に反する見出しを避けるために、決定は私自身がしたことを認め、責任はとると述べた。「責任」という言葉は熟慮の末に使った。責任という概念は今も続く重荷を意味する。首相を辞めた後も私はイラクとアフガニスタンとその犠牲者のことを考え続けている。(元英首相)