松本幸四郎(29) 歌舞伎座

さよなら公演で孫と
勉強の場、先達に思い馳せ

染五郎の長男である孫の齋(いつき)が2009年(平成21年)6月、歌舞伎座で四代目金太郎として初舞台を踏んだ。

「歌舞伎座さよなら公演」の一環で、出し物は「門出祝寿連獅子(かどんでいおうことぶきれんじし)」。4歳だったが、歌舞伎座が取り壊される前に、代々受け継がれてきた金太郎の名で舞台に立たせてやりたいという染五郎の親心であった。

私が初舞台を踏んだ時は、七世幸四郎、初世吉右衛門の両祖父に見守られてだったが、今度は私がその祖父たちの立場にいた。襲名とは「命」をつなぐものだと言った父の言葉を改めてかみしめた。

翌10年4月の歌舞伎座最後の公演では、私が松王丸を演じる「寺子屋」で、金太郎が菅秀才役を勤めた。60年ほど前、私が勤めた同じ役を孫が勤めている。自分にとってはまさに奇跡に近い喜びであった。

歌舞伎座は戦災で焼失した建物を復興し、1951年(昭和26年)の開場以来、歌舞伎の殿堂、戦後歌舞伎の象徴として多くの人に親しまれてきた。歌舞伎座開場時、私は8歳で「喜撰」の所化役で出た。天井からライトの破片が落ちてきてびっくりした思い出がある。歌舞伎座は若手にとって先輩の舞台を通して勉強する場だった。先代勘三郎の大叔父(おおおじ)、歌右衛門の小父ら、今は亡き名優の胸を借りて演じたことは私の宝である。

今の歌舞伎は播磨屋(初世吉右衛門)の祖父、七世幸四郎の祖父それに六代目(菊五郎)の小父さんたちが、写実を追求する中で歌舞伎に心理描写を取りいれた。ロマンや情緒を嗜好する大正、昭和初期そして戦後の合理主義のお客様に合うよう、古い型にとらわれず、歌舞伎を柔軟にとらえていたのだと思う。

また、祖父たちは十八番物に代表されるいわゆる荒唐無稽な歌舞伎を演じるときはそこに必ず「洒落(しゃれ)っ気」を加えていた。今、私の演じている歌舞伎は若いころの歌舞伎勉強会「木の芽会」で習ったその時代の老優たちの歌舞伎である。

自分が行き詰まるといつも彼ら古老たちの歌舞伎に思いを馳(は)せ、先達たちに問いかける。シェークスピアの「ハムレットのことはハムレットに聞け」ではないが、「歌舞伎のことは歌舞伎に聞け」である。

歌舞伎は文楽でも、能、狂言でもない「歌舞伎劇」なのである。舞台で役者は歌舞伎の踊りを踊り、歌舞伎のセリフをしゃべらなければならない。

私が「魚屋宗五郎」を05年に初役でやった時、芝の明神様の祭りの日の出来事なのに門口に提灯(ちょうちん)がない。お通夜の宗五郎の家の内と、外の祭りの陰と陽の対比が悲劇性を際立たせるわけで提灯をつけてもらったら、稽古を見た芝翫兄さんが「これが正しい」とおっしゃった。以前は提灯があったという。

また殿様に妹を殺された宗五郎が、屋敷に怒鳴り込む場面で「殿のデコスケ」と台本にあった。しかし、原本は「殿の野郎」とあり、私は原本に戻してやってみた。

型を自分勝手に解釈し「セリフも型もかたなし」にするのはダメである。発声も形も歌舞伎の根本にかなっていなければならない。「本当にいい古いものは新しい」。そういうことのわかる人が、日本のいいものを残してきてくれたのである。

(歌舞伎俳優)

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