松本幸四郎(19) 松竹復帰

九代目幸四郎を襲名
周囲の風当たりに父が決断

18年ぶりに松竹に戻ったが、歌舞伎の世界は良くも悪くも、狭くて壁に囲まれた世界であった。先に戻った父が「昔よりもひどくなったところもある」と言っていたのもわかる気がした。

松竹復帰の第1回公演は、1979年(昭和54年)3月の歌舞伎座だった。昼の部は舞台版の「黄金の日日」、夜の部は「金閣寺」「侠客春雨傘」「権三と助十」「どんつく」。息子の金太郎(現・市川染五郎)が「侠客春雨傘」で初舞台を踏んだ。

同世代の役者が成長していて、公演の中でも柱の役を演じるようになっていた。相撲でいえば稽古不足で本場所を迎えたような気持ちで、焦燥感もあった。年齢的には30代半ば、上の世代は芸のピークの時期にあり、一緒に舞台に出ていてつらい時期だった。

80年、37歳で芸術院賞を受賞したが、若くしてもらったことで、露骨な嫌みを言う人もいた。父と私たち兄弟が東宝へ移籍したのを機に、ゴシップ記事が数年間、某週刊誌に定期的に載った。筆者はある新聞記者で、私と同年配の役者の父親が、その記者に鼻薬をかがせて根拠のない情報を吹き込み、私たち親子の悪口を書かせていた。いわれのない中傷にいたたまれない気持ちになったが、役者は舞台でそれを跳ね返すしかないと思ってやってきた。松竹に戻っても、周囲の評価に対してはやはり舞台で答えをみせるしかないと肝に銘じた。

私に対する風当たりが予想以上に強かった状況を見て、父は「襲名しかない」と考えるに至ったようだ。私に九代目幸四郎を譲る決心を固めた。体調もすぐれなくなり、目の黒いうちに幸四郎の名前を譲っておきたいという気持ちが働いたのだ。

叔父の松緑に相談した後、松竹の永山武臣会長(当時副社長)に、「染五郎に幸四郎の名前を譲り、金太郎に染五郎を名乗らせる。自分は白鸚という名前にしたい」と申し入れた。永山会長は父に「元気になられてからのほうがいいんじゃないですか、少し延ばしては」と言ったが、父は「それでは遅すぎる」と主張して、最終的に了解を取り付けた。白鸚というのは、七世幸四郎の雅号であった。

3代襲名公演は81年10、11月の2カ月にわたり歌舞伎座で行うことになった。80年11月の襲名発表の場で父は述べた。「(新幸四郎には)歌舞伎俳優として大成してほしいが、ミュージカルを捨てる必要はない。高麗屋の家は父(七世)の代から新しいことが好きで、父も私も新しい道を歩んできた。息子は私とは違った歌舞伎を作り、違った幸四郎になってくれればいい」

染五郎の名による最後の公演が、81年7、8月の帝劇ミュージカル「スウィーニー・トッド」で、日本初演の舞台だった。演出は早稲田小劇場(現SCOT)を主宰する鈴木忠志さん。産業革命で生活を破壊された人々に、高度管理社会で行き場を失った現代人の姿をかさね合わせた斬新な演出だった。

その千秋楽を終えて、ミュージカル俳優であり歌舞伎役者であることについて、私の決意を聞かれた。「生木を裂かれるような思いではあるけれど、どちらも僕は、一生懸命やっていきたい。将来どうなるかわからないけれど、続けていくしかないと思っている」と答えた。

(歌舞伎俳優)

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