松本幸四郎(6) 染五郎襲名

父「芸は自分で覚えろ」
幼い時から踊り・長唄修業

終戦後の物不足は大変だった。久我山に住んでいたころは、近郊の農家に行って、着物などと交換に食べ物をわけてもらったりもしたようだ。

くる日もくる日もカボチャばかりの時があった。当時、ばあやが身の回りの世話をしてくれていて、毎日「甘いカボチャでごはんにしましょ」というのだが、それが甘くもなんともなかった。おなかがすけば乾燥イモという、こんな食事状態がしばらく続いた。

そのばあやは、村杉たけといい、初世吉右衛門家で働いていたことがあり、母の正子が嫁ぐのと一緒に来てもらったのだ。

父はほぼ毎月、舞台があるので滅多(めった)に家にいない。母もマネジャーのような存在で、劇場に行っている。だから、ばあやが母親の代役だった。ばあやが夕飯を作ってくれて、弟とその下に生まれた妹と4人で食べる。よく出るおかずが、カツオを煮たナマリだったのを覚えている。

歌舞伎役者の修業は、幼いころから始まる。基本となるのは踊り、ほかに長唄、義太夫、鳴り物などで、それぞれの師匠について芸を学ぶ。

初舞台後も子役として舞台に出ていた。1947年(昭和22年)には祖父幸四郎の「靱猿(うつぼざる)」の小猿をはじめ、「夏祭浪花鑑」では伜(せがれ)市松、「幡随長兵衛」でも子の長松を祖父吉右衛門の長兵衛で勤めた。長松で下から見上げていた長兵衛の祖父が顎をいつも緩めるようにガクガクさせていた。子供心に不思議だったが、西洋風の発声法にも下顎を緩めるテクニックがあるのを後に知った。それと同じだった。今も目に残っている。

秋には東劇で祖父の盛綱で、小三郎をやった。よろいを着て刀を差し、兜(かぶと)を持つのがうれしくて、毎日早く仕度(したく)をして待っていたらしい。花道でも見得(みえ)を切って受けていたという。

48年の夏、渋谷に引っ越した。新しい家には子供部屋も出来た。父が「吾兒(わがこ)の生立(おいたち)」に書いている。

「君の舞台のおちつきに皆驚ろく、お父さんも君に負けづに舞台にはげむ さてそろそろ学校の仕度にかからねばなるまい。お父さんが子供の時、七銭だった電車賃が今七円だ。此(こ)のインフレの中で日本人は何とか生きかえろうとしてゐる。長い長い苦しさをきりぬけて君達の大きくなつた時はよい世の中にしたいと思ふ」(7月19日のサマータイム9時とある。当時日本は夏時間を実施していた)

この年の11月、東劇で祖父吉右衛門の清正で秀頼をやったが、「かつお売り」で踊りの初舞台も踏んだ。後見を先々代の花柳寿輔師が勤めてくださった。藤間政弥さんの引退舞台では「山姥(やまんば)」の金太郎(怪童丸)を踊った。

しかし49年1月に祖父の七世幸四郎が亡くなると、これを受けて同年9月、父が八世幸四郎、私が六世染五郎を襲名した。父は「勧進帳」の弁慶と「ひらかな盛衰記・逆櫓(さかろ)」の樋口次郎、私は富樫の太刀持ちに「逆櫓」の遠見の樋口をやった。11月には「盛綱陣屋」の弟高綱の子、小四郎の役が回ってきた。

父は常に言っていた。「弟子は師匠の悪いところを真似(まね)て、いいところをとらない。自分で覚えろ」と私にあまり教えなかった。芸の伝承の難しさを実感させる言葉である。

(歌舞伎俳優)

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