松本幸四郎(28) 「勧進帳」の弁慶

見たい人の元へ行脚
常に全力、祖父の偉業を実感

一通の絵はがきが私の目を見開かせた。10年前のことで、差出人は沖縄の女子大生。歌舞伎好きの父親が東京までは見に行けないので、沖縄で「勧進帳」を上演してほしい、と書いてあった。

東京で働いておられたお父さんは、父白鸚の弁慶が大好きで必ず見に行かれていたが、沖縄に戻った後、数年前に病に倒れたということだった。

これを読みハッと思った。本当に見たいとおっしゃるお客様のところへ出向いて行って、歌舞伎をお見せするのが大事な歌舞伎役者の勤めだと。こうして私の「勧進帳」行脚が始まった。便りから3年後の2004年(平成16年)11月、那覇市での歌舞伎公演が実現した。沖縄で初めての歌舞伎公演である。

地方を回って、祖父七世幸四郎の偉業が実感できた。祖父は生涯で「勧進帳」の弁慶を1600回以上も演じている。それも都会の大劇場ばかりでなく、地方の公会堂や学校の講堂、古い芝居小屋など様々な場所で演じた。映画館のスクリーンの前にベニヤ板を敷き、花道もないところで弁慶をやったこともあったという。

敗戦後の日本にあって、どれだけ人々を勇気づけたか、そうやって祖父は「勧進帳」を今日の人気狂言にしたのである。

晩年、祖父は心臓に病を抱えていた。ある時、花道を六方で引っ込むと、そこにうずくまってしばらく動けなかった。四天王で出ていた父(白鸚)は、体のことを考えて演じたらどうかと言った。すると祖父は「今日初めて、幸四郎の弁慶をご覧になるお客様もいらっしゃるんだ。そんなことはできない」と答えたという。

私は16歳で「勧進帳」の弁慶を初演してから、半世紀以上を経た昨年の夏、茨城県土浦市の公演まで1046回演じた。この時点で、私の弁慶は全国47都道府県をすべて巡演した。

九代目幸四郎の襲名公演(1981年)での「勧進帳」のビデオを病床にあった父が見て、「ああ、オヤジ(七世幸四郎)の弁慶が残った」と言った。父はきっと祖父の弁慶を知らない私のどこかに祖父の面影を感じたのかもしれない。その父のひとことで私は祖父、父、自分と芸の命をつなぐことができたと思った。

旅公演で三代の弁慶を見てくださった老齢のお客様が終演後、楽屋に訪ねてみえ、涙を流して私の手を握ってくれたこともあった。

 そしてついに08年10月15日、奈良・東大寺の大仏殿の前で、千回目の弁慶を勤めた。満月が空に浮かび、5千人の観客見守るなか、僧侶の声明朗誦(ろうしょう)の後、●(き、きへんに斥)が入り片シャギリの笛と太鼓の音が奈良春日の山々にこだました。東大寺で歌舞伎が演じられたのは初めてのことだった。

私が還暦を迎えた02年、「ラ・マンチャの男」の千回公演達成で永山松竹会長からお祝いの電話をいただき、「幸四郎なら勧進帳も千回やって幸四郎だろう」と言われた。それが東大寺での公演につながった。

力みがあった若いころの弁慶に比べ、最近は弁慶が舞台の上でその一瞬一瞬を生き「今在る我でよし」と思えるようになってきた。いつの日か父のように「弁慶とはこういう人なんだね」と言われる舞台を勤めてみたい。

(歌舞伎俳優)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。