松本幸四郎(5) 初舞台

出番間近に泣きわめく
歌舞伎好き米将校がエール

日光で8カ月ほど過ごし、1945年(昭和20年)10月末、一家は東京の久我山に家を借りた。11月には両祖父(七世幸四郎、初世吉右衛門)が東京・築地の東京劇場(東劇)に出演するなど歌舞伎も、戦後の焼け跡の中で復活の兆しを見せ始めた。

私の初舞台が翌年5月、東劇で行われた。「助六」の外郎売(ういろううり)の子供の役で、芸名は松本金太郎とつけられた。

外郎売りの父に手を引かれ舞台に出た。祖父幸四郎の助六、祖父吉右衛門の意休、六代目さん(菊五郎)が揚巻を勤めるという豪華な顔ぶれだった。父の兄海老蔵(十一世団十郎)が福山、弟の松緑(二世)が朝顔仙平をやってくれた。

初舞台を祝って、吉右衛門の俳句の師であった高浜虚子先生が、「幼きを助け二木(ふたき)の老桜」と詠んでくださった。二本の老桜とは両祖父のことである。

しかし、3歳の私は、出番間近になると舞台に出るのを嫌がり、泣きわめいた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を母の胸元にすりつけるものだから、母の着物が涙で流されたおしろいで汚れて困ったと聞かされた。確かに何千人の観客を前に、舞台を照らす煌々(こうこう)としたライトが怖かったように覚えている。子供心に抱いた芸への畏れ。けれども歌舞伎の本当の恐ろしさを、もっと後になって知るとはこの時、まったく思いもよらなかった。

私の初舞台に、この10月に亡くなられた芝翫兄さんも並び傾城で出ておられた。口上の間中、「なんでこんな子供のために、じいっとして、いなければいけないのかと思ったよ」と当時の様子を語ってくれたことがあった。だが、私としてはいや応もなく初舞台を踏んだわけで、スタートから「高麗屋(幸四郎家の屋号)の進取の精神」も何もあったものではない。

この初舞台を歌舞伎好きの米国人が見ていた。フォービアン・バワーズさん。戦前に歌舞伎ファンになり、終戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の副官として日本に来た。GHQは、民主主義を日本に根づかせるため封建的な思想を助長するようなものの一掃をはかり、歌舞伎の演目でも、封建時代の主君への忠義や切腹などの犠牲を描いた芝居は上演が禁止された。そうした苦境を憂慮したバワーズさんが演劇担当官になり、その尽力のおかげで上演禁止令は廃止された。バワーズさんは間違いなく、戦後の日本歌舞伎界の恩人である。

バワーズさんの所感が当時の新聞に掲載された。「この子供の初舞台は、相異る意見や思想を持つ劇団が漸次統合されるとの象徴であり、歌舞伎といふ一つの芸術に献身する単一の歌舞伎グループを示唆するものである」

楽屋にやってきたバワーズさんが、私を抱いた写真がある。白粉(おしろい)や鬢(びん)付け油が混ざった独特の匂いのある歌舞伎の楽屋に、バタくさいというか、違った匂いを持つ将校姿のバワーズさんのおもかげを記憶している。度々、祖父や父の楽屋を訪れるバワーズさんのジープに乗って劇場に通ったこともあった。

後にミュージカル「ラ・マンチャの男」で米国に単身行った時も見に来てくださり、私が幸四郎襲名後も「逆櫓(さかろ)」などの歌舞伎や現代劇「アマデウス」も見てくださった。私の演劇のかけがえのない理解者であると感謝している。

(歌舞伎俳優)

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