松本幸四郎(9) 青春の迷い

束縛ない同世代に羨望
父の舞台見て役者の道決意

1956年(昭和31年)、今、東京都知事を務めておられる石原慎太郎さんが「太陽の季節」で芥川賞を受賞し、弟の裕次郎さんも映画に華々しくデビューした。彗星(すいせい)のごとく登場した石原兄弟がまぶしく見えた。我ら歌舞伎の兄弟も負けてはいられないと思っても、あくまでそれは夢でしかなかった。

「太陽族」などという言葉に表されるように新しい若者文化が台頭する中で、私は母に向かって「もう歌舞伎は辞める」と言った。何ものにも束縛されずに、のびのびと羽ばたいている同時代の若者たちへの羨望があったのだと思う。

2人の息子を高麗屋(幸四郎家)と播磨屋(吉右衛門家)の跡継ぎにすることを夢見ていた母にはショックだった。このことで毎日、夜中まで母と言い合っていた。

「あなたたちが役者を辞めるなら、私は生きちゃいないわよ」と母が言ったことがあった。冗談とも本気ともつかないその言葉は、主婦になった天才の有無を言わせぬ正論であった。

この件に関して父は黙っていた。舞台を終えて帰ってきた父は、一言も発しないで黙って私たち母子の言い合いを聞いてくれていた。そんなある日、歌舞伎座で昼の序幕から大きな声を張り上げて懸命に「車引(くるまびき)」の松王丸を演じている父の姿を見た。昨夜、反抗期の息子の我が儘(まま)を黙って聞いていたその時の父が舞台上の父と重なり、胸が熱くなり、もう一回役者の道を歩もうと思い直した。

60年の歌舞伎座初芝居で初めて劇評で褒められた。「双蝶々曲輪(ふたつちょうちょうくるわ)日記」の「角力場(すもうば)」で父の濡髪(ぬれがみ)を相手に放駒を演じたのだが、演劇評論家の戸板康二さんが「若い力士の悲しみと憤りが的確に描かれた」と青年俳優染五郎を評価してくださった。一緒に出ていた先代勘三郎の小父(おじ)に「今月はおまえが一番評判がいいな」と冷やかされた。

子役時代が終わり変声期のころから役といえば「道成寺」の所化(しょけ)や「長兵衛」の子分など、役らしい役がつかず、中途半端な時期が続いていただけに、この劇評はうれしかった。「自分を俳優として最初に見いだしてくれた人を決して忘れてはいけない」、その時思ったことを同じ俳優活動をしている子供たちにも常に言っている。

同年3月、歌舞伎の勉強会である「木の芽会」の第1回公演が文京公会堂で開かれた。私は「忠臣蔵」五、六段目の勘平を演じた。勘三郎の小父が手取り足取り教えてくれて、これも好評だった。

高校を卒業するに際して、大学に進むか、役者に徹するか、進路に迷った。進学を勧めたのは母だった。ただし、「早稲田だけ受けなさい。早稲田を落ちたら役者に徹しなさい」という条件だった。

母はバンカラな気風の早稲田大学が好きだった。言い出したら選択の余地がない母の勧めだったが、いざ受験となると受験準備も必要だ。そこで高校3年生になると、今はなくなったが、神田の研数学館という予備校に通うことになり、国語と日本史を勉強した。予備校帰りに気の合った仲間と銭湯に行き、ラーメンを食べたりして、結構、受験生生活を楽しんだと思う。

早稲田では第一文学部を受けることにした。しかし、このころ歌舞伎界を揺るがす大きな事件が舞台裏で進行していた。

(歌舞伎俳優)

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